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書籍紹介(『カルロ・ロベッリの科学とは何か』)

哲学史の講義があれば、普通、最初に取り上げられるのが、古代ギリシア、イオニア地方のミレトスの三人です。タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネス。私も、この三人から話を始めます。それは、アリストテレス以来の伝統であり、様々な疑義にさらされながらも、今に至るまでスタンダードであり続けています。

では、どうしてこの三人なのか。「自然について、神話的な説明をしなくなったからだ」というのが、その主な理由でしょう。私も、そういった説明をします。ただ、それだけではない。何よりも「哲学」という営みにとって重要なことは、アナクシマンドロスがタレスの弟子だと言われているのに、タレスの見解に異を唱えていることです。これはすごいことです。だから、この点を強調して、この三人を語る。

先日、衝撃的な本に出会いました。以前から「これは読まなくては」と思っていたのですが、目の前の仕事に追われてなかなか手をつけられなかったのです。しかし読み始めて、私は自分の不明を恥じるばかりでした。


アナクシマンドロスの思想が、人類にとって決定的と言っても良い科学革命だとする著作です。同時に、最先端の理論物理学者として、科学という営みについて論じています。本職が物理学なのに、アナクシマンドロスを論じる手際は、巷の哲学研究者がまるで適わないほどのものです。

その内容については、是非、自分の目で確かめていただきたいと思うので、ここでは触れません。ただ、哲学史を教える立場の私が、一番ショックを受けたことを書いておこうと思います。

アナクシマンドロスは、私たちが知る、最古の哲学著作を残した人物です。しかしその著作は、たった二行ほどの断片しか残っておらず、それ以外は、後代が彼に言及した間接的な伝承のみとなります。

私は、イオニアの哲学者達の次世代にあたるパルメニデスについて、かなり突っ込んだ論文を書いたことがあります。彼の場合、自身の書いたテキストがかなり残存しており、それだけで彼の思想を論じることができます。ソクラテス以前の哲学者を論じる場合、その参照テキストは、いわゆるディールス&クランツ(DK)と呼ばれるものがいまだにスタンダードです(近年、新たな校訂本が出ていますが)。DKでは、それぞれの哲学者に、「A:生涯と思想」、「B:断片」という二部があって、前者が後代の伝承による報告、後者が真正と見なされる断片となっています。パルメニデスの場合、Bがかなり残っているので、それだけで彼の思想を論じることができるのです。

こういった次第なので、これまで私は、それぞれの哲学者のAの資料をそれほど重視してきませんでした。その結果、アナクシマンドロスであれば、わずかに残っている二行ほどの断片を重視しなくてはと思ってきたのです(ハイデガーは、たった二行のこのテキストについて延々と論じています)。とはいえ、彼の場合、哲学史的に重要なのは「アルケーはト・アペイロンである」と主張したことだとされてきました。そして、この主張は、Bの真正断片ではなく、Aの方にあるのです。しかし私が彼の思想を論じる場合、この主張だけは取り上げておきながら、(恥ずかしいことに)それ以外のAの伝承に目を向けることがありませんでした。

ところが、そうしたAテキストの中に、現代へと直結する科学的精神が数多く含まれていたのです。「大地は宙に浮かんでいる」(なんとすごい洞察!)とか「風は空気の流れである」といった驚くべき主張が、そこには書き残されていたのでした。しかし私は、まるでその価値が分かっていなかったのです。つまりロベッリが注目する「最初の科学者=アナクシマンドロス」にまるで目を向けていなかったのです。

従来の読みに拘泥するな、とか言って、学者仲間の内にできるまなざしの硬直を批判しているくせに、自分自身が、見事に硬直した読みをしていたわけです。

上記の著作の後半で展開されている「科学論」も現役の科学者(著者のロベッリは著名な理論物理学者です)の視点から語られており、非常に読み応えがあります。自分を持ち出すのはおこがましいですが、私が普段、科学というものを説明するときとほぼ同じ事が書かれています。

科学の価値を論じると、ヨーロッパ中心主義だとか、価値の相対性を無視しているだのという批判が出てきますが、「世界の理解」ということに限れば、科学が最良の道であることは疑いありません。いくら文化的な相対主義を唱えても、「大地は平たい」という中国の地球理解は、「大地は丸い」というヨーロッパの地球理解にはかなわないのです(実際、本書に書かれている通り、中国人は、ヨーロッパの学説に触れた時、ただちに自分たちの誤りに気がつきました)。もちろん最良であることは絶対であることを意味しません。自らの知が絶対ではないことを一番意識しているのはほかならぬ科学者自身だからです。

本書は、ポパーやクーン、ファイヤーアーベントなどの説を手際よくまとめていて、その点でも初学者にはよい勉強になるでしょう。とにかく非常に読みやすい本です。哲学や科学について基礎的な学びを得たいと思うなら、必読と言って良いと思います。


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