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誰もが気を張って生きているこの時代で眩しいほどに


ゆるく生きている男がいる。それが私の友達、喜屋武くんだ。


喜屋武くんは、沖縄の石垣島出身。なんくるないさ精神を全身にまとい、語尾に「◯◯んちゅ」をつけておきさえすれば大体のことは許されると思っている。

会うと大体、ちょっとかわいこぶってこんな顔をしている。

新宿二丁目のゲイバーに見える写真の店は、私が月1店長をやっている有楽町のソーシャルバーPORTO(http://porto.tokyo/)。喜屋武くんはオーナーの一人。


そんな喜屋武くんが7月の頭に、「サバイバルきゃんチャレンジ」と題して突如節約生活を始めた。

要は、給料日まで2週間を残して残金21,054円の喜屋武くんが、必要な支出分を除くと1日530円しか使えない中で、他人からお金を借りないことをルールになんとかしのぐというこのチャレンジ。

残金2万円という大学生みたいな状況も理解不能だが、「他人からお金を借りないこと」がわざわざ大前提に置かれていることも「あー察し」である。

さらに食費の足しにするために、このチャレンジ中は毎日1本noteを書いて100円で販売するから「ポチってくれ」とまで言う。

驚くほど甘ったれた内容に、「よくここまで大きくなれたもんだ」と感心するのと同時に、絶対に課金するまいとの決意を固くした。


しかしやはり、気にはなる。


どうしても気になったある日、喜屋武くんのnoteを訪れると、そこには驚くべき光景が広がっていた。




テヘペロの使い方としては満点だ。



冒頭、彼のことをゆるいと書いたが訂正したい。
正確には、「ゆるい」のではなく、「甘い」。それが喜屋武くんだ。


そして一度もnoteの更新がないまま、サバイバルきゃんチャレンジは終わった。


終了報告の末尾にはこうあった。


そもそも、「なんで給料日まで半月以上もあるのに、残金2万ちょっとしかないの!?」っていう話なので、根本的な問題はまだ解決していません。
というわけで、きゃんチャレンジはまだまだ続きます。
引き続き、生温かい目で見守っていただけたら幸いです。
自分ひとりじゃどうにもならなくなったときは、がんばってSOS出すので、誰か助けてください(笑)


最後の一文を読んで、私はまたも感心した。


この男、やるやる詐欺を盛大に働いてなお、
人に甘えようとするのである。
助けてもらえると思っているのである。甘い。甘すぎる。

これはなかなかできることではない。私だったら恥ずかしくてできない。約束を守れなかったんだから、助けてもらえる資格もない。フェイドアウトする方がよっぽど楽だ。そもそも、自分が窮地にある事実をオープンにすることだって、恥ずかしくてできない。そう思った。でもちょっと待った。「恥ずかしい」って、何が?


恥をかかないことの価値とは

避けたいと思ったその「恥ずかしいこと」とは一体何なのか。嫌なことだと思っていたことのはずなのに、頭をひねって出てきたのはこれだけだ。

笑われる。バカにされる。イメージが崩れる

イメージなんてそんなもの、あるかどうかもわからないのに。

小学生の頃だったら、たしかにこれではいじめの標的だ。致命的だったかもしれない。でもいまはどうだろう。人に迷惑をかけるでもない失敗でバカにしてくるような人は友達にいらない(というか何であってもバカにしてくるような人は友達にいらない)し、仲のいい友達や家族であれば、叱ってくれることはあるかもしれないが、そのうち笑い話になるだけだ。

そう思うと、実は案外何も守れていない面子や体面を気にして自分だけで問題を抱え込むことに、大した価値はない。表に出してもいないことを自分ひとりで解決したって、誰にも褒めてももらえない。

だがしかし、相手にどう思われるかの恐怖を乗り越えて弱みをさらけ出し、素直に人に助けを求めることは、難しい。付き合ってる相手や家族相手でさえ難しいこともある。

それを軽くやってのける喜屋武くんに、私はイラッとするのと同時に、救いを感じてもいた。こんなふうに人に助けを求めても別にいいんだなと。

全部自分でできる必要なんて、ないのかもしれない

昨日、あまりにも悲しいニュースがあった。順調そうに見える、それも同い年の人が、こんなにも突然死んでしまうのか。誰かに助けを求めることはできなかったのか。いまだに信じられない。

自分のことは自分でできることが是とされる世の中であるが、私だって助けを求めたら、助けの手はおそらく存在する。そもそも助け合いを前提とすれば、なんでも自分でできる必要なんて本当はないのかもしれないし、男女の性差で得意不得意があるように、人間は一人で何事も完結できるようにはできていないのかもしれない。むしろ、私たちはなぜ自分のことは自分で全部できなきゃいけないと思うようになったんだろう。

人に頼ることを厭わない喜屋武くんの存在は、抱え込みすぎて辛くなってる人の気持ちをきっとふっと緩めてくれる。終戦記念日に沖縄に生まれ落ちた喜屋武くんは、やはり平和の子なのかもしれない。疲れた人は、ぜひ有楽町のPORTOに会いに行ってみてほしい。(先週からお店が開き始めました)

そんな喜屋武くんは、世の中のためにはそのままでいいのかもしれない。でもそれはやはり君のためにそれでいいということとは違うのだ。だからもうちょっと、がんばろうか!

追伸) PORTOの営業再開の件が、昨日の日経新聞に載りました!

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