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リアリティラインとは|物語

リアリティラインという言葉を知ったのはごく最近だが、その意味する概念については、以前から気になっていた。

リアリティラインとは? 自分は物語論の専門家ではないし、その方面の文献を読み漁ったわけでもないから的外れなことを言っているかもしれないが、まぁでもたぶん、それほど間違ってもいないはずだ。

ごく簡単に言えば、ストーリーの流れ、キャラクターの言動、感情の変化、特殊能力、世界観、その他物語を構成する要素のひとつひとつが、その物語世界にふさわしいかどうかを、われわれ読者・視聴者が判断するための基準線である。


『名探偵コナン』を例にとる。

『名探偵コナン』といえば、ご存知の通り、薬で小さくさせられてしまった高校生探偵・江戸川コナン(工藤新一)とその仲間たちが、さまざまな難事件に遭遇し、持ち前の推理力・行動力をもって解決していく推理サスペンスマンガである。

推理ものであり、当然ながらわれわれの世界の物理・化学法則はそのまま適用される。魔法は出てこない。出てきたとしたら、犯人による何らかのトリックであろうと推察される。倫理観、法律なども同様である。

しかしながら作品には、いくつか現実離れした現象が確認される。瞬時に幼児化する薬剤などは、質量保存の法則を完全に無視している。顔をペリペリしただけで剥がせる完璧な変装術が誰にでも使えたら推理ものなど成立しないが、怪盗キッド、ベルモット、有希子ママが使用する分にはOKである。博士の発明品も現実にはアウトだろう(なお、初期の巻を読むと、スマホで代用されるものが数多く登場して、時代の変遷を実感させられる)。あらゆるものを破壊できる、蘭ちゃんや真さんの空手の技も見ものである。

こうしたおよそ現実にはあり得ない事象が、『名探偵コナン』の世界においては、一定の条件のもと許容される(許容できなければ『名探偵コナン』を読み進められない)。ここに作品独自のリアリティラインが存在する。

一方で、『名探偵コナン』のいわばライバル作品とも言える『金田一少年の事件簿』には、このような超常現象はまず見られない。高校生探偵なる謎の少年が登場し、次々と事件に襲われ、警察が妙に馴れ馴れしい点で同じだが、リアリティラインは異なる高さにあるようだ。


われわれの感覚に照らして、それが、その作品においてアリかナシか。

リアリティラインとは、だいたいそんなふうにまとめられる。

ちっちゃくなる薬はコナンくんではアリだが、金田一くんではナシである。理由は特にない。そういうものだから、そうである。

これは物語のすべての事象において判断される。物語の根幹を支える世界観や能力の設定はもちろんそうだし、ひとりひとりのキャラクターのセリフひとつ、行動ひとつ、仕草ひとつとってもそう。顔かたちや衣装などもそう。心の機微、心情の変化などにおいても、きわめて重要である。

作品のリアリティラインに合致しない、そもそもラインが一貫しない、すなわち「リアリティに欠ける」と感じたとき、われわれ読者・視聴者は、その作品にのめり込めなくなる。面白いと感じられなくなる。キャラクターに感情移入できなくなる。


続編が作られたり、映像化されたりする際にも問題になりやすい。

「この役にこの俳優さんはない」とか「声優さん合ってない」とか「この大事なセリフ改変すんな」「原作読めや」の気持ちは、リアリティラインとのズレを許容できない際に生じてくる。


おさえておきたいのは、リアリティラインは、それぞれの読者・視聴者が勝手に、自由気ままに引くものだ、という点である。正解不正解はない。われわれの年齢・性別、職業、出身地、背景知識などによって、大きく揺れ動くものである。だいぶふわっとしている。

ドラマやアニメを、原作を知った状態と、知らない状態で見るのとでは、感想は違ってくる。

医者や看護師が医療ドラマを見たらツッコミどころ満載だろう。しかし、エンタメとしての出来とは別である。

女性向けマンガに出てくる定型的ないけ好かない男キャラに、自分はちっとも感情移入できないが、女性にしたらキュン死できるのかもしれない。

キュートな魔法少女がいきなり血しぶき飛ばして殺し合ったら、以前だったら度肝を抜かれただろうが、いまや逆に定番過ぎて面白みにかける。

あるいは、名探偵コナンを初期から読んできた自分にとって、昨今の映画のリアリティラインのズレは目に余るが(要するに最近の映画は『名探偵コナン』とは言い難いが)、まぁそれも個人の感想であって、安室透にキャーキャー言ってる人を別に否定するつもりはない。


いろいろと考えると、各人の認識するリアリティラインを左右する最も重要な因子は「これまで触れてきた作品」のような気がする。「慣れ」とも言える。

ミステリも、時代小説も、ラブコメも、日常系アニメも、バトルマンガも、つまり何でもいいけれど、それぞれの作品・ジャンルには、特有の論理展開、楽しむべきポイントが存在していて、それぞれ独自のリアリティラインを構築している。

中には、既存のリアリティを逆手にとって裏をかいてくる作品もある。リアリティラインをわざとめちゃくちゃに崩すこともある。ギャグやパロディー作品がそうだ。「リアリティがないこと」がその作品のリアリティだったりもする。