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満ち潮

こちらの文章はみえ様主催の「カニ人アドカレ2021」23日目の記事です。
22日目はこちら

こんにちは、ココノエマツキです。Twitterでは芋子の名前を使っています。

創作関連はまったく滞ったままですが、推しコンテンツ・カニ人ワールドのニンゲン界出現三周年にファンアート(小説)を書きました。

お時間ある時に見て下さい!

※カニ人ワールドをもとにした二次創作小説、ややほの暗い雰囲気です。


満ち潮 ──The tide is full


 子供の頃から、音もなく地を覆っていく海を何度も夢に見てきた。

 例えば自転車でいつもの通学路を走っていて、坂道へ向かう交差点で止まった時の夢。アスファルトの上を流れてくるペットボトルがローファーのつま先にぶつかる。
 驚いて視線を交差点の向こうへ向けると、すでに自動車すら浮かしてしまう量の水が辺りを覆っている。
 津波のように押し流すのではなく、じわじわとせり上がる水面。
あれは海から来た水だ。
 生命を溶かし込んだ潮の匂いでわかる。
 それに包まれ、自分もそこへ溶けていくような恐怖で目が覚める。

「やな夢見た……」

 独り言を言ってしまってから、ここがベッドの上ではなく飛行機のシートだと思い出して恥ずかしくなった。
 横目で隣のシートを見ると、そこに座った年配の男性は薄く口を開けて眠っていた。
 独り言は聞かれなかったようだ。
飛行機は津軽海峡を過ぎ、北海道上空に差し掛かっていた。渡島半島の突端が見えている。
 北海道南西部、日本海と内浦湾に挟まれた渡島半島には函館水産実験所がある。
 私がタイにある水棲人類研究所へ移る前、籍を置いていたところだ。
 気候変動が加速した今は上昇する海水面から市街地の水没を免れるため、海岸に防潮堤が築かれている。
 函館山にある実験所からは防潮堤で型枠に嵌め込まれたような夜景が見えた。
 それを四角い窓から懐かしんだのは一瞬だった。飛行機が空港へ向かって方向を変えたのだ。
 新千歳空港はまだ水没地域に含まれていないが、将来を見据えより海抜の高い場所へ新空港の建設が始まっている。
 山手の斜面を平らにならし、新たなターミナルビルの基礎が作られているのが雲間から見えた。

 私が今回タイから日本へ戻ったのは、祖父の十三回忌に出るためだ。
 日本への入出国は防疫のため、ワクチン接種の証明や海上ホテルでの待機期間が求められる。
 正直、祖父には悪いのだけど帰国はぎりぎりまで迷った。
 それを研究所の上司に話したところ、日本の土産が欲しいと言われた。

『現地でなければわからないこともあるでしょう?』

と、好奇心を隠しもしないで。
 彼女の好奇心を満たすような土産を、果たして持ち帰られるだろうか。


 空港でレンタカーを借りて、高速道路を南下した。
 高速道路は主に高架を走っていたが、水没地域に差し掛かった時には故郷の田園風景を連想した。
 ここで平野部に満ちた水は豊かな河川の真水ではなく、海水に置き換わっているのだけれど。

 北海道の政治経済・物流の中心、札幌は海面上昇が著しくなる以前から防潮堤建設と建物を高層化したが、同時に旭川へ官公庁舎の分散を進めた。
 内陸に位置する旭川はたとえ海水面が三十メートルに達しても影響を受けないのだ。
 札幌だけでなく、日本中の臨海都市は防潮堤に囲まれている。海に面した平地は古くから発展し人口も密集しているため、それらを丸ごと移動するには無理があったのだ。
 こうして過疎化をたどっていた内陸部の地方都市は流入した人々で人口を回復し、新たなインフラが発展していった。

 最寄りのインターチェンジを降りて、更に三十分国道を西に進んだ。
 道の両脇を囲む白樺とブナが入り交じった林は、すでに秋の色へ変わり始めている。
 時折現れる狐の数を数えながら車を走らせているうちに、実家へ着いた。 

「ただいま」
「お帰りー」

 先に帰省していた妹が姿を見せた。
 母はキッチンで料理をしているのだろう。炊き上がった赤飯の美味しそうな匂いが玄関まで漂ってきていた。
 ひとまず一階の和室へ荷物を下ろし、庭に停めた車に戻って倉庫の一角へ入れた。

「お姉ちゃん車運転できたの。ずっとペーパーだったじゃん」

 函館は電車が走っていたし、実家に戻る時も私はもっぱら列車で帰省していた。

「ニンゲン必要に迫られたらやるもんよ」

 少し胸をそらして自慢げに言ってみせると、妹は感心したように目を見開いた。

「まあ今の車ナビあるし」
「だろうと思ったー」

 大きく息を吐いて妹が笑った。
 ナビシステムが有効なのは整備された道に限られている。
 ろくに舗装もされない場所でナビは効かないし、タイで半世紀前に製造されたマニュアル車で移動していれば運転にも慣れる。
 でも車は運転できても、私は人に乗せてもらう方が好きだ。
 風景を見ていられるから。

 夕食まで時間があるので、家の回りを妹と話しながら散歩した。

「この辺は変わらないね」

 海の匂いがしない場所は安心できる。

「そうでもないよ。八束にマンションできてるし」

 八束地区は町内でも特に標高が高く冷涼な気候で、主に牧草地となっていた。

「マンションねぇ」

 ここに暮らしていた当時、町内に三階建て以上の建物はなかったはずだ。 
 日本海に面していた隣町の市街地が水没し、標高の高い土地を求めて近隣町村へ人々の移住が進んでいる。
 この五十年で故郷の人口は二倍に増え、高台の地価は信じられない程つり上がった。
 主要都市から地理的に遠く一次産業で成り立っていた町は皮肉にも『何もない』ことが幸いし、住宅の建設ラッシュが続いている。

「明日、朝から守ノ国に行くから。ちょっと調べものがあって」

 法要は明後日なので問題ないと思う。

「そうなんだ。あっ、それじゃ江差であきあじ最中買ってきて!」

「わかった」

 あきあじ最中は鮭の姿を象ったもので、ぱりっとした最中とよく練られた餡が美味しい。
 江差にある和菓子店、その本店でしか購入できないため近くへ行く時は必ず立ち寄っている。
 長時間の運転に備えて、私は早々とベッドへ入った。

 タイの水棲人類研究所は現在確認されている人魚族と甲殻類型人類──いわゆるカニ人の研究を主に行っている。
 海に隣接した地域には国を問わず海洋生物の伝承が残されている。
 ふたつの種族とも太古より世界各国の伝承に登場していたが、近年は目撃数が増加し現実の存在だと認識され始めた。
 特に甲殻類型人類は陸地への侵攻を開始し、日本でも沿岸部の一部が占拠されている。
 彼らへの対抗手段を見つけるためにも、種族の特性を解明しなければならない。
 その熱意を誰よりも持っているのが、デスクを挟んで私の前に座っている所長だった。

『帰国しようか迷っているそうだね』

 所長は初老のアジア系女性で、細身の身体を白衣に包んでいる。白髪はまだ艶を保ち、瞳にも知性の力が感じられる。
 研究の最前線にいるのは彼女だ。

『はい。入国手続きが煩雑ですし、その分研究が遅れるのは……』

 十三回忌、という言葉をどう所長に伝えていいのか迷っていると、所長がデスク表面に埋め込まれたディスプレイに文書を表示させた。
 古い文字だが日本語が綴られた画像だ。

『君の故郷の近くに、カミノクニという町があるでしょう?』

 実家のある町から車を使って約二時間、百キロ程の距離がある。北海道民の感覚なら近い方だ。

『よくご存じですね』

 所長がディスプレイの画像を拡大する。

『ちょっと現地で確かめて欲しいことがあって。ここを読んで』

 それは守ノ国町史と題された一連の文章から抜粋されたものだった。

──守ノ国に素晴らしい女丈夫があった。
名は久(ひさ)、姓は深川。母の名はみつ。
天保二年生まれで、家は守ノ国鈴鳴の観音堂の下にあった。
身長五尺三寸、体重二十貫余、皮膚は赤くあばたであったので、里の人たちは赤久といった。
非常に力が強かったが、性質は極めておとなしくて人と争うことなく、ことに小さい子供を可愛がったので、よく子供が懐いた。
けれども、一度怒ると、対手が血気の男何人でも、たちまちこれを五、六間も投げ飛ばしてしまい、まるで毛毬でも投げるようであったので、村人は怖れて観音様の入力だといった──

『この、久が水棲人類だとお考えですか?』

 身長五尺三寸は当時の標準身長よりも大柄で、抜きん出た腕力も気になる特徴だ。
 肌の赤さと表面を覆ったあばたも、病ではないように思える。  
 所長はディスプレイの画像を変えた。

『いいえ、久よりも気になったのは母親のみつの方。津波を予見し、人々に知らせたという。海から現れてね』


──久女の母みつにも伝説めいた逸話がある。
久が生まれる二十年前、文政四年に北海道の日本海側で地震と津波が発生した。
『文政の大津波』だ。
漁を営んでいた荒磯清兵衛の妻ふねは、浜辺で娘に出会う。
年は十ばかり。
娘はふねに逃げるよう言い、直後津波が守ノ国を襲った。
先だって同じ年頃の娘を亡くしたばかりの清兵衛とふねはこれも観音様の導きかと娘を連れ帰った。
娘はみつと名付けられ、夫妻は実の子と変わりなく育てた──

 吉凶問わず、兆しを海から来て人々へ知らせる存在の伝承も世界各地にある。

『人魚……』

 思わず出た私の言葉に所長が続いた。

『もしくは甲殻類型人類。でもみつがどんな姿をしていたかまでは調べきれなかった。現地でなければわからないこともあるでしょう?』

 地方の郷土資料は電子化されていないものも多く、整理されずにしまい込まれたままの例もある。
 守ノ国へ足をのばして調べて来いということか。

『お土産を楽しみにしているよ』

 所長は期待をこめた眼差しで私を見た。

 一旦西へ向かって峠を日本海へ抜けたあと、南へ向かって海岸線を車で走った。
 閉校になった中学校の校舎が守ノ国町の郷土資料館になっている。あらかじめ連絡を入れておいたので、館長と名乗る老爺が出迎えてくれた。

「珍しいですね、海外からわざわざ。久女とみつのことを知りたい、と」

 渡した名刺に書かれた研究所の住所と私の顔を、館長は交互に見比べている。

「可能なら現地へ向かうのが一番確かですから」

 スリッパに履き替えて館内を見せてもらった。
 かつて使われていた漁の道具や生活雑貨が並んでいる。

「町史を見せて頂けますか?」

「どうぞどうぞ。他にお客さんも来ないですし、ゆっくりご覧下さい」

「ありがとうございます」

 私の申し出に館長は頷き、自販機からお茶を買ってくれた。
 あたたかいお茶が美味しいい。

 ロビーのソファとテーブルを借りて町史を指でたどりながら読んだ。
 しかし所長が私に見せた以上の情報は見つけられなかった。

「館長さん、久さんとみつさんの何か……身の回りですとか、人となりがわかるものは残っていませんか?」

「そうですねぇ……ああ、倉庫に確か」

 そう言うと、館長は倉庫から段ボールを抱えて戻ってきた。

「みつさんの亡くなる前の言葉が残ってたはずです」

「えっ!?」

「ぼけてきてたのかな、ちょっと意味のわからない話でね」

 私は手記と思われる紙束を取り出し、一旦お茶で喉を潤してから読み始めた。


──わたしは他の兄弟と違った姿で卵から生まれ、脚は四脚でとても細く小さかった。
 見た目をからかわれることはなかったけれど、カチカチと爪を打ち鳴らすのでさえ不得意なわたしから、兄弟たちはだんだん離れていった。
 それでもまだ、見たもの感じたことを仲間と分け合う力はあった。
 ある時高波に流されて、わたしは砂浜に打ち上げられた。手脚は折れ、うまく歩けなくなっていた。
 砂にまみれてもがくわたしの前に、人間の女が現れた。
『まだ生ぎでるでねぇか、かわいそうにな』
 そう言って女はわたし波打ち際まで運び、海へと帰してくれた。
 あの時逃がしてくれなければ、わたしは今まで生きていないだろう。
 何回か目の脱皮の後、子供だった時期が過ぎ、わたしは大人になった。
 脱皮の時期を迎えるたび、もしかしたら皆と同じ姿になれるのではないか。
 そう期待をしていたけれど、最後まで叶わなかった。
 あの頃、わたしたちの暮らす海底は人魚が暴れていて住みにくくなり始めていた。
 そこでわたしがいた一族は、陸を目指すことにした。他の一族の中には、もっと深い海へ旅立った者もいた。
   やがてついに、わたしにも役目が与えられる時が来た。
 陸に近付き、人々の暮らしぶりを観察するようにと。
 わたしたちはほぼ無意識に爪を鳴らして相手に気付かれてしまう。
 そこで静かなわたしが選ばれたという訳だ。
 わたしは漁師たちの言葉を岩影に隠れて学び、人間の暮らしを知った。
 海と陸と住む場所は違っていても、同じように仲間と助け合って生きている。
 波打ち際で過ごすようになって、しばらくたった日。
『近いうちに海の底が揺れる。津波の後、我々が上陸するからその後の様子を知らせるように』
 仲間がそう伝えてきた。
 わたしは一度だけ津波が通り過ぎた陸を見たことがあった。
 浜辺には何も残されていなかった。そこに誰かが暮らしていたのかも、わからない位に。
 陸の人間がいなくなった後、わたしたちはそこでのんびり暮らせるのだろうか。
 浜辺でぼんやりしていると、いつかわたしを助けてくれた女がまた声を掛けてきた。
『早ぐうちさ帰れ、もう暗ぐなるべさ』
 人間の言葉を話すのは難しかった。
『ナミたかい、くる! にげて!』
 女はわたしのたったひとつの命が潰える日を、少しだけ先延ばししてくれた恩人だった。
 わたしはあの時、仲間を裏切ってしまった。
 兄弟たちと同じ考えを持てなくなった時から、わたしに彼らの気持ちは伝わって来なくなった。
 あれからもう何も、あたたかな優しさにふれた感覚も、胸をしめつける悲しさも、恐怖で足がすくむおののきも、わたしには流れてこない。
 海へ戻ることもできず、波が全てをさらった浜辺をわたしは歩いていた。するとあの女にまた会った。

『生ぎてたのかい!』
 濡れたままの体へ女が上っ張りを掛けてくれた。
『波が来たあと、見えねぐなったから、死んだのでねぇかと……』
 女は泣き笑いの顔をしていた。
『親とはぐれたのかい? 大丈夫だ、すぐ見つかるから』
『おや、イナイ……』
 女がわたしと手をつないだ。陸に住む人間の手は熱を持っているのがわかった。
『したら、おばちゃんとこに来るか?』
 陸に上がったわたしを女は引き取り、実の娘のように接してくれた。
 それでもわたしは、冷たくて暗い海の底へ今でも帰りたいと思ってしまう──

 みつの手記を読んでいるうちに、彼女がかつて味わった寂しさが私の胸へも迫ってきた。

 みつは甲殻類型人類だったのだろう。
 この手記から、記憶や思考の共有能力を持つ生物だとわかる。また、個性が現れた個体は全体から排除されるようだ。
 甲殻類型人類は遺伝子的にほぼ同一の、自己クローンのような存在なのだろうか。
 人間の子供と見分けのつかない擬態能力を持ち、言語理解にも優れている。
 みつの娘、久の能力が優れていたのも異種混血ゆえか。けれど甲殻類型人類とこれで判断するにはまだサンプルが足りない。

「久さんにお子さんはいなかったんですか?」

 もし子孫がいれば、髪の毛一本からでも遺伝子の解析ができる。

「ああ、久さんは子供ができなくてね。養子を迎えたんですよ」

 高揚した心がすっと冷めていった。そう上手くいくはずもない。

「そうですか……もう少し何かわかればと思ったのですが」

「深川家も荒磯家も、この辺りの親戚はみんな絶えてしまいました。お墓が残るばかりです」

 館長の言葉に、私の倫理がストップをかける。希少生物の前に、彼女らは意思を持って生きた人間だ。

「すぐ近くにお墓がありますよ。良かったら手を合わせてあげて下さい。今はお参りする人も、あまり見掛けませんし」

 私が何を考えているのかも知らず、のんびりとした館長の声が続いている。
 お礼を言ったかも曖昧なまま、私は資料館から出た。 

 館長に教えられた墓地はナビに頼るまでもなく、資料館の駐車場から見える丘の上だった。
 葉がまばらになりつつある木々の向こう、墓石が立ち並んでいる。
 当時は海から離れた高台にあっただろう墓地も、海岸線が山側へ移動している今では海鳴りが聞こえるようになっている。
 ひとつひとつ、私は墓碑を確認しながら墓石の間を歩いた。没年月日に亡くなった時に付けられた戒名、本名が続く。
 みつの名前が刻まれた墓は海側に開けた一角にあった。そのすぐそばに久の遺骨が納められた墓もある。

 もし彼女が甲殻類型人類だったなら、この墓を開けて遺伝子鑑定をすれば……。

 まわりには誰もいない。
 坂道を上ってくる人影もない。

 私は墓石を動かそうか迷い、やめた。 

 おそらく、他の故人の遺骨を入れるスペースを作るため、すでに彼女たちの骨は砕かれているに違いない。

「……お土産はお菓子でいいか」

 あきあじ最中の特大サイズを所長にも買っていこう。

 私は車に戻り、海から来た者のその後を考えながら帰路についた。
 故郷である海から出ても、心は海を離れられなかったみつのことを。
 音楽も流さず、ただ日本海に光を投げ落とす夕陽を見ながら車を走らせる。
 昼間海岸を通った時よりも潮が満ちてきていた。

 海が彼女を迎えに来る。
 海へ戻りたいと願っていた、彼女の亡骸を迎えに。
 ふとそんな妄想が頭をよぎる。

 それでも、と私は思う。

 陸で生まれ陸で生きる私たちは、すべての大地が水に沈む瞬間まで抗うだろう。

 人類は滅亡しない。

(終わり)


参考資料

北海道の伝説(須藤隆仙著)

山音文学会・刊