開かれた物語

~この記事は『ダンテ「神曲」地獄篇 第4歌 辺獄』の関連記事です~


今回は普段よりも無茶苦茶なことを言っている内容になると思います。あくまでも一個人の意見として書きますので、予めご了承ください((+_+))



存在と認識の違い

「開かれた物語」。この言葉自体は、大学の心理学系の講義で初めて知りました。

言葉の定義をググってみたのですが、明確に載っていなかったので私なりに調べた上で

「開かれた物語」とは、物語的自己同一性を健全にしうるもの

と、ここでは定義します。さてこの 物語的自己同一性 の意味ですが

物語的自己同一性(identité narative)とは「私とは何か」という存在論ではなく、「私はどのように認識できうるか」という認識論であり、認識は単にその存在を認めるだけではなく、その存在に意味を付けることである
https://kunieda.sfc.keio.ac.jp/2017/11/2016-2.html より抜粋

つまり、自分とは自分自身の考え方次第で捉え方が変わる、ということです。


例えば、「私とは人間だ。」という人がいたとします。この人を仮にAさんとして、この場合、Aさんは自分のことを人間だと思っていることになります。

しかしAさん、実はこの世にたった一人しかいない、人間とそっくりな宇宙人でした。そのためAさんは、自分が宇宙人であることに気付かず、自分のことを人間だとすっかり思い込んでいたのです。

そのことに気付いたAさんは、自分の力だけでは、生まれた星に二度と帰ることができないと悟り、悲しみの感情を抱えながらも地球で生存し続けることにしました。


もう少し例え話が続きます。

Bさんは「私は不幸な人間だ。」と言っていたとします。Bさんにはこれまで辛い経験が何度もあったので、自分自身が不幸な人生を送っていると思っています。

しかし、自分が宇宙人だと気づいたAさんからしてみれば、「Bさんは幸せな人間だ。」と思っています。なぜなら、Bさんはまぎれもない人間でかつ、自分が生まれた地球という名の星で暮らせる、ということを、Aさんはとても羨ましく思っているからです。

数年後、宇宙人のAさんはBさんと結婚。Aさんは再び人間として生きることを決意し、BさんはそんなAさんを心から愛して、お互い幸せに暮らしました。


というように、その人の認識によって、人生は幸福にも不幸にも(場合によっては他の生命物体にも)なり得るということです。



開かれた物語と「閉じた物語」

では、
「開かれた物語」とは、物語的自己同一性を健全にしうるもの

とは、どういうことなのかを考えていきます。

開かれた物語とは対照的に、「閉じた物語」があります。なのでまずはこちらから話したいと思います。

この閉じた物語を持っていると、認識としての自分が極端に否定的であったり、肯定的であったりする場合があります。物語的自己同一性が極端になりやすいためです。

実際に私も、閉じた物語の人生を生きてきた一人です。

物語を閉じると、自分独自の解釈だけで生きるようになります。他人の解釈や考え方は一切受け入れません。誰かから自分の物語を否定されることが恐ろしいのです。

この閉じた物語を持つと、私の経験上では、開かれた物語を持つ人と比べて、圧倒的に自己理解が困難、またはできない状態になります。

すると、「他人は自分をどう思っているのか」というところにほとんどアンテナが立たなくなってしまうために、自己中心的な思想を持ったり問題行動を起こしたりします。

また閉じた物語のたちの悪いところは、自我の形成において大きなストレスがかかることです。日常は苦で、逆にいじめや自傷行為といった自分や他人を傷つける行為で快楽を得ようとします。

こういった閉じた物語を持っている人は、幼少期の育った環境や人間関係などが影響していることが多いと思います。

私は高校~大学時代にかけて、主にカウンセリングを通じて、この閉じた物語を少しずつ開いていきました。すると多様な価値観、考え方が物語に入ってきて、他人から見た自分がより意識できるようになりました。

現在はこれまで自分がやってきた悪行を強く反省しています。ただ、一度傷つけた他人の心は、いつまでも傷として残ります。なので私はこれから先の人生を、一生罪滅ぼしに捧げて生きていかなくてはいけない。

それでもこの人生を、私は不幸だと思っていません。比較的健康な体と、関わってくれる人がいるだけで、私は本当に幸せ者だと思っています。



「開かれた物語」とは

私はキリスト教が「開かれた物語」だと信じている、と言いました。

それは、聖書がさまざまな解釈で語り継がれ、また音楽や美術などの芸術に影響を与え、これまでに数えきれないほど多くの人々が救われている、または関わっているという事実が、「開かれた物語」だと感じたからです。

ダンテの『神曲』は、聖書そのものではありませんが、キリスト教に習った地獄や天国が書かれています。


なので、キリスト教の洗礼を受けていない人でも、偉人たちと似たような生前を生きていれば、地獄で悩み続けることはない、と私は解釈したいと思います。こう簡単に言っていますが、それはとても難しいことかもしれません。

それでも、キリスト教の洗礼を受けていないからと言って、何かキリスト教徒の人たちから言われることは私はありませんし、私はそれを知ったうえで、洗礼を受ける予定は、まだありません。



長くなってしまいましたが、今回はこの辺で終えたいと思います。うまく文章がまとまらず、すみません。。。


もっといい文章が書きたい!

それでは、また次回お会いしましょう*°




参考文献



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