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「ねえ、ものがたりをかいたら?」

「ねえ、ものがたりをかいたら?」
そんなようなことばが、ふと頭に浮かんだ。

そんなような、といったのは、正直ニュアンスしか覚えていないから。
物語を書いてみようかな、というインスピレーションが湧いたって感じ。

理由は思いつく。さっきお昼休憩のときに読みはじめた、ルシア・ベルリンの『掃除婦のための手引き書』で、いまだに鳥肌が止まらないから。きっとこの「鳥肌」のせいだ。ただ、ここで勘違いしないでほしいのは、わたしのこの鳥肌は、自分では無自覚で、この感覚が「心揺さぶられる」という表現で人々が語るのを理解したのは、「なぜ、この本が名著と言われているのか理解できないんだけど」と思った私が、先ほどネットで著名人が語る「なぜ、ルシア・ベルリンはすごいのか」的な記事を読んで、「あ、この感覚って世間的には『すごい』って思うんだ」とはじめて知ったという、いかにも本を読みなれていない人間らしい、本の内容を理解できていない中での、かなりプリミティブな鳥肌であって、理由は今、この文章を書きながらの後付けです。

で、なぜ「ものがたりをかいたら」なのか。
おそらく、物語的に書けば、文章を書けると思ったからだと思う。「だと思う」という表現なのは「ものがたりをかいたら?」とは、自分で思考して辿り着いたものではなく、要は今、そのことばを逆算して理由を探っているから。この感覚、伝わります?わたしには、結構自然な感覚なんだけど。なかなか言葉にして伝えるってむずかしいよね…

こういうの、たまにあるの。アドバイスみたいな感じっていうのかな?行き詰っているとき、こう、にんじんをぶら下げられるというか。手を差し伸べてくれるっていうのではなく、「ここまでおいで」って感じの距離感のサポートがくる感じ。助けては、くれない。でも、見守ってはいる、的な。

わたし、言葉を使うのが自分にとっての「テーマ」だと思っているんだけど、ここのところ、こう…また文章が書けなくなっちゃって。noteも一時調子を取り戻したと思ったら、今やすっかり書けなくなっちゃったし、twitterに至っては、Xになったとたん、グンと合わなくなっちゃった。アプリのデザインが変わったとたん、iPhone上に置いておくのが「なんか違う」って思っちゃって。あの水色に鳥さんマークのアプリが好きだったみたい、アプリ内はカオスだったけど、あのアプリのデザインが中和していた感じがあったのかな、って今になって思う。そう考えると、ある意味、真っ黒にXと記された今のデザインの方が、アプリそのもののエネルギーにはマッチしているのかもしれないね。外と内が一致しているのはいいこと。正しい方向に向かっているんだろうね。

話が逸れちゃったけど、そんなこんなで、私の生理的欲求である「発信」ができるフィールドが、音声ラジオのStandfmのみになってしまっていたんだけど、ここへきての「ものがたりをかいたら?」ですよ。つまり、ルシア・ベルリン方式で、「自分の体験を、あたかも物語のように書いてみよう」と思ったわけです。いいの、クオリティは。何せ発信は私にとって生理的欲求だから。もう、文体とか考えて章立てとか目次とかして、誰かに読んでもらう前提を考えてたら、からだ壊しちゃうから。我慢はよくない。まずは、吐き出す。そして、あとから気になったところがあれば、修正すればいいじゃん。それがデジタルプラットフォームの利点でもあるんだから、文明の利器はありがたく受け取らなきゃ。そう思って、今この文章を書いています。


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