見出し画像

歴史小説習作『どちへんなし』

 この小説は、1995年頃に習作として初めて書いた講談調の歴史小説です。出身地の静岡県富士市に隣接する沼津市に、北条早雲が開いたとされる興国寺城の址があります。この城に伝わるエピソードを『富士市史』という本で読み、それを膨らませたものです。よろしければ読んでみてください。

 『どちへんなし』

              菅谷 充


        

「これまで、よく仕えてくれたな、又吾」
 風折烏帽子に大紋長袴姿で正装した天野景能{かげよし}は、家康から予期せぬ幼名で呼びかけられ、
「ははっ」
 と畳の上にひれ伏した。
 慶長七年(一六〇二)正月二十七日――。
 からだの芯まで凍りそうなほどに冷え込んだこの日の朝、江戸城に召し出された景能は、黒書院の間で、徳川家康に拝謁した。
 黒書院の間には、ほかにも多数の家臣が集まっていた。
 かれらの大半は関ヶ原の合戦で武功をあげた旗本で、論功行賞として新たな知行地を与えられ、新参の譜代大名に取り立てられた者たちであった。
 景能は、関ヶ原の合戦には出陣していなかったが、陣後を守った功績で、あらためて、駿河国駿東郡興国寺城下二十三ヶ村と富士郡須津村七ヶ村の計一万石、および、飛び地二万石の計三万石の領地を賜ることとなった。
「あらためて」というのは、これらの領地は、すでに昨年のうちに拝領され、景能自身も、すでに興国寺城に移り住んでいたからである。
 公式には、いまだ下総国香取郡大須賀領内に五千石を賜る旗本だった景能は、この日、晴れて興国寺城の城主となり、新参の譜代大名に列することとなった。
 家康が「又吾」と呼びかけたのは、朱印の押された知行宛行状を渡したときのことだった。
 又五とは、康景の幼名・又五郎のことである。すでに齢{よわい}六十六になる康景だったが、家康は、いまだに幼名で呼びつづけていた。
「わしの諱{いみな}から一字をとって、康景という名を遣わそうかと思うが、どうじゃ?」
「ありがたき幸せに存じます」
 この日まで景能{かげよし}という諱を使っていた康景は、あらためて平伏した。
「駿河は、よいところじゃ。気候も温暖で、人々の気性もゆるりとしておる。隣の沼津には、気心の知れた弥八郎もおるし、これ以上のところはないと思うが、どうじゃ?」
「仰せの通りにござります」
 康景は、平伏したまま、不覚にも涙をこぼした。年齢{とし}のせいか涙もろくなっていることは自覚していたが、それよりも、何故に家康が、康景を駿河国富士山麓の興国寺城に配したのか――康景自身もよく知っていたからである。
 天文十六年(一五四七年)、八歳で今川義元の人質になった家康は、十九歳までの多感な時代を駿府で過ごしていた。駿河は家康にとって、生まれ故郷の三河に次ぐ、いわば第二の故郷でもあった。
 今川義元の人質となる二年前、家康は、戸田康光の計略によって織田信秀の人質となり、二ヶ年を尾張名古屋の地で送っているが、康景は、そのときから三人小姓のひとりとして、家康の身近にに仕えていた。家康が六歳、康景が十一歳のときである。ふたりは、その後の長い駿府での人質時代も含め、ともに苦楽を分けあった間柄でもあった。
 興国寺城の東に隣接する沼津藩を与えられた大久保弥八郎忠佐{ただすけ}も、康景と同じ天文六年(一五三七年)生まれで、やはり幼少の頃から家康に仕えていた。
 関ヶ原の合戦後、ともに五千石の旗本だった康景と忠佐のふたりを、伊豆国と接する駿河国駿東郡に配したのは、家康に対する五十年以上もの長年の忠義に報いるための褒賞であった。温暖な気候の土地を彼らに与えたのも、老後の生活をのんびりと過ごせるようにという家康の配慮であろう。
「この先、まだ一度や二度は戦{いくさ}があるやも知れぬが、それとて長いことではない。これからの世は、合戦の技量に優れた武将よりも、そちたちのような民に慕われる藩主が必要となるはずじゃ」
 家康は、慈しみの光をたたえた目で、平伏しつづける康景を見ながら言った。
 康景は、姉川の合戦や三方ヶ原の合戦では、たしかに武功をあげたこともある。
 天正十年の本能寺の変で信長がたおされた直後、堺にいた家康が伊賀越えをして岡崎に戻る際にも後衛をつとめ、追いすがる野伏どもから主君を守っていた。
 しかし、永禄八年、二十九歳でいわゆる三河三奉行のひとりに任命され、訴訟などを担当して以降、主として手腕をふるってきたのは、民政の分野であった。
 三河奉行時代は、温厚で慈悲ぶかい高力清長{こうりききよなが}、短気ではあったが私心のなかった本多作衛門重次{しげつぐ}とともに、「仏{ほとけ}高力、鬼作左{さくざ}、どちへんなしの天野三兵{さんぺい}」と、人々にうたわれた。
「どちへんなし」とは「彼是偏無し」と書く。「公平無私」という意味だ。
 この歌は、三人の人柄を称えただけのものではない。かれらを奉行に据えた家康の、人選の妙をも称えたものであった。
 家康が、関ヶ原の合戦に先立って、会津の上杉景勝討伐のため大坂を出発した際、康景は城代となって大坂城の御座所である西の丸を守っていた。つづく関ヶ原の合戦の際には、江戸城で留守居役を担当した。
 康景もすでに老齢に達しており、家康も、それが康景に適した任務と考えたからであろう。康景は、徹底して文民官僚として、家康に仕えつづけてきたのである。
 そのはたらきぶりは、後に旗本筆頭の大久保彦左衛門が「三河物語」に記した〈三河の犬〉という三河譜代の側近たちの生きざまそのものであった。康景は、家康という主人に仕え、その命令に従い、忠義を立てつづけてきた〈三河の犬の中の犬〉だったのだ。
 家康が、老齢となった康景と大久保忠佐のふたりに駿河国の城を与えたのには、もうひとつの理由があった。老い先が短いのは、康景たちばかりでなく、家康自身も同じだったからである。
「興国寺城は、終{つい}の住処としては、これ以上のところはないように思うが、どうじゃな?」
「まさに仰せのとおりにござります」
「わしもいずれは秀忠に家督をゆずり、駿府に引っ込むつもりじゃ。そのときには、そちと弥八郎の三人で、ゆるりと酒でも酌み交わしながら、駿府で過ごした子供の頃の思い出話でもしようではないか」
 眠そうには見えるが、それでいて家康の眼光は、いつも鋭く相対する者を見つめている。しかし、このときの康景に対する目の光は、温かな慈しみに満ちあふれていた。
「わしが駿府に引っ込むのも、あと五年くらいかの……」
 と天井を仰いだ家康の目から、はらりと涙がこぼれ、頬を伝い落ちた。
 家康もすでに六十一歳。天下を統一したという安堵感からか、いくぶん気弱になっているところもあった。それゆえに、おのれの終の住処と定めた駿河国に、幼年の頃から気心の知れた腹心の家臣を配しておきたかったのであろう。
「御屋形さまがご隠退なさるときには、それがしも……」
 康景も、顔を伏せたまま応えた。その目からあふれた涙が、ぼとぼとと音を立てて畳の上にこぼれ落ち、たちまちのうちに池をつくっていった。
 幼年のときの人質時代から、ともに苦楽をした間柄であればこそ、家康の家臣がいる前でもはばからずに涙を見せることができた。また、十一歳のときからこの日まで、一筋に貫き通してきた家康に対する康景の忠義ぶりは、他の家臣たちにもよく知られていた。
 ――三郎兵衛殿は、よいのお……。
 と他の家臣にもうらやまれたように、文官であったために出世こそ遅れたが、家康の寵愛を存分に受けてきたのもまた事実であった。
 このたびの譜代大名への昇進だけでなく、まもなく家康が住むであろう駿河国に配されたという事実が、それを明白に物語っていた。
 その後――。
 慶長八年(一六〇三年)に征夷大将軍に補せられた家康は、二年後の慶長十年に秀忠に将軍職をゆずると、慶長十一年には江戸城を増築、さらには駿府城の改築も実施して、着実に駿府への隠退準備を進めていくのである。

        

 興国寺城は、富士山の南にそびえる愛鷹山の南麓、篠山の尾根に築かれた山城で、最初に開いたのは北条早雲とされている。
 その後、城主は、北条から今川、武田、徳川、豊臣と、目まぐるしく変転した。
 天正十八年(一五九〇年)、豊臣・徳川連合軍が小田原城を陥落させた後、家康が関東に移封されると、中村一氏{かずおみ}が豊臣秀吉から駿河国を拝領。さらに関ヶ原の合戦後、伯耆国に転封された中村一氏にかわって天野康景が、この駿河国駿東郡興国寺藩の藩主となった。興国寺藩、沼津藩、小島藩などを除いた駿河国の大半は、徳川家の天領として、代官の手によって経営がおこなわれていた。
 興国寺城からは、北には愛鷹の峰と霊峰富士を望むことができ、南には駿河湾を一望することができた。真冬でも雪を見ることなどめったになく、蜜柑や柚の木も多い温暖の地であった。
 慶長十二年(一六〇七年)正月――。
 天野康景が家康からこの興国寺藩を拝領してから六年の歳月が流れていた。
 すでに七十歳の峠を越えていた康景は、現在改築中の駿府城の普請が終わりしだい、家康が駿府に移ることを知り、自らも、家督を嫡男の天野対馬守康宗にゆずる準備にとりかかった。
 そのため康景は、おのれの隠居所を建てることにし、家来たちに命じて、山から木材や竹を伐{き}り出すよう命令した。
 ところが、その直後――。
 人夫たちが山から伐り出し、貯えていた木材や竹が、夜な夜な侵入してくる盗賊に盗まれる事件が頻発するようになった。
「隣接する富士郡の百姓どもの仕業かとも思われます。御料(天領)の民であることをいいことに、昨今、不埒なふるまいに及ぶこと数知れずと、当家の領地、須津村の百姓たちが嘆いておったと聞きおよんでおります」
 と家臣のひとりが言ったが、
「確証もないのに、盗賊の正体を決めつけてはならん。それよりも、足軽に不寝番を命じよ。もしも百姓どもが下手人なら、刀を抜いて見せれば、脅えて逃げるのは必定。二度と不埒なふるまいに出るようなことはあるまいて」
 もともとが温厚な性格の康景は、そのように家臣に命じ、五平と太助という二名の足軽が不寝番に立つこととなった。


 その夜――。
 五平は、砂利を踏みしめる足音で、はっと目を覚ました。積み上げた材木に背をもたせかけ、焚き火で暖をとっているうちに、つい、うたた寝してしまったらしい。
 足音は、五平のいる材木置き場のほうに近づいてくる。それもひとりやふたりではない。十人、いや二十人はいそうな気配だった。
「おい、起きろ」
 五平は、横で同じように眠り込んでいた太助の肩を揺すった。「またきやがったぞ……」
「えっ?」
 太助もあわてて跳ね起きた。
 焚き火は消えかけていたが、空には満月が白く光っている。目をこらすと、篠山から迫り出した雑木林の陰から、黒い人影が湧き出してくるのが見えた。
 やはり二十人はいるようだ。しかも手に手に棒や鋤、鍬のようなものを持っている。
「性懲りもなく、またきやがったか、盗人どもめが……」
 五平は腰に差していた刀の柄に手をかけた。
 横行する盗賊から木材や竹を守るため、康景の家臣が、足軽の五平と太助に不寝番を命じたのは、一昨日のことである。
 さっそく昨晩のうちに三人の盗人が姿を見せたが、五平と太助のふたりは、刀を抜いて盗人どもを追い払っていた。
 ところが盗人どもは、懲りずにまたやってきたのである。しかも太助たちの刀に対抗しようというのか、人数を増やしたうえに、全員が武器{えもの}を携えていた。
「盗人どもめ。怪我をしたくなかったら、そこから近づくな」
 五平は、刀を抜き放つと、近づく盗賊に向かって叫んだ。
「そ、そうだとも。そっから引っ返せば、い……いのちだけは、た、助けてやるぞ……」
 太助も叫んだが、その声が震えている。
「足軽ごときが怖くて、盗人ができるだらか。やっちまうだら!」
 盗賊の先頭にいた男が土地の言葉で叫ぶと、あとに続いていた男たちが、「おうっ」と呼応した。
 盗賊どもは、鋤や鍬を振りかざし、あっというまに五平と太助をとりかこんだ。
「む……!」
 五平は、太助と背中を合わせ、刀を青眼にかまえた。
 まもなく四十歳に手の届こうという五平は、渡り足軽として、あちこちの大名に雇われては合戦にもたびたび参加していた。七年前の関ヶ原の合戦を最後に、戦{いくさ}とは縁がなくなっていたが、それでも戦場を駆けまわり、敵兵と斬りむすんだ経験が、五平に胆力をそなえさせていた。刀を知らぬうちに青眼にかまえたのも、見よう見真似で覚えたものだった。
 だが、若い太助には合戦の経験がない。屁っぴり腰で刀の切っ先をブルブルと震わせ、歯の根をガチガチと鳴らすだけだ。
「落ち着け。腰が引けているぞ」
 五平は小声で囁いたが、無理だった。昨夜は盗人も三人だけだったので、刀を抜いただけで、あわてて逃走したが、今宵は数をたのみ、武器も持っている。盗人たちが、ゆとりを持ちながら包囲の輪をせばめてくると、太助はガタガタと震えはじめた。
「やれ!」
 頭領格の男が声をあげると、盗人どもは一斉に、「わぁーっ」と叫びながらふたりに打ちかかってきた。
 五平は、必死になって刀をふるった。太助をかばいながらのため、敵の中に踏み込んでいくことができない。それでも鋤や鍬の柄を切り払い、何人かの賊のからだに傷をつけた。
 五平の激しい抵抗に怖れをなしたのか、盗人どもは、怪我をした仲間を引きずって、闇の中に逃げ去っていった。
 五平にも太助にも怪我はなく、城主の天野康景からも直々に、お誉めの言葉を賜ることになった。
 だが、この夜のできごとは、これだけでは終らなかったのである。

        

 二日後――。
 興国寺藩と隣接する駿河国富士郡の郡代奉行、井出志摩守正次から使いがきて、藩主の康景に面会を求めた。
「叙爵の祝いをした礼でも述べにきたのであろうかの……」
 康景は、使いの侍が待つ書院の間に出向いた。
 伊豆と駿河郡の郡代を兼任し、さらには駿府町奉行もつとめる井出甚之介正次は、一月前の慶長十一年十二月に叙爵し、志摩守を名乗ることになった。その際に康景は、祝いの品を届けさせている。その答礼の使いではないかと考えたのである。
 天正十七年(一五八九年)から十八年にかけて家康が、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五ヶ国で総検地を実施した際に、康景は、ここ駿河国駿東郡と富士郡で検地奉行をつとめている。地元の土豪出身の代官、井出正次とは、その頃から交際があり、互いに気心も知れていた。
 ――ところが……。
「一昨日の夜、御料(天領)の公民たる百姓に傷を負わせた足軽が、こちらの家中におわせるとのこと。その足軽どもが首級{しるし}、当方に差し出していただきたいとの仰せにございます」
 書院の間で面会した井出志摩守の使いの慇懃な言葉を聞いたとたん、ふだんは温厚な康景も、かっと頭に血が昇るのを感じた。
 一昨日の夜、ふたりの足軽が追い払った盗賊は、隣接する富士郡下野田原村の農民で、材木泥棒のことなどおくびにも出さず、康景臣下の足軽と口論の末に喧嘩となり、刀で斬られ傷つけられたと、井出志摩守のもとに訴え出たという。しかも、そのうちの三人が、このとき受けた刀傷がもとで死んだというのだ。
 駿河国富士郡は、現在の静岡県富士市、富士宮市、芝川町一帯の広大な土地を擁し、興国寺城藩に与えられた須津村などの一部を除くと、すべて徳川将軍家の天領となっていた。
 天領であろうと、あるいは大名領であろうと、領民の農民を理由なく殺すことはもちろん、農民が罪を犯した場合であっても、奉行所で充分な吟味がなされたうえで裁かれなければならない。そのような内容の法を定めた通称「百姓法度」が、四年前の慶長八年三月、徳川家康が征夷大将軍に補せられた直後に、関東総奉行の内藤修理亮と青山常陸介の連名で発せられている。
 康景にも、法度をつかさどる奉行の経験があり、また藩主として、その法度を遵守すべき立場にある。百姓法度の内容も、当然ながら充分すぎるほどに知っていた。その法度の精神は、封建社会の礎でもある米作農民を、手厚く保護育成し、ひいては幕府の財政の基盤を確固たるものにしようと狙いがあった。
 康景とて、あるいは足軽とて、賊の正体を知っていれば、別の対応を考えたことだろう。とくに相手は徳川家の天領の民である。だが、闇にまぎれて侵入する賊の正体など、見極められるはずがない。まだ、あちこちに山賊、盗賊の類が跳梁していた時代だったのである。
「足軽を不寝番に立たせたのは、この康景めにござる。城下にたびたび侵入しては、それがしの住まいを建てるための材木、竹材を盗む賊ありとのことで、足軽どもに刀を持たせ、見張りに立たせ申した。足軽が刀を持って追い払ったのは、百姓ではなく盗賊にまちがいござらん。また、賊の数が多く、しかも武器を手にして無勢の足軽に襲いかかったため、刀をふるわざるをえなかったとも聞いており申す。いまいちど、その百姓どもの申すことと、この康景の申すことのどちらが正しいか、しかとお確かめあれ。それでもなお百姓たちの言い分が正しいと申すのであれば、足軽の首とともに、この康景が首も差し出し申す」
 康景に一気呵成に言われると、井出志摩守の使いの役人も、それ以上の追及はできなくなり、方法の体で引きあげていくことになった。
 井出志摩守からの連絡は、それきり途絶え、康景も、この件については、もうすんだものと思っていた。
 実は、井出志摩守も、康景の人柄はよく知っており、使いの者を興国寺城に派遣したという事実を持って、ことをおさめようとしていたのである。
 だが、当の農民たちは、この措置に納得せず、実力行使に出る道を選んでいた。

        

 慶長十二年二月――。
 昨夜の宿を箱根にとり、温泉で足腰を伸ばした徳川家康は、長い行列の中ほどを行く駕籠に揺られながら、箱根の山道をくだっていた。
 駿府城の改築がすんだことから江戸城を秀忠にゆずり、駿府城に隠退せんがための道中であった。もっとも、まだしばらくの間、政治の実権は家康が握りつづけることになるのだが……。
 行列が箱根の山をくだり、三島の宿に近づくと、家康は、簾の隙間から外を見た。
 抜けるように澄んだ青空の中に、真っ白い雪におおわれた富士の姿が見えていた。そのたおやかな峰は、まるで処女{おとめ}が白い薄衣を着て横たわっているようでもあった。
「又五は息災かの……」
 ふと、そんな言葉が口をついて出た。富士を見て、その麓に住む康景のことが思い出されたのだ。
 康景の居城である興国寺城は、この三島からなら目と鼻の距離である。駿府城に戻ったおりには、三島の先の沼津にいる大久保忠佐ともども酒を酌み交わそうではないかと康景に伝えた言葉を、家康は今でもはっきり憶えていた。
 だが、大坂城に豊臣秀頼がいる限りは、
 ――このまま隠退することもままなるまい。早いうちに秀頼を何とかせねばの……。
 というのも、また事実であった。
 そんなことを考えていると、ふいに行列の前方のほうが騒がしくなり、駕籠が歩みを止めた。
「なにごとじゃ?」
「御料の富士郡下野田原村に住まいし百姓からの直訴にございます」
 駕籠の外から小姓頭が答えた。
「直訴は禁じられているはずじゃ」
 家康が駕籠の中から答えると、小姓頭が言葉をつづけた。
「興国寺城藩主、天野三郎兵衛康景様お抱えの足軽が、御料の百姓と口論のあげくに喧嘩となり、これに刀をもって斬りつけ、数名に怪我を負わせたとのこと。しかも、そのうちの三名が命を落としたよしにござります」
「又五がところの足軽が斬りつけたとな?」
 家康は、一瞬、自分の耳を疑った。あの〈どちへんなしの天野三兵〉のことである。たとえ罪ある者でも、無闇に斬り捨ててはならぬと法度で触れてあるのは知っているはずだ。身分の低い足軽であろうとも、法を犯すようなことをさせるはずがない。もしも、足軽が農民を斬ったというのが事実だとしても、そこには何か事情があったにちがいない。
「代官井出志摩守様に訴え、井出様のお使いの方が天野様のもとに談判に出向いたとのことですが、天野様は、百姓どもを盗賊と決めつけ、取り合わなかったよしにございます」
「うーむ……」
 家康は、思わず唸り声をあげた。談判を突っぱねたということは、康景め、自分の言い分に自信があるのであろう。家康は、そう考えていた。
 慶長八年に発令された通称「百姓法度」では、直訴は原則として禁止されていた。
 だが、この法度には、
「一、総別目安事 直に差上申儀 堅御法度也 但人質をとられ せんかたなきに付てハ 不及是非先御代官衆並奉行所へ 再三さし上 無承引に付てハ 其上目安を以可申上 不相届して申上に付ては 御成敗あるへき事
 一、御代官衆之儀者 於有非分者 届なしに 直目安を以可申上事
 一、百姓むさところし候事御停止也 たとひ科ありとも、からめ取 奉行所にをひて対決の上可被申付事」
 と記されている。
 これは、農民の幕府に対する直訴を禁止するものだが、人質をとられたり、あるいは代官や奉行に不法があった場合などは、幕府に直訴してもかまわないという内容である。
 農民たちにしてみれば、郡代官の井出志摩守に訴え出て、しかるべき手を打ってもらったにもかかわらず解決しなかったのだから、直訴もやむなし――ということになる。
 また、最後の条文は、たとえ農民の側に問題があっても、むやみに断罪してはならないという意味である。本当に康景の足軽が、その農民たちに傷を負わせたのなら、この条文に違反したことになる。
 いずれも、農民を手厚く保護するためのものであり、一揆などを起こされないようにという配慮もこめられていた。
「その百姓の申し出がまことかどうか、検{あらた}めてみよ」
 家康は、駕籠の中から小姓頭に命令した。
「はっ」
 と返事した小姓頭は、行列の脇で平身低頭していた農民のところに歩いていくと、着ていた衣服を脱ぐよう命じ、その背中に確かに刀傷があるのを確認した。
 小姓頭がその旨を家康に報告すると、
「あいわかった。本多上野守を呼べ」
 家康は、同行していた本多上野守正純を呼びつけると、短い言葉をかわしたのち、天野康景のもとに赴くよう命じたのである。

        

 本多正信の嫡子として永禄八年(一五六五年)三河国に生まれた本多上野守正純は、少年時代から家康に仕え、関ヶ原の合戦後は大坂城において訴訟方を担当した。そして、四十二歳の働きざかりとなった現在は、家康の側近中の側近として、幕府の政務に手腕をふるっている。家康没後、二代将軍秀忠に仕え、老中にまでなるが、謀反を企図したかどで改易となり、秋田国横手に配流となるのは、さらに後の時代のことである。
「又五のことゆえ、まちがったことはしておらんと思うが、そちが出向いて、百姓の言い分が正しいか、又五の申すことが正しいか、しかと吟味して参れ」
 このように家康に命じられた正純は、十名ほどの供を引き連れて、憮然とした顔で馬を駆けさせていた。
 正純は、すでに家康の側近として幕閣におり、幕政を切り盛りしていた高級官僚である。〈たかが農民と足軽のいさかいごと〉に駆り出され、面白かろうはずがない。
「さっさと片をつけてくれようぞ」
 と正純は、馬の背に鞭をくれた。
 三島の宿から現在の静岡県沼津市北西部、根方街道沿いにある興国寺城下の根古屋{ねこや}村までは、わずか三里ほどの距離である。馬で駆けた正純一行は、一刻もかからぬうちに興国寺城に到着した。
「これはこれは上野介殿」
 康景は、突然の訪問者に目を丸くしながらも、丁重に出迎えた。「本日の急なお目見え、何用でござるかな?」
「大御所様のお供で、駿府に向かっておったところじゃが、先ほど、三島の宿にさしかかりましてな……」
「おお、御屋形様も、ついに駿府へ。これはすぐにでもご挨拶に伺わねば」
 康景は、正純が気を利かせたか、あるいは家康の命令で、家康の駿府入りを告げにきてくれたものと思い込み、喜色の声をあげた。
 この時代、将軍の座を秀忠にゆずった家康は、誰からも、大御所様と呼ばれていた。だが康景にとって家康は、家康が康景のことを又五と呼ぶのと同様に、いまだに昔ながらの御屋形様であった。
 正純は、コホンと空咳をひとつすると、
「大御所様が……」
 と「大御所様」の部分に力を入れて、
「三島にさしかかった折、直訴があり申した」
 とつづけた。
「直訴とな?」
 順を追って話しはじめた正純の言葉を聞き、康景は、頭から血の気が引くのを感じた。心なしか目の前も暗くなり、からだが揺れそうになる。
「……して、御屋形様は如何に?」
 唇を噛んで正気を取りもどした康景は、かすれ声を絞り出した。
「足軽が首、志摩守殿に差し出すべし、との仰せにござる」
 もちろん家康は、こんなことは言ってはいない。正純には、吟味せよ、と申しつけただけである。正純は、足軽の首を斬ることで、問題の解決を急ごうとしていた。
 康景は、しばし黙想し考え込んだ。思慮深い家康の沙汰とは思えなかったからである。
 関ヶ原の合戦の前、会津の上杉景勝討伐の際に石田三成が起{た}ったという報告を受けた際にも、上杉討伐を続行するか、それとも西に取って返すかを、随行の大名諸将に決めさせている。自らが直接裁きをくだすのは、よくよくの場合だけであった。そのような際も、決定をくだすのは、充分な吟味をした後のことである。
 ――御屋形様は、天下を取ったことで、人が変わってしまわれたのか……? それとも、ことを急ぐのは、お齢を召したせいなのか……?
 そんな疑問が頭の中を駆けめぐり、しばし熟考した末に、康景はおもむろに口をひらいた。
「あれは百姓ではござらぬ。盗賊でござった」
 正純は、意外な答えに目を剥いた。
 康景は、それを無視してなおもつづける。
「武器{えもの}を持ち、徒党を組んで、当家の木材、竹を奪いに参った不届きな輩にござる。足軽は、己{おの}が命が窮地にさらされ、止むを得ず斬りつけ申した。足軽に罪はござらん」
 蒼白になっていた康景の顔に血の気がもどり、さらに真っ赤に染まっていく。その顔を見て正純はあわてた。
「し、しかし、それでは御料の百姓がおさまらぬ。彼{か}の者どもに罪があったとしても、まず裁きいたすのが先決。いきなり刀をふるうのは、法度にそむいており申す」
「闇の中で襲われては、相手が何者かなどと確かめるゆとりはござらん。栓方なき仕儀にてござる」
「大御所様の仰せとあってもか?」
「いかにも!」
 康景は、正純の目を正面から見据えて、静かに、だが、きっぱりと言い放った。
 もっとも簡単な解決法は、足軽の首を斬ることである。正純は、そう考えていた。同じことを康景に申し出ていた井出志摩守が、いまと同様に拒否されたことも、すでに三島で聞いていた。だからこそ正純は、家康の名を持ち出したのだ。家康の忠臣である康景なら、家康の名を出せば、あっさりと受け入れるものと思っていたからである。だが、その回答は、予期したものとは異なっていた。
 焦った正純は、なおも追及した。
「足軽など、どこぞから流れてきたかもわからぬ下賤の奴原{やつばら}であろうに……。何故にそれほどかばいだていたす?」
「下賤であろうとなかろうと、それがしの家中の者に変わりはござらん」
 康景は、そう言って正純を睨み据えた。
 齢{よわい}は重ねておるが、お主ごときには、まだまだ遅れはとらぬぞ――そんな気構えが康景の全身からにじみ出ていた。
 正純も、負けじと睨み返し、
「足軽は、天野殿の私{わたくし}の雇い人ではござらぬか。それに引きかえ御料の百姓は、ご公儀の民なるぞ。公儀が大事か、私儀が大事か、とくと考えてご覧なされ!」
「くどい!」
 康景は、正純の口を封じるように言い切った。
 正純は呆然とした顔で、しばし康景をながめていたが、やがて、ふうと嘆息すると、
「いたしかたあるまい。天野殿が述べられたこと、そのまま大御所様にお伝え申す。追って御沙汰があると思われるので、それまでお待ちくだされ」
「承知いたした」
 康景は、立ち上がった正純に向かって、深々と頭をさげた。


「又五め、そんなことを申したか。あいかわらずの〈どちへんなし〉じゃの……」
 改築なった駿府城で本多正純の報告を聞いた家康は、苦笑しながら言った。
 すでに夜も更け、家康の居室には灯が入っている。
 その火影に照らされながら平伏していた正純は、
「それがしも、高名な〈どちへんなし〉の正体、しかと見届けさせていただきました」
 と顔をあげ、「……して、御沙汰はいかに?」
「捨ておけ」
「は?」
 正純は、家康の言葉に、一瞬、ぽかんと口をあけた。
 家康の「吟味せよ」という命にそむいて、家康の名で足軽処分の沙汰を康景に告げたことは、当然、家康には内密にしてあった。康景は、足軽をかばって吟味も謝絶したと伝えていたのである。そうすれば、家康が怒り、本当に足軽処分の沙汰をくだすものと考えていた。
 ところが……、
「捨ておけと申しておるのじゃ」
 家康は平然としたままだった。
「御沙汰なしとは、これ如何に。一国の藩主が、法度を破った者――それもたかが足軽ごときをかくまっておるのですぞ。しかも大御所様が直訴を受けて、それがしが代理で談判に出向いており申す。このままでは公儀、いや徳川家の威信にかかわり申す」
 正純はくいさがった。
 すでに康景たちの時代は終わり、これからは正純たちの若い世代が政治の一線を仕切らねばならぬ。そのためには幕府の政道を確固たるものにしておく必要があった。家康の名を騙りはしたが、これも公儀のため、ご政道のためだ。それに背いた康景には、断固とした措置あってしかるべし――と正純は考えていた。
「又五がそこまでかばうのなら、おそらく、その足軽どもには罪はないのじゃろうて。あやつの言うことにまちがいはないわ。そういう男じゃよ、又五は。それは、わしがいちばんよう知っておる」
「されど……」
「されども何もないわ。井出志摩守に、傷を負わされた百姓たちのことを、いまいちど検{あらた}めるよう言いつけておけ。おそらく隠していることが露見するに違いあるまいて」
 こうまで言われては、正純も引きさがるしかなかった。
「……わしが人質としてこの駿府におった頃も、あやつがおったればこそ、岡崎城主として堂々としておられたのじゃ。伊賀越えのとき、自らの身を挺してわしの命を守ってくれたのも、あやつじゃった。そういう男なのじゃ、又五めは……」
 そう言いながら家康は、ジジッと音を立てて揺れる灯火の炎に目をやって、
「あやつとて老いさき短い命。ゆるりと天寿を全うさせてやるがよい……」
「天野三郎兵衛殿は、果報者にござりますな……」
 正純は、嫉妬を交えた声で呟くと、一礼して家康の居室から出ていった。
 家康は、正純の後ろ姿を見送ると、小姓頭に命じて伊賀者を呼び出し、なにごとか密命を与えた。

        

 家康の考えていることなど知らぬ康景は、興国寺城の居室で、とことん悩み抜いていた。
 家康は、足軽の首を差し出せと言ったという。それが真実なら、康景は、家康の命に叛いたことになる。幼少の家康に小姓として仕えていた頃には、年下の家康を諫{いさ}めたこともあったが、家康が成人してからは、終生、その意向に従うものと心に決めていた。その決意を破ってしまったことに、忸怩たる思いを抱いを抱いていた。
 だからといって足軽の首を差し出すわけにはいかなかった。首を差し出せば、ことは簡単に解決するが、それでは己の生きざまに叛{そむ}くことになる。
 しとねに横たわってからも眠れなかった。考えに考え抜いた末、康景がひとつの結論に達したのは、明け方になってからのことであった。
 翌日になると、興国寺城の城下には、
「お殿様が大納言様のご勘気に触れたそうな……」
 という噂がひろまっていた。
 井出志摩守の使いが訪れた後、近隣の三島の宿では徳川家康に対する直訴があり、それを受けた本多正純の訪問もあった。これだけの出来事が立て続けに起これば、噂がひろまらぬほうが不思議というものである。
 藩内の家臣たちのあいだにも、藩がお取り潰しになるかもしれぬという噂が流れ、動揺が走っていた。
 その噂を耳にしてあわてたのは、足軽の五平と太助であった。
「お殿様は、わしらをかばいだてして、わしらの首を差し出さぬばっかしに、立場がまずいことになっているらしいの」
 足軽小屋で五平は太助に告げた。「せっかく大名になられたのに、このままでは、お取り潰しになるやもしれんて……」
「どうしたらいいんじゃ、わしら?」
 太助が不安そうに訊いた。
「どうするもこうするも……」
 五平は、声をひそめると、
「逃げるしかあるめえ」
「やはり……」
「ああ……、殿様とて人の子。いつお心変わりして、お家安泰のためにと、わしらが首、掻き斬るやもしれねえ」
「そうじゃの」
 足軽たちの多くは、流れ者に近い存在で、忠義の心など、かけらも持ち合わせてはいなかった。それが当たり前の時代だったのである。
 五平と太助は、相談がまとまると、さっそく逃亡の準備にかかり、夕暮れになるのを待って、足軽小屋から抜け出した。
 だが、城から篠山の裏道を通って逃げる途中、
「これ、どこへ参る?」
 数名の家臣に声をかけられたのがきっかけで、ふたりの逃亡は発覚し、あっというまに取り押さえられることになった。その家臣たちは、不穏な情勢を考慮して、自主的に城の警護に当たっていた者たちであった。
「殿に命を救ってもらった恩を忘れたのか。この不忠者どもめが!」
 太助と五平のふたりは、縄で縛られ、竹竿でぶたれながら、そのまま城内に引き立てられた。
「うぬらのせいで、当藩が窮地におちいったのじゃ。その首、掻き斬ってくれよう!」
 刀の鯉口を切る血気にはやった若侍もあらわれ、五平と太助はそろって首をすくめた。
 様子を見にきた家老は、若侍を制止しておいて、すぐさま康景のもとに走った。
「あの不埒者どもの首を掻き斬って、志摩守殿に差し出せば、ことは丸く収まり申す。ぜひともお許しを」
 家老が懇願した。
 興国寺藩の藩士の大半は、遠州の地侍である。家康の勘気に触れ、興国寺藩が改易になれば、たちどころに浪々の士となるのは目に見えていた。
「足軽どもを放してやれ」
 康景は、あっさりと言った。
 家老は目を剥いて、しばし絶句した。
「かまわぬ。命は誰でも惜しいもの。下々の者が、そのような振る舞いに出るのも、藩主たるわしが至らぬゆえじゃ……」
 康景は、静かに言った。
「長いあいだの戦乱で、誰も人を信じぬようになっておる。足軽が主君を信じぬのも、御料の百姓どもが盗人に身をやつすのも、みな、ここに理由がある」
「しかし、大納言様の命にそむいたとあっては、藩がお取り潰しになるやも……」
「びくびくいたすな。すでに覚悟は決まっておる」
「覚悟……?」
「ああ、そうじゃ。そちたちは、何も心配せずともよい。城のまわりを固めることも不要じゃ。皆の者にそう申しつけい。足軽どもも放逐してやるがよい」
「ははっ」
 家老が、不承不承の態で引き退がっていくのと入れかわりに、嫡子の康宗が康景の居室に入ってきた。
 康宗は、小姓をさがらせると、康景の正面にどっかと胡座をかいた。
「父上。いかがなさるおつもりじゃ? まさか、腹を切ったりするおつもりではございませんでしょうな?」
 まもなく興国寺藩を継ぐことになっている康宗は、父親似の分けへだてしない性格で、家臣たちにも慕われていた。
「ばかなことを……。そなたは父親を信じておらんのか? わしは腐っても三河武士じゃ。御屋形様に終生を捧げておる。その御屋形様はな……」
 ふっと横を向いた康景は、どこか遠くを偲ぶ目になっていた。
「そう、あれは慶長五年六月十五日のことであった……」


 慶長五年――。
 家康に叛旗をひるがえした会津の上杉景勝の討伐に出向くことになった家康は、慶長五年五月三日に五万五千の大軍を動員すると、六月十六日には大坂城を出立し、伏見城に向かった。関ヶ原の合戦の前哨戦が、ついにはじまろうとしていたのである。
 その前夜、大坂城西の丸の留守居を命じられた康景は、家康に、伏見城の守護役に加わらせてほしいと懇願した。
 家康は、伏見城を出立の後、東海道から江戸を経て、会津に向かうことになっていた。家康東下の隙をついて、石田三成が伏見城を襲うのは目に見えていた。その伏見城を守るのは、これも康景と同じ六十歳過ぎの老臣、鳥居元忠{もとただ}率いる千八百余名である。家康軍の留守をついて石田の息のかかった武将たちが束になって攻めれば、千八百余の軍勢では全滅は必至。そう読んだ康景は、伏見城守護の列に加わらせてほしいと願い出たのである。
「ならぬ!」
 家康は、一言で康景の請願を跳ねのけた。
「よいか、又五よ……」
 家康は、静かに言った。
「武士は名のみに生くるにあらずじゃ。彦右衛門(元忠)のように、武功で名をなした者は、その名を汚さぬよう、己で死に時、死に場所を決めねばならぬ。じゃが、お主はちがう。これから天下分け目の合戦が勃{お}くるは必定じゃがの、その合戦の後に必要になるのは、お主のような者たちなのじゃ」
 家康は、じっと康景を見ながらつづけた。
「民が安心して暮らせる世に変えていくのじゃ。地味で名の残らぬつとめかもしれぬ。じゃがの、これからの世に必要なのは、武に生くるものだけではない。文に仕える者、銭の勘定をする者、新田開拓の指揮をとる者――そのような武士もまた必要なのじゃ」
「し、しかし……」
 康景は、老いのために皺だらけとなった顔に、滂沱の涙を流しながら、家康に食いさがった。
「それがしとて三河譜代の士{さぶらい}にござる!」
「言うな!」
 家康とて、大坂城で留守居役をつとめる康景の、忸怩たる胸の内はわかっている。家康の声も、すでに涙混じりの鼻声になっていた。
「このわしは死なぬ。天下を統一し、この国を平定するまではな。それから後にお主の出番はくる。死に急ぐことまかりならぬ。生きよ! 生きて、生きて、生き抜くのじゃ!」
 ここまで言われては、康景も伏見城防衛への参加は断念するほかなかった。
 やがて家康が会津討伐に出立すると、予想通り、石田三成の命を受けた島津義弘、小早川秀秋の大軍が、七月十九日になって伏見城への攻撃を開始した。守る鳥居元忠以下千八百余名の将兵は、十日以上ももちこたえが、ついに全員が討ち死に、伏見城も落城することになったのである。
 その勇猛果敢ぶりには石田三成も感嘆し、元忠の子、忠政に、その戦いの模様を書状で知らせてやったほどであった。
 元忠の首は、大坂の京橋口に梟首されたが、のちに京都の商人の手で、百万遍の智恩寺に葬られたという。その元忠の死に様は、まさに武に終生を捧げた者のそれであった。


「――死ぬることは、いつでもできる。じゃがの、生きてお役に立つこともあるのじゃ。腹かっさばいて死ぬるばかりが武士ではない。生きておれば、再び御屋形様の……あるいは秀忠君のお役に立つこともあるやもしれぬ。そうじゃろうが、康宗よ」
「わかり申した」
 康宗は、あっさりと父の言葉に同意した。これまで父がしてきたことで、まちがっていたことは一つとしてなかったからである。
「で、いかがいたす所存で……?」
「それよ……近う寄れ……」
「はっ」
 康景は、康宗をそばに呼び寄せると、その耳になにごとか囁いた。
「それはまことで……?」
 康宗は、一瞬、己の耳をうたがった。だが、康景は、その顔に涼しげな笑みを浮かべているだけである。
「お主には、すまんと思っておるがの……。じゃがな、人間だれしも、生まれてきたときは裸一貫じゃ」
 康宗は、その父の顔を見て、爽やかな笑みを浮かべると、
「承知いたしました。それがしも従いましょう。どうやらそれがしも、父上の〈どちへんなし〉の血を受け継いでおりますゆえ……」
「よい、よい。それでよい。うははは……」
 康景は、皺だらけの顔をさらに皺くちゃにして、大声で笑いだした――が、その目尻には、きらりと光るものが浮いていた。
 その夜更け――。
 康景は、長子の康宗以下三人の男子を連れ、興国寺城から抜け出した。一国の藩主が、前代未聞の〈逐電〉という事態を引き起こしたのである。それは慶長十二年三月九日夜のことであった。

        

 翌早暁――。
 康景たちが消えていることが発覚し、家中は大騒動となった。
 康景の居室からは、姿を隠すゆえ捜すな、あわてずに幕府からの沙汰を待て、と書かれた家老に宛てての置き手紙が発見された。
「足軽ごときの命を救わんがために、お家を潰すことも厭わぬというのか……」
 家老は唇を噛んだが、いまとなってはどうしようもないと、座して公儀の沙汰を待つことに決めたのである。


 その頃――。
 康景一行は、興国寺城から東北に五里離れた枯れすすきの原の中を東に向かって進んでいた。現在でいえば裾野市のあたりである。
 康景のみが馬にまたがり、その手綱を康宗が引いている。次男・左兵門康勝と三男・六右衛門康世のふたりも、黙々と、その後に従っていた。
 往来の多い箱根は避け、箱根山の北側をまわり、早川沿いの旧鎌倉往還を経て、小田原に向かうつもりであった。
 すでに東の空は、漆黒から群青へと色が変わりはじめていたそのとき、ふいに、後方で人の声があがった。
「追っ手か……」
 康宗が腰の刀に手をかけた。
 逐電が発覚すれば、近隣の藩や郡代から追っ手がかかるのは必定である。枯れたすすき越しに後方を見ると、ふたりの男が、ひとりの男と争っているのが見えた。
「おお、あれは……」
 馬上から後方を見ていた康景が声をあげた。「あの足軽どもじゃ」
「え?」
 康宗たち三人の息子が、刀を抜いて駆けつけると、興国寺城から放逐された足軽の五兵と太助が、短い刀を抜いて、菅笠をかぶったひとりの武士と睨み合っていた。
「なにごとじゃ?」
 康宗が声をかけると、武士は、刀をさっと背中に引き、片膝をついた。
 足軽たちも両膝を地面につくと、五平が口をひらく。
「へ、へい。先ほど、城下でお殿様たちがご出立なさるところを見ていたら、こやつが、後をつけるのを見つけたもので、さらにその後をつけてきたのでございます。そうしたら、こいつに見つかってしまいまして……」
「その方ら、放逐されたはずなのに、何故、城下でうろついておったのじゃ?」
 康宗は、怪訝な顔で足軽たちを見た。
「お殿様が、わっしらの命を何度も助けてくれたことで難儀なさっていると聞いて、もしもお家がお取り潰しになるようなご沙汰がくだったら、一緒にお城に籠って、ご公儀に一矢報いるお手伝いをと……」
「いちどは逃げだそうとしたのではなかったのかな?」
 馬から降りた康景が、そう言いながら歩み寄ってきた。
「へ、へい。それはそうなんですが……」
 五平と太助は、顔を赤らめた。
「突如として忠義に目覚めたというか?」
 康宗が笑いながら訊くと、
「へ、へい」
 五平と太助は、その場に平伏した。
「で、そこもとは……?」
 康景が顔を向けると、若い武士は、かぶっていた傘を取った。
「それがし、大御所様にお仕えいたす伊賀者で、山路忠平という者にござります。大御所様の命を受け、ひそかに天野様の見張りを……」
「ふむ……、御屋形様は、わしが腹でも切ると思ったかの……。して、伊賀者が何故に名乗る? お役目を悟られてはならぬのが、伊賀者のつとめじゃろうに……」
「それがしの親父殿は、天正十年、大御所様伊賀越えの際に、お供つかまつった伊賀者のひとりにござる。そのとき親父殿は後衛をつとめた天野様に命を救われたよしにございます」
「さてな……」
 康景には、そのような記憶がなかった。「伊賀越えの際は、追いすがる野伏や一揆を起こした百姓どもから御屋形様の身を守るのが精一杯だったゆえ……」
「天野様は忘れられても、親父殿は、よう憶えてござった。背中から突きかけてきた野伏の槍を、天野様が斬り落としてくださったと……。天野様のお人柄も、子供の頃より、たびたび聞かされながら育ち申した」
「ふうむ……」
 康景は、しばし考えると、
「おお、そうじゃ、ちょうどいい」
 と、懐に入れてあった一通の書状を取り出し、
「これは小田原に着いてから、誰ぞに頼んで届けてもらおうと思っておったのじゃが、すまぬが、そのほうが御屋形様に手渡してくれぬか」
 と書状を忠平に手渡した。
「わしらは、小田原の西念寺に身を寄せるつもりじゃ。御屋形様の身に何事かあれば、この老身をもって駆けつけるつもりにござる。その旨、御屋形様にお伝えくだされ」
 そう言い置くと、康景は再び馬上の人になり、康宗たちをつれて、東の空に昇りはじめた朝日の中に消えていった。
 五平と太助も、その後を追っていく。
 山路忠平は、その影を、いつまでも見送っていた。


 康景逐電の噂は、あっというまに周辺の所領にまでひろまった。
 たかが足軽の命を救うために、藩主が所領を捨てて姿を消した――それに驚いたのは、康景の貯えていた木材や竹を盗み出していた富士郡の農民たちであった。
 本多正純の命を受け、井出志摩守が再度の取り調べをおこなっていたが、そのときも白{しら}を切りとおした農民たちが、おそれながら……と自ら志摩守のもとに出向き、盗みをしていた事実を白状したのである。
 だが、その罪は赦免された。康景が家康に送った手紙の中で、康景がすべての責務を負うので、事件に関った農民たちに科{とが}が及ばぬようにと訴えていたからである。
 同様に、手紙の中で康景は、藩士の今後についても、寛大なる御沙汰をと訴えていた。
 その結果、藩主逐電のかどで興国寺藩は取り潰しになったものの、早まって脱藩した一部の者を除き、残りの藩士全員が他の大名に召し抱えられることになった。『当代記』によれば、他の大名とは、本多正純の父、本多佐渡守正信であったという。
 康景は、慶長十八年二月二十四日、隠遁先の小田原・西念寺で、七十八歳の天寿を全うした。
 康景の死を西念寺住職からの書状で知った家康は、はらりと一筋、涙をこぼしたという。
 その家康が病の床につき、七十五歳の生涯を閉じるのは、その三年後、元和二年四月のことであった。


 ――その後……。
 寛永五年(一六二八年)、三代将軍家光の世になって、康景の長子・康宗と次男・康勝が幕府に召し抱えられて旗本となり、二年後の寛永七年には、三子・康世も御家人として登用されたという。一国を捨てる〈逐電〉という前代未聞の大罪を犯した大名の子息に対する措置としては、異例中の異例ともいえる寛大なものであった。

〈了〉

〈参考資料〉
 『富士市史(上巻)』(富士市史編纂委員会/1969)
 『日本歴史地名大系』(平凡社)
 『新訂増補国史大系 徳川実紀』(吉川弘文館)
 『寛政重修諸家譜』(続群書類従完成会)
 『徳川家臣団』(綱淵謙錠/講談社/1982)他。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?