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早稲田大学人間科学部eスクール:『考古学』レポート

 こちらの文章は、早稲田大学人間科学部eスクール1年生の秋学期(後期)に受講した「考古学」の期末レポートとして書かれたものです。この授業で扱う考古学の範囲は、縄文・弥生の時代から、江戸時代はもちろん大正期まで含まれるスパンの長いもので、レポートの課題も、特定の時代の考古学についてのトピックを調べ、まとめるものでした。

 近所に玉川上水があることから、これをテーマに……と思って東京都立水道歴史館に脚を伸ばしたおかげで、思わぬ歴史上の謎にぶつかり、のめり込むことになりました。レポート中では紹介していませんが、早稲田大学の中央図書館にも何度も通い、舞台となる場所、人物が住んでいた場所なども江戸時代の古地図で調べ、むさぼるように史資料も読みあさりました。

 こんなことになったのは、もちろん楽しかったから。胸ときめくような体験をしながらレポートにまとめたわけですが、この科目を担当するT先生(現・学部長)が、江戸時代を含む近世考古学の権威であり、江戸市中の水道遺構の発掘にも関わっていることを知ったのは、もう少し後のことでした。こちらが喜々として書き上げたレポートを、どのような気持ちで読まれたのか……恐くて訊いたことはありません(笑)。

 史資料を読みあさっているうちに思いついたのは、「これをネタに時代ミステリー小説が書けそうだ」ということで、レポートを書き上げたあとプロットまで作ってしまいました。いつか、この物語もまとめてみたいと思っています。

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考古学レポート


『玉川上水に見る考古学と歴史学の相克』

 所  属:人間情報科学科
 氏  名:菅谷 充

 1.はじめに

「考古学」の授業で、とりわけ興味を惹かれたのは玉川上水についてであった。以前から私は、戦国時代、江戸時代の治水工事に関心を持ち、わが故郷の富士川の治水工事をはじめ、関東一円で多くの治水工事を手がけた関東郡代の伊奈氏一族に関する資料を集めていたが、そのなかに、授業でもとりあげられた玉川上水に関する書籍があったことを思い出し、玉川上水の工事をレポートの題材にすることにした。杉本苑子氏作の時代小説『玉川兄弟』を読み、かつ、練馬区のはずれに住む私の家の近所を流れる上水ということもあって、かねてから親しみを感じていたからである。
 玉川上水といえば、庄右衛門、清右衛門のいわゆる「玉川兄弟」が、幕府に願い出て工事を請け負い、きわめて短期間で完成させた水路であることが知られている。工事の途中で資金が尽きると、兄弟は、自分たちの家屋敷まで売り払って資金を工面し、工事を完成させたという有名な「美談」も残っている。東京西部の小学生たちは、地元が生んだ偉人として、この玉川兄弟について学んでいるはずである。
 玉川上水については、杉本苑子氏の創作部分の多い時代小説は別にすると、小学生と同レベルの知識しか持っていなかったため、とりあえず時間の許す範囲で調べてみようと考え、東京都水道歴史館、羽村市の玉川取水堰、羽村市郷土博物館などを訪ね歩いてみた。並行して多くの関連資料を購入し、あるいは図書館から借り出して読んでみたのだが、その結果、思わぬ迷路に分け入り、底なしの泥沼に足を踏み込むような状況となった。それは、玉川上水、あるいは玉川兄弟に関して流布されている逸話の多くが、根拠もなければ資料もない伝説に過ぎないことがわかったからである。
 なぜ、そのようなことになったのか。その理由は、ただひとつ、上水完成当時の工事記録の消失にある。

 2.失われた工事記録

 江戸に最初の上水ができたのは、天正18年(1590)8月に、家康が江戸打ち入りを果たした直後のこととされている。海辺に面していた江戸は、井戸を掘っても塩辛い水しか出なかった。そこで家康は、飲料水を確保するため、家臣の大久保藤五郎に上水の建設を命令した。大久保藤五郎は、同年10月には、小石川から江戸市中の東部に上水(小石川上水)を引き、西部には赤坂・溜池の水を送ることにした。
 しかし、慶長8年(1603)、江戸に幕府が開府すると、江戸の人口はさらに膨れあがり、再び飲料水が逼迫するようになった。そのため大久保藤五郎は、井の頭、善福寺、妙正寺の三池を水源とする神田上水を開削した。もっとも遠い井の頭池から、早稲田大学西早稲田キャンパスの北に位置する関口の大洗堰までの水路の長さは、約22キロメートル、幅は約3メートルであったとされている。
 大洗堰で取り込まれた水は、水戸屋敷(後楽園)を経由した後、木樋を伝って神田川の上を越え、江戸市中に入っていた。市中への配水は、地中に埋められた石樋、木樋が担当し、市民は、途中に埋められた溜め枡に溜まった水を、井戸のように汲み出して利用する仕組みである。木樋の総延長は67キロメートルにもなり、溜め枡の数も3,663にも達していたという。
 その後、三代将軍家光の時代になり、武家諸法度によって参勤交代がはじまると、江戸の人口は百万人を突破し、またも飲料水が不足しはじめた。
 幕府が新しい水道の建設を決意したのは、家光が死去した翌年の承応元年(1652)だとされている。幕府は町人の庄右衛門、清右衛門兄弟が提出した工事計画を調査・検討し、彼らふたりに工事の請負を命じると同時に、総奉行に「知恵伊豆」の異名も持つ松平伊豆守信綱、水道奉行に関東総代でもあった伊奈半十郎忠治を任命した。
 承応2年(1653)4月4日に開始された玉川上水(多摩川の羽村取水口~四谷大木戸間、約43キロメートル)の掘削工事は、8ヶ月後(承応2年は閏年で、6月が2回あったため8ヶ月となる)の11月15日に完了し、多摩川の水が江戸まで通水することになる。
 承応3年(1654)6月には、虎ノ門までの地下に石樋・木樋による配水管を埋設し、江戸城、四谷、麹町、赤坂、芝、京橋方面への給水体制が完成した。
 以上が玉川上水の工事に関する概要であるが、実際には、この工事の日程は確たるものではないとされている。というのも羽村の取水口、羽村~四谷大木戸間の玉川上水、江戸市中の配水設備といった遺跡や遺構は、現在も水道施設として使用されているものまで含め、多数の「証拠物件」として残っているが、開削工事着工および完成当時の事情について記された書物が残っていないからである。
 現在、一般的に流布している「承応2年4月4日に工事着手、同年11月15日に四谷大木戸までの区間の工事完了」という工事期間は、玉川上水が江戸市中まで開通してから137年後の寛政3年(1791)に完成した『上水記』という書物に書かれていた内容である。しかも、この工事日程の根拠は、それより76年前の正徳5年(1715)に、上水工事の功績で玉川姓を賜った玉川兄弟の3代目子孫によって書かれた文書の記載がもとになっている。
 徳川家の公文書『徳川実紀』では、玉川上水の工事着工は承応2年2月10日、完成は1年半後の承応3年8月2日とされている。
 工事にかかった経費も玉川兄弟の子孫が残した文書では、幕府が出した6,000両では足りず、3,000両を自分たちで工面したというが、『徳川実紀』では7,500両である。
 玉川兄弟の子孫が残した文書を含む『上水記』には、兄弟が二度も工事に失敗し、松平信綱の家臣・安松金右衛門が立てた計画が採用されて、ようやく工事に成功したとの註が書き加えられている。
 さらに『上水記』の完成から12年後の享和3年(1803)に書かれた『玉川上水紀元』という書物では、『上水記』に登場した安松金右衛門が、最初から玉川上水の建設に関わったかのような記述がある。
 このように玉川上水の建設当初の事情については、同じ江戸時代のうちに、すでに曖昧な状態になっていたのが現実なのである。
 どうして、このようなことになってしまったのか。その理由は、玉川上水が完成した当時の工事に関する記録が発見されていないことにある。
 玉川上水の江戸市中への配水設備までが完成した承応3年から3年後の明暦3年(1657)、後に「明暦の大火」、あるいは俗称で「振袖火事」と呼ばれることになる大火災が発生し、江戸城の天守閣も炎上した。このとき消失した幕府所有の多数の書類のなかに、玉川上水に関する書類も含まれていたのではないかとする説がある。
 また、上水工事で総奉行をつとめた松平信綱は、死去する前、重要書類を焼いて灰にして自分の遺骸とともに埋めるよう指示を出し、家臣も、その遺言を実行したというが、そのなかに、やはり玉川上水の工事に関する記録が含まれていたのではないかという説もある。
 では、なぜ工事完成当時の資料が消えてしまったのであろう。
(1)当時、島原の乱や由井正雪らの慶安事件など、国情が不安定な一面もあり、江戸城や江戸市中の武家屋敷にも引き込まれている玉川上水に関する記録が、安全保障の観点から抹殺されたのではないか。
(2)あるいは、総奉行であった松平信綱が、江戸城に水を引くのと同時に、川越藩の自領に野火止用水を通すのが目的で玉川上水の建設を裁可し、その事実を知られないようにするために、関連書類を焼き捨てたのではないか。
 などの諸説がある。
 水道奉行の任にあった伊奈半十郎忠治は、玉川上水の開削中に没するが、その死因も、つまびらかではない。また、伊奈一族が手がけた多くの治水事業のなかで、玉川上水に関する記録も皆無にちかい状態である。
 杉本苑子氏は、自作の時代小説『玉川兄弟』のなかで、上水のコース変更に関わる半右衛門と清右衛門の兄弟と、松平信綱が背後にいる安松金右衛門との争いに巻き込まれ、自刃したことになっている。伊奈忠治が玉川上水の工事途中、61歳で死去したのは確かであるが、自刃であったかどうかは不明である。
 そこで、ここでは、実際に残された記録のみを参考に、玉川上水について再考してみたい。

 3.『上水記』と『玉川上水紀元』

  3−1.『上水記』の成立と概要

 前述したように、玉川上水の完成当時について江戸時代に書かれた記録としては、『上水記』と『玉川上水紀元』の2資料が知られている。
『上水記』は、天明6年(1786)、佐渡奉行から普請奉行に栄転した石野広道によって書かれたもので、筆を起こしたのは天明8年(1788)、完成をみたのは寛政3年(1791)と、足かけ4年の歳月がかけられている。『上水記』が完成したとき広道は74歳であった。
『上水記』は、神田、玉川の両上水のほか、玉川上水から分岐した千川、品川、青山等、多数の分水についても記され、当時の上水の管理体制や修復の方法などが、全10巻の書物にまとめられている。上水の管理を担当していた御普請方上水方の資料として残すために書かれたもので、それ以外の目的はないと筆者の手で記されている。
 全10巻の書物は3部作成され、将軍家斉と老中松平定信に1部ずつが献上された。残る1部が、御普請方の手で保存されたという。現在、これらの原本は、御普請方に残されていた完本が東京都水道局に、幕府が保管していたものが内閣文庫(2巻欠)に保存されており、松平定信に献呈されたものだけが行方不明となっている(他に明治時代になってからの写本が多数あり)。
 上水完成当時の事情については、玉川兄弟の3代後の子孫が正徳5年(1715)に上水方に提出した書き付け(第8巻掲載)の記載内容が、ほぼすべてである。
 この書き付けによれば、工事期間は前述のとおり、承応2年4月4日から11月15日まで。庄右衛門、清右衛門兄弟は、上水を高井戸まで掘り進んだところで、幕府から与えられた6,000両を使い果たし、残る3,000両を自分たちで手当したことになっている。
 上水の完成後、幕府は功績の大きかった庄右衛門、清右衛門の兄弟に玉川の姓を与え、帯刀も許し、武士として永代まで上水を守る水役人とした。
 玉川兄弟の子孫による書き付けは、いかに初代の玉川兄弟が、上水建設に当たって苦労したか、そして幕府が、どのようにして二人の功績に報いたかを一方的に縷々述べるものであった。
 なぜ、このような書き付けが提出されなければならかったのか。それは、水役人の立場にある玉川兄弟が、付近の住民に対して横暴な態度をとったために、訴えを起こされたという理由があったらしい。上水の完成から16年後の寛文10年(1670)には、現在の西新宿に当たる角筈村をはじめとする上水に接する10ヶ村の名主の連名で、玉川兄弟の横暴さを訴える訴状が奉行所に提出されている(新宿歴史博物館蔵)。ちなみに、この年、玉川上水は、川幅が拡げられ、両岸に堤防が築かれている。地元農民とのトラブルも、水役人の玉川兄弟が、一般人の堤防の通行を禁止したことに端を発したものであった。
 どうやらこのときは、お咎めなしですんだらしい。また、それから45年後、3代目の兄弟が水道方に提出した書き付けも、そのときには功を奏したのかもしれないが、さらに24年が過ぎた元文4年(1739)、3代目玉川兄弟は職務怠慢を理由に水役人を解任され、玉川上水の管理は幕府の手に移っている。新しく代官として上水管理の責任者になったのは、小金井村にある上水の堤に桜を植えさせ、小金井桜として有名にした川崎平右衛門であった。

『上水記』を著わした石野広道は、このような事情に通じていたのか、玉川兄弟の子孫が提出した書き付けには、前述のとおり、松平信綱の家臣・安松金右衛門が立てた計画によって工事に成功したとの註を書き加えている。

 なお、玉川上水の建設に功績があったとされる玉川兄弟は、明治44年(1911)になってから従五位を贈られることで名誉回復を果たしている。

 しかし、それから23年後の昭和9年(1934)、玉川兄弟が上水の掘削に失敗したことが、『上水記』よりも明確に記された新たな資料が発見される。発見者は、江戸文化・風俗の研究家として知られる三田村鳶魚であった。

  3−2.『玉川上水紀元』の発見

『玉川上水紀元』は、正式名称を『玉川上水堀割之起発(并)野火留村引取分水口訳書』という。三田村鳶魚が発掘したものは、玉川上水建設の総奉行であった松平信綱の本家筋に当たる大河内家(信綱は大河内家から松平家に養子に入った)から発見されたものだという。だが、この大河内家本は、現在は行方不明となっており、写本が東京都立中央図書館に収蔵されているだけである。また、筆者である小島文平の親戚筋に当たる東村山市の小町家に残されていた異本が、東村山市立ふるさと歴史館に収められている。
 この『玉川上水紀元』は、『上水記』の成立から12年後の享和3年(1803)、松平信綱の子孫にあたる時の老中・松平伊豆守信明が、普請奉行の佐橋長門守に対して玉川上水の紀元について調べるよう求めたことに対する回答として生まれたものである。
 松平信明の命を受けた佐橋長門守は、先祖が上水の建設に従事したという野口村(現・東村山市野口橋付近)在住の小島文平に、書き上げを命令した。
 小島文平は、八王子千人同心に属する在郷の組頭で、先祖が玉川上水や野火止用水の開削に携わっていたことから、その成立過程に関する知識があったらしい。
 文平の書き上げによれば、玉川上水の建設を請け負った町人の庄右衛門、清右衛門兄弟は、当初、多摩川からの取水口を日野付近に設けたが、高低差の測量を誤って失敗に終わる。つづいて上流の福生村から掘削をはじめたが、水喰土(みずくらいど)と呼ばれる吸水性の高い土地にぶつかり、水が地中に吸収されて、またも失敗したという。
 万策尽き果てたところに川越藩の家臣・安松金右衛門が水盛(測量)の伺いを出し、3案の水路を提案した。その結果、羽村村丸山地先に取水口を設けることが決定され、これが玉川上水の建設を成功させたという内容である。小平で分水される野火止用水は、玉川上水を完成に導いた功績によるものであると『玉川上水紀元』では強調されているが、書き上げを命じたのが川越藩主であった松平信綱の末裔であり、かつ、この文書が松平信明に提出された翌年には、野火止用水の改修願いが高崎藩主(野火止の領主、老中・松平信明の縁戚)から出されていることも考慮する必要がある。
 

  3−3.消えたままの初期文献記録

 以上のとおり、一般には玉川兄弟の功績ばかりが流布している玉川上水建設の功績は、彼らの子孫が自分たちの権利を守るために提出した書類を根拠とするもので、実に曖昧なものである。
 もし、玉川兄弟が二度も失敗を重ねたのだとしたら、やはり測量に問題があったと考えざるを得なくなる。東京都水道歴史館の展示でも、玉川兄弟の測量は、夜間に線香や提灯の光を頼りに実施されたと説明されているが、『玉川上水ノ工事』(阿部一郎)という書物に書かれていたというこの説も、疑惑に満ちたものだといわざるを得ない。
 そもそも玉川上水の建設に当たっては、治水工事の専門家であった伊奈半十郎忠治が、水道奉行の任に就いている。また、息子の伊奈半左衛門忠克も、工事前に水路予定地の踏査をおこなっていたことが記録に残されている。
 半十郎の父親に当たる伊奈備前守忠次以来、関東郡代を継ぐ伊奈家は、関東の治水工事を一手に引き受けていた。関東各地から三河地方にまで、多数の土地に備前堤や備前堀の名が残るのは、いずれも備前守忠次が手がけた工事だったからである。
 忠次の次男に当たる忠治は、元和4年から35年間も関東郡代の職にあり、やはり父親同様に、数多くの治水事業を手がけている。常総平野を流れる暴れ川の鬼怒川、小貝川の流れを分離する灌漑事業も成し遂げ、玉川上水の水道奉行に命じられたときは、ちょうど江戸湾に注いでいた利根川を、銚子に向けて流す付け替え工事が佳境に入っているときであった。治水と水利工事の専門家である忠治を江戸に呼んだ幕府は、利根川の治水工事よりも、玉川上水の完成を急いでいたことになる。
 それまで数々の治水事業を成し遂げてきた伊奈忠治が指揮をとりながら、本当に、庄右衛門、清右衛門の兄弟は、二度も工事に失敗したのであろうか。もし失敗していたのだとすれば、それは測量の失敗でもあるはずである。線香や提灯の明かりを使った測量術に問題があったことになろう。経験豊富な伊奈忠治が、そのような失敗を繰り返すことは考えにくいのではなかろうか。
 しかも玉川上水が流れる水路は、羽村の取水口から四谷大木戸までの約43キロメートルで、わずか92メートルの標高差となっている。100メートルにつき21センチの割合という緩斜面に水路を開削し、淀みなく水を流すことに成功しているのである。それだけの測量技術を持ちながら、二度も取水口の設定を誤ったとは考えにくい。
 伊奈忠治は、上水工事の開始直後の承応2年6月27日に死去し、関東郡代は、息子の忠克が同年12月22日に継いでいる。伊奈忠治、忠克父子が玉川上水の建設で、どのような働きをしたのかは明らかではないが、ふたりが得意としていたのが治水工事であることを考えれば、おそらくは羽村の取水口まわりの工事ということになろう。
 羽村の丸山地先に設けられた取水口は、多摩川に設けられた蛇篭と堰によって、一之水門に水を導く仕組みである。堰は木製で、水中に立てられた棚の間に投渡木(なぎ)と呼ばれる丸太が横に並べられていた。雨で水量が増したときは、丸太をはずして水を下流に流し、水門を守る仕組みである。
 一之水門の先に二之水門があり、ここで水量が調整された水が、玉川上水に落ちる構造であった。二之水門の手前には、多摩川本流に戻る小吐口が開いており、ここから余った水や水門の中に入った砂利を流すようになっていた。
 堰の下流には、玉川上水との間を仕切る堤防から、「出し」と呼ばれる突堤が何本も突き出していた。大水のとき、この突堤で水流を和らげる仕組みである。また、堰の上流には、水流を調整するために丸太を三角形の枠を組み、蛇篭で水中に固定した大聖牛(「おおひじりうし」または「だいせいぎゅう」とも)が並べられていた。
 これらの堰や水門は、明治44年にコンクリート製のものに変わり、現在も使われているが、その構造は変わっていない。投渡木堰も枠の部分こそコンクリート製だが、横に渡される投渡木には、相変わらず木の丸太が使われている。350年前の治水・利水工事が、いまだに現役で使われているということは、元の設計が、すでに完成の域に達していたということであろう。

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 ※写真1:現在の羽村取水堰(筆者撮影)

 このような川の流れを相手にした治水・利水工事こそが、伊奈一族の得意とする技術だったはずである。実際の工事は庄右衛門、清右衛門たちが担当したとしても、設計は伊奈忠治、忠克父子と、その配下が担当したのではなかろうか。大聖牛や「出し」(突き出しともいう)などは、伊奈忠次が参考にしたという甲州流の治水工事でも、よく見られる技術である。
 ところが現存する資料の範囲では、取水堰や水門の設計担当者の名前も不明となっている。伊奈忠治が水道奉行をつとめていたとの記録はあるが、それ以上のことは書かれていないのだ。小貝川と鬼怒川の付け替え工事や、玉川上水が完成した翌年に完了する利根川の付け替え工事では、伊奈父子の名前が、いまも大きく伝えられている。埼玉県にも茨城県にも伊奈町があるが、どちらも治水工事の指揮をとった伊奈半十郎、半左衛門を称えて命名されたものだ。
 一般的には玉川兄弟の名ばかりが喧伝されてきた玉川上水の工事だが、幕府方の工事責任者であったはずの伊奈父子と、総奉行の松平信綱の家臣として野火止用水開削工事の指揮をとったはずの安松金右衛門の名前が、工事が完成した当初だけでなく、その後の記録でも、大きく扱われていないのは、故意に隠されていたからではなかろうか。そんな疑念さえ湧いてくる。
 伊奈父子の名前が出てこない理由として、玉川上水の工事の本質が、民需によるものだったからだと唱える人もいる。だが、玉川上水の四谷大木戸の先、すなわち江戸市中に入ってからの石樋、木樋による地下配管の状況をみると、そうとばかりは言い切れない。麹町十三丁目で二手に分かれた樋筋のうち、一方は四谷門懸樋によって外堀を越えるが、ここで3本に分岐した懸樋のうち、2本は江戸城内に入っていく。武家や町屋への配水を担当していたのは1本だけで、これを見る限り、玉川上水の工事が民需によるものだけとは、とても思えないのだ。
 麹町十三丁目で分岐した一方の樋筋は、外堀の外周に沿って虎ノ門まで下り、ここから桜田門、和田倉門を経て、終点の銭瓶橋まで達している。余った水は、下を流れる神田川に流れ落ちる仕組みだが、川面には、水売りの小舟が待ち受け、積んだ樽で水を受け止めていた。

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※写真2:『玉川上水2~江戸市中の巻~』(東京都水道歴史館パンフレット)より

 こちらの経路も、武家屋敷が多く、町人が圧倒的多数の下町方面に向けて流れる神田上水とは、その性格が異なっているように見える。やはり、江戸城内に住む人々と、参勤交代によって急増した武士の喉を潤すことが、玉川上水の第一の目的ではなかったかと考えてもみたくなる。
 天草の乱や慶安事件の記憶も生々しい頃だけに、江戸城や武家屋敷の安全を確保する意味でも、上水に関する情報が、意図的に操作されたのではないかと考えるのは、うがちすぎであろうか。松平信綱から玉川兄弟まで、当時の工事に関係した人物が、そろって工事の記録を残さなかった背景には、やはり何らかの意図がはたらいていたと考えるのが自然ではなかろうか。
 このようなことを考えてしまうのは、羽村の取水堰から高井戸まで、いまだに用水路が残り、都心でも建設工事のたびに石碑や木樋が多数発掘されながらも、文献資料が未発見の状態がつづいているからであろう。

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  ※写真3:水道に使われていた木樋(東京都水道歴史館にて筆者撮影)

 考古学の授業では、最初に考古学と歴史学の関係について学んだが、玉川上水の建設当時に関する状況は、考古学的な物的証拠はありながらも、歴史学的な文字による傍証が発見されていないため、どうしても隔靴掻痒の状態となる。一般的には、文献に記された事柄が、発掘調査などの考古学的アプローチによって裏付けられる例が多いのだが、玉川上水の場合は、まるで正反対になっているからである。このような状況を打破するためには、新たな文献資料の「発掘」しか道はなさそうである。
 

 4.おわりに

 最初は、もっと短いレポートとなるはずであった。長いレポートになったのは、玉川上水の概略について多少の知識があったうえに、戦国時代から江戸時代初期にかけての治水工事についても多数の資料を読んだことがあり、現地取材の経験もあったからである。これらの資料や経験があれば、玉川上水に関する2,000字程度のレポートなら、簡単に書けるだろうと甘く考えていた。
 しかし、せっかくの機会でもあるので、時間の許す限り、新たに取材をし、資料を読んでみることにした。
 最初に出かけたのは、本郷にある東京都の水道歴史館である。ここには、神田上水や玉川上水の歴史に関する展示があり、都内の工事現場で発掘された石樋や木樋が展示されていることを知っていた。そんな展示物を見学し、資料室で手近な資料に目を通せば、課題のレポートも何とかなるだろうと考えていた。
 玉川兄弟を中心とした上水建設を人形劇仕立てにした展示も、これまでの「定説」をまとめた内容だったため、これなら大丈夫だろうと安心していたのだが、資料室で関連書籍に目を通しているうちに、玉川上水完成当時の資料が存在しないことを知ることになった。
 まさに想定外のことで、あわてて資料を買い集め、早稲田大学の中央図書館にも出かけて関連書籍を借り出したおかげで、工事の総(惣)奉行が松平伊豆守信綱で、水道奉行が(こちらは予想の範囲内ではあったが)伊奈半十郎忠治であることも初めて知った。
 庄右衛門、清右衛門兄弟の功績についても疑問が生じたため、玉川上水に沿って車を走らせ、羽村の取水堰や羽村市郷土博物館も訪問することになった。当初予定していたレポートのコンテはとうに崩れ去り、ゼロから再構築することになったが、実際には、胸ときめくような楽しい体験でもあった。新しい謎が次から次に出てくるからである。おそらくこれが歴史の魅力であり、また魔力でもあるのだろう。
 江戸時代のはじめに開削された玉川上水は、明治になって近代的な上水道システムが完成すると、新宿の西に建設された淀橋上水場に水を送るようになった。東京オリンピックの後、淀橋浄水場が役目を終えた後も、羽村で取水された多摩川の水は、野火止用水への分水口に位置する小平監視所までは、玉川上水の水路を流れ、ここから地下に埋設された直径2.5メートルの鉄管によって、東村山貯水池に送られている。江戸時代に建設された玉川上水のうち、羽村の取水堰から小平までの区間は、現在も現役として、その役目を果たしているのである。
 玉川上水は、平成15年(2003)8月27日、国指定史跡となった。以前から史跡の認定が叫ばれていたが、上水の所有者が国と東京都のどちらにあるのかが争われていたため、指定できなかったらしい。この年、裁判によって玉川上水は都の所有であることが決定し、ようやく国指定史跡となったのだという。
 史跡の区間は、現在、開渠となっている羽村の取水堰から高井戸までの約30キロメートルの区間である。玉川上水は、現在、小平監視所から下流にも水が流され、昔の面影を忍ばせている。
 今回は、時間の制限があったため、深くは追求できなかったが、今後は、授業という制約なしに、野火止用水と松平信綱、安松金右衛門についても調べてみたいと考えているところである。

■参考文献

『玉川上水』(東京都水道歴史館, 2003)
『玉川上水2~江戸市中の巻~』(東京都水道歴史館, 2004)
『羽村市史料集八 玉川上水論集II』(羽村市郷土博物館, 2003)
『玉川上水開削三五〇周年記念事業 特別展 玉川上水 三五〇年の軌跡』図録(羽村市郷土博物館, 2003)
『玉川上水と分水【新訂増補版】』(小坂克信, 新人物往来社, 1995)
『玉川上水の建設者 安松金右衛門』(三田村鳶魚, 中央公論社刊『三田村鳶魚全集』第17巻所載, 1976)
『徳川実紀』(国史大系編集会, 吉川弘文館, 1999)
『新訂寛政重修諸家譜』(続群書類従完成会, 1965)
『日本史総覧(I, II)』(新人物往来社, 1987)
『江戸時代史(上, 下)』(三上参次, 講談社学術文庫, 1992)
『江戸東京年表』(吉原健一郎+大濱徹也・編, 小学館, 1993)
『別冊歴史読本 1年1頁 徳川300年ニュース』(新人物往来社, 1997)
『大江戸えねるぎー事情』(石川英輔, 講談社, 1990)
 その他多数。


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