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〈もり・まさき〉のデビュー作に魅せられて

 こちらの記事にコメントを書いたら、橘川さんから何か書かないかとリクエストがあったので、1回だけ書かせていただくことにした。14歳の読者だった時代からの思い出話なので、〈もり・まさき〉時代については敬称略としたが、その点、ご容赦いただきたい)

〈もり・まさき〉との遭遇

 私が〈もり・まさき〉という名前に出会ったのは、確か昭和39(1964)年、東京オリンピックのあった年のことだ。場所は私が生まれ育った静岡県富士市市内の家から近い焼きそば店(現在も食堂として存続)。焼きそばやお好み焼きを焼く鉄板を囲んでコの字型に長椅子の座席があり、その背後にテーブル席があった。
 テーブル席の両側壁面には、天井ちかくまである大きな書棚があり、そこに貸本マンガがズラリと並んでいた。私は、すでにマンガを描きはじめていて、専業の貸本店にも出入りしていたが、この焼きそば店にある貸本マンガは、専業貸本店よりも古いものが多かった。
 日の丸文庫、ひばり書房、曙出版あたりの本が多く、専業貸本店では主力になっていた東京トップ社やさいとうプロの本は置かれていなかった。
 焼きそばかお好み焼きを注文すれば書棚のマンガは読み放題。いつも焼きそばかお好み焼きをゆっくり時間をかけて食べながら、貸本マンガを読んだものだ。
 書棚には、名古屋のセントラル文庫から出ていた短篇マンガ誌「街」も置かれていた。10冊か20冊くらいはあったのではないか。
 とりわけ「街」を繰り返し読んだのは、毎号、「新人コンクール」のページがあり、多くの青少年(おそらく)の投稿作品が、批評とともに掲載されていたからだ。出崎統、吉元正(バロン吉元)、宮脇心太郎といった名前を覚えたのも、この新人コンクールだった。
 新人コンクールで、いちばん気になったのは、第25回で一挙に2作が入選していた〈もり・まさき〉の作品だった。2作のタイトルは『暗い静かな夜』と『雨の白い平行線』。それまで見たことがない変わった絵で、内容もタイトルどおりの暗い作品だった。
 同じ回の選評ページには、入選に至らなかった第1席として宮脇心太郎の作品の一部が掲載されていたが、こちらの絵の方が完成度が高く、プロでも通じるように見えた。それは新人コンクールのトビラページに掲載された出崎統のカットも同じだった。ザンバラ髪の若者の絵は、このあと、多数発表されるガンアクションマンガのヒーローを彷彿とさせるイカスものだった。
 それらに比べると、〈もり・まさき〉の絵は、上手い絵だとは思えなかった。しかも、いかにも暗い。どこか『墓場の鬼太郎』の最初期時代にも似た暗さがあった。
 ストーリーは、うっすらとした記憶しかないが、やはり絵柄と同様に、絶望的に暗かったのではないか。
〈このあたりの感想は、マンガを描きはじめてマニアぶっていた中2時代のものなので(まさに厨二病(笑))、大目に見ていただきたい〉
 でも、すごく気になって、次作を探したが、その焼きそば店に置かれた「街」の中には見つからなかった。焼きそば店には「街」の全巻が揃っていたわけではなかったからだ。
 かわりに見つけたのが〈もり・まさき〉の写真。2作同時に入選した次号の「街」だったろうか。読者ページみたいなところに、新人コンクールの賞品だというスナップノーズ(短銃身)のリボルバー拳銃(モデルガン)を持つ〈もり・まさき〉の写真が掲載されていたのだ。岐阜県高山市という住所も載っていたような載っていなかったような……。

「街」第25回新人コンクール トビラ
第25回新人コンクール 発表と選評
入選作『暗い静かな夜』
入選作『雨の白い平行線』

※ここまでの写真は2015年夏、福島県只見にあった貸本マンガ図書館「青虫」に、みなもと太郎、夏目房之介、藤本由香里さんたちと出かけたとき、〈もり・まさき〉が「新人コンクール」に2作入選した号の「街」を発見し、撮影したもの。本を開いてくれているのは、夏目房之介さんです。

初長編『燃えてスッ飛べ』の本と原画をゲット

 次に〈もり・まさき〉の名前を見つけたのは『鉄腕アトムクラブ』だったのではないか。同じ中2の頃、鉄条網の下をかいくぐって忍び込んだ製紙工場の原料置き場(富士市は製紙の街で、市内にある大きな製紙工場の敷地内には、国鉄の貨物列車で運ばれてきた古紙の山が、筑豊のボタ山のようにつらなっていた)で、地元書店では売られていなかった「ガロ」などと一緒に発見したのが、『鉄腕アトム』ファンクラブの会誌『鉄腕アトムクラブ』だった。この雑誌を通じて、永島慎二も〈もり・まさき〉も荒木伸吾(やはり「街」などで貸本マンガを執筆)も、虫プロでアニメの制作に参加していたことを知った。とくに永島慎二は「刑事」で『漫画家残酷物語』を読んでもいたので、「マンガを描きながらアニメの仕事もしているのか」とビックリしたことを憶えている。
 そのまた次に〈もり・まさき〉の作品を見つけたのは、貸本店で見つけた「青春」(第一プロ)という短篇誌の中だった。作品名は『わかれの季節に』。37ページの短篇で、読んだことは憶えているが、内容は記憶にない。これは1965年に発表されているから、貸本店で、ほぼリアルタイムで読んだことになる。私は中3になっていた。
 ちなみに第一プロは、劇画家・辰己ヨシヒロが経営する貸本劇画の出版社で、「青春」には、宮脇心太郎、下元克己などがレギュラーで執筆していた。
 1965年には、さらに別の1作を「刑事」(東京トップ社)で見つける。『悲傷』という18ページの短篇だった。これも読んだことは確かだが、内容は憶えていない。
 長編の『燃えてスッ飛べ』の予告は、この短篇が掲載された「刑事」44号で見かけたのではなかったか。「原作=永島慎二、作画=もり・まさき」という組み合わせに驚き、発売を待った。しかし、待てど暮らせど発売される様子がない。ようやく発売案内が「刑事」に掲載されたのは、翌1966年になってからだった。
 私は高校1年生になっていた。前年に出た『マンガ家入門』(石森章太郎)に感化されて「何がなんでもマンガ家になる」と決め、マンガ家に必須の丈夫な身体をつくるために高校では水泳部に入り、連日、学校のプールで泳いでいる頃だった。下校時には、帰り道の途中にある貸本店に毎日のように寄り、「刑事」や「ゴリラマガジン」や劇画集団系の作者の本を借りていた。手塚治虫、石森章太郎の全作品を雑誌で追いかけながら、貸本劇画も読み、週のうち3日は夜になると映画館に出かけ(市内の映画館3館の招待券がもらえた)、その合間を縫って深夜までマンガを描く。そんな日々を過ごしていた頃のことだ。
『燃えてスッ飛べ』は、貸本店には入らないような予感がして、版元の東京トップ社から直接購入することにした。貸本劇画・マンガの出版社は、直接購入を申し込んできた読者に原画を1枚プレゼントしてくれた。「刑事」を直接購入したときは、『漫画家残酷物語』の原画を期待して、「永島慎二先生の原画希望」と書いた手紙を添えて、代金分の切手と一緒に東京トップ社に封書を送ったものだ。送られてきた『刑事』には、確かに永島慎二の原画が二つ折りになって挟まれていた。しかし、その原画は『漫画家残酷物語』のものではなく、富永一朗タッチで描かれた艶笑コメディの大人漫画的な作品の原画で、ちょっとガッカリしたものだ。

東京トップ社から直接購入した『燃えてスッ飛べ』

 しかし、東京トップ社から直接購入した『燃えてスッ飛べ』には、まぎれもなくこの作品の原稿が挟まれていた。原稿は薄手の画用紙。きっちり折り畳まれていたせいで、折られた部分には切れ目が入っていた(この原稿は行方不明)。
 このとき買った『燃えてスッ飛べ』は、いまも持っている。巻末には〈もり・まさき〉の作品リストも掲載されていて、さっそく鉛筆で読んだ作品に鉛筆で印をつけた。『わかれの季節に』にはチェックがついていないが、「青春 11号」と掲載号が書かれていて、読んだことがわかる。

『燃えてスッ飛べ』の巻末に記載されていた作品リスト

 ただし、内容は、そんなに面白いものではなかった。絵も、さいとう・たかを、園田光慶、難波健二、旭丘光二、影丸譲也といった劇画家の作品を見慣れた目からは、マンガチックで古臭く感じるものだった。たぶん〈もり・まさき〉に期待していたのは、デビュー作に見られた「暗さ」だったのだと思う。娯楽作品ではなく、考えさせるような作品。そんなマニアックさを求めていたように思う。「永島慎二劇場.4」「シリーズ黄色い涙 NO1」という文字も表紙に印刷されていたが、「永島慎二の『黄色い涙』といえば『漫画家残酷物語ではないか」みたいな思いもあって、ちょっと肩透かしを食った感じを受けたのだ。

見開きトビラ。
制作記録(あとがき)。
『燃えてスッ飛べ』の巻末に「ぐらこん」の前身が。

 それでも『燃えてスッ飛べ』の雨の表現は、デビュー作の『雨の白い平行線』を彷彿とさせるものがあった。ここに掲載したマンガの1ページは、『燃えてスッ飛べ』を読んで『雨の白い平行線』を思い出し、その雨のイメージで描いてみたマンガの1ページだ(未完成。残っているのは、このページのみ)。キャラクターは、どう見ても、その頃、雑誌系で好きだった久松文雄を意識しているが、内容は〈もり・まさき〉の影響を受けたものだった。

『雨の白い平行線』を思い出しながら描いたすがやの習作(16歳)。

さらば〈まさき・もり〉&真崎守

 その後、〈もり・まさき〉は、ペンネームを真崎守に変え、青年誌で作品を発表するようになる。雑誌掲載時に読んだのは『はみだし野郎の子守唄』(ヤングコミック)と『ジロのいく道』(月刊少年マガジン)など。この2作は好きだったが、他の作品は相性が悪く、のめり込んでは読めなかった。
〈もり・まさき〉&真崎守を卒業しようと決めたのは、「週刊少年チャンピオン」に連載された『エデンの戦士』(原作・田中光二)を読んだときだ。原作の小説が大好きだったので、壮大なエンタメSFが観念的なものになってしまっていて、感性の違いを思い知らされた。
 この後、真崎守氏のマンガは読んでいないが、氏が脚本を担当した1985年公開の劇場アニメ『カムイの剣』(原作・矢野徹)でも、『エデンの戦士』と似た感覚を覚えた。『カムイの剣』は国産冒険小説の金字塔だと信じているだが、やはりイメージが違っていて戸惑うばかりだった。やはり、エンターテインメントに対する考え方や方向性が違っていたからだろう。
 真崎氏には2度だけ会ったことがある。1度目は西武池袋線・富士見台駅の男性トイレ。真崎氏と同じ虫プロ出身のマンガ家・村野守美氏宅(富士見台在住だった)で徹夜麻雀をしたあとの帰宅途中のことだ。駅のトイレで用を足していたら、後から入ってきた背の髙い男性が隣で用足しを始めた。「真崎守さんだ!」と気づいたが、もちろんあちらは私のことなど知るはずがない。場所が場所だし、用足し中だったこともありで、挨拶もせずにそそくさと手だけ洗って退散し、ホームに逃げたのを憶えている。
 もう一度は10年ほど前。明治大学で開催された日本マンガ学会大会の同人誌に関するシンポジウムに真崎氏が登壇し、最後の質疑のとき、1969年当時に「第三次マンガ同人誌ブーム」と呼ばれていたかどうかについて質問させていただいた。このときも、うっかり名乗るのを忘れたので、私がマンガ家だとは理解されていなかったのではないか。後で同席していた人が教えた可能性はあるが。
 いま、作品リストを見ていて思い出したけれど、ブロンズ社から出たハードカバーの単行本は、半分くらい買っていたのを思い出した。『共犯幻想』(原作=斎藤次郎)、『男たちのバラード 連作/燃えつきた奴ら』、『ながれ者の系譜』、『はみだし野郎の伝説』、『ジロがゆく』などだ。書庫を探せば出てくるかもしれない。

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真崎守ご本人とご家族の協力の元、全資料を整理しています。 日本のアニメや、マンガの土台を作る時期に活躍し、コミケの前身とも言われるグラコンを主催した真崎守の全仕事をまとめていきます。

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60年代後半から70年代を全力疾走したマンガ家の記録。

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