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戻らない、夏。 戻れない、夏。

 あのころの夢をよく見る。

 高校の制服を着ている自分がステージに立つ夢。
 異国情緒溢れる神戸で、大好きなみんなが客席にいる。マイクの高さを揃えて、原稿を強く握り、私の声が誰かに届きますように、と心の中で呟く。
大きく息を吸って、そして――――――。




 ここで目が覚めるのだ。ここで必ず夢は終わる。
 ゆっくりとベットから降りて、床に座る。一人暮らしも数年が経って、住み慣れたはずのワンルームが何だか広く感じた。セミの声だけが遠く聞こえる。セミの声をかき消すように、テレビをつけた。


この夢はきっと、本当はあるはずだった夏の話。

 2020年、突然奪われた青春。なんて大層な表現は似合わないかもしれないけれど、私たちは最後の大会を失った。他の部活と同じように、放送部にも大会がある。毎年夏に東京で全国大会の準々決勝、準決勝、決勝があるのだ。しかし、2020年は東京オリンピックがあるという理由で、兵庫県での開催が予定されていた。

 「異国情緒溢れる神戸で、お会いしましょう」
 2019年夏、最後の大会がなくなるなんて、「放送」ができなくなるなんて、誰も思わなかっただろう。

 2020年が始まってからも、兵庫では「冬フェス」と呼ばれる放送部のイベントが行われていたし、関東や東北では地方大会が行われていたんだから。 

 1月あたりから中国から得体の知らないウイルスがやってきたというニュースが流れていた。マスクをつける回数が増えた。2月末になって、政府が学校を休みにすると言い出した。
そして、気がついたら春になっていた。

4月になっても学校は始まらなかった。

このまま、学校が始まらなかったら、もしかして、大会もなくなるんじゃないか ―――。

 同期に電話をしたのを覚えている。
「大会、なくなるのかな」
「受験以外でこんなになにかに打ち込むの、最後だろうし」
「大会、出たいよね。」
「先輩たちみたいに、同期で揃って県決勝上がりたい。誰か先生に聞いてみてよ。」

 顧問ではなくて、他校の先生に聞いた。
「今のところは未定ですが、望みは薄いです。残念です。」
 9割くらいの確率で大会中止であることくらい読み取れた。でも、1割の「未定」を信じたかった。 


 高校生の放送コンテストは、大きく「読み」と「番組」の部門に分かれる。そのうち、読みはアナウンスと朗読に分かれる。アナウンスは、誰かに伝えたい人やモノを自分たちで取材をして、アナウンス原稿を書く。一方で朗読は、予め提示された課題本の中から、伝えたいシーンを抽出する。そして、番組はラジオとテレビに分かれており、自分たちでゼロから台本を作る創作ドラマと、誰かに伝えたい人やモノを取材して作るドキュメントがある。正直作品にかける時間はそれぞれだ。でも、何年も何十年も前の先輩から同じテーマで作品を作り続けている学校もある。放送部員は、夏に向けて何ヶ月も前から、作品を作るのだ。


あの春、「未定」を信じたかったのは、私だけじゃなかった。

 福岡県に住む友人から、地区大会の連絡が来ないと聞いた。彼の住む地区は、全国のどこよりも地区大会が早いという。地区大会の連絡がこないということ。それは、つまり、そういうことだ。
それでも彼らは、番組の取材を進めていたという。自粛中でも、どうにかして作品を作ろうとしていた。
 アナウンス部門で2年間出場していた友人が、人生で初めて課題本を買ったことを教えてくれた。
「今年は朗読で出る。地区予選で落ちてもいいから、放送がしたい。マイクの前で読みたい。」
 アナウンスは取材が命。学校に行けない状況では、取材が出来ない高校の方が多かった。彼女は朗読部門の友人に助言をもらいながら、本を選び、抽出をしていたという。

 諦めなかった。いや、諦めたくなかった。どこかの地区大会がなくなった。どこかの県大会がなくなった。でも、全国大会のホームページは、まだ何も更新されていなかった。都道府県大会があるところとないところがある以上は、平等の観点から実施されるはずがない。口では、まだ諦めたくないといっていたけれど、いつ中止の連絡が来るか、まるで死刑宣告を待つ受刑者の気持ちで待っていた。毎日、毎日、待っていた。むしろ早く中止だと言ってくれればとも思った。諦めたくない、でも諦めさせてほしい。自分のなかでも、相反するふたつの感情がぐちゃぐちゃになっていく。

 
  2020年4月27日。忘れもしない、15時過ぎのことだった。
  大会のホームページが更新された。手が震えて、リンクを押すのも精いっぱいだった。中止のお知らせだった。頭が真っ白になった。分かってはいたけれど信じたくなかった。頭が真っ白だったけど、無意識的にとりあえずツイートはした。同期のグループに連絡した。「中止になりました」という文字を打ち込むたびにやっと現実味を帯びてきた。
 気が付いたら、声をあげて泣いていた。息ができなくて、手が震えて、意味が分からなくて、ただただ泣いていた。

 私たちが、青春をかけた、かけるはずだった集大成は、幻になってしまった。

 なんで私たちだけがこんな目に合わないといけないのか。なんで私たちだけ最後の大会がなくなったのか。前提として、命を守るために仕方ないことだってくらいわかってる、わかっているけれど。それでもやる方法を考えてほしかった。中学校の放送の大会は、全国の準決勝までは音声審査なんだから、高校だって音声データで審査すればいいじゃないか。なんで「中止」って言いきったんだろう。「延期」でよかった。半年後には出来るかもしれない。
 悔しい、悔しい、悔しい、意味が分からない。私の書いた原稿は、脚本は、このまま消えてしまうのか。伝えたいと選んだ題材はこのままお蔵入りになるのか。2019年、大会で出会った同期たちの顔が浮かんでは消えて、浮かんでは消えていく。「また来年会えるから」って、その「来年」が今なくなった。消えた。中止の一言でなかったことになった。もう二度と会えないのかもしれない。スマートフォン越しじゃなくて、生でみんなの声を聴くのが楽しみだったのに。
 先輩たちがうらやましかった。先輩みたいに、高校の同期と横並びで、最後の大会に向けて頑張りたかった。当たり前にあったはずの「最後」が欲しかった。うらやましい、うらやましい、うらやましい。「次はあなたたちの番だね」って、その「次」がなくなったんだよ。私の気持ち、わかる?
 後輩たちがうらやましかった。きっと来年はあるのだろう。秋冬の全国総合文化祭の予選は、きっとあるんだろう。最後の体育祭も、文化祭も、あるんだろう。まだ未来がある。確定していないんだから。50%の確率で大会開催の可能性がまだ残っている。私たちは確定してしまった。
 みんなで基礎練がしたかった。狭くて窓がなくて、夏は暑くて、冬は寒い部室で、部員と練習したかった。解釈違いで、みんなと喧嘩してもいい。原稿が上手く書けなくて、顧問に「これだったら落ちるぞ」って言われて泣いてもいい。予選で落ちてもいい。タイムオーバーしちゃってもいい。全国に行けなくてもいい。賞もいらない。当たり前にあるはずだった大会を返して。返してよ。
 私は、私たちはこれからどうしたらいいの?このまま次の進路に進むために、勉強だけしろってこと?    そもそもこれは現実なのか、いっそ夢だったらいいのにな。


  気が付いたら2時間、3時間が経っていた。


  無意識的に Twitterを開く。

【みんながみんな将来的に放送やるわけじゃないんだよ あたしみたいに何もやりたいことがなくてたまたま友達が入った部活が放送局で、一緒にできるならやろうかなって始めたら信じられないくらい楽しくて、今のあたしにとっては一緒にいる友人と高校ありきの放送なんだよ 将来の話なんかしてねーわ】
【大学もあるじゃんとか、そんなこといわんといて、高校生最後の大会で今のメンバーと一緒に頑張ってきたことを認めてもらえる機会があっさり無くなった悲しさを大学放送ではらす?ちょっと何言うてるかわからん】
【今、先輩たちも憎い。最後の大会があった人たちに私たちの気持ちがわかってたまるか。引退できただけマシでしょ。後輩も憎い。来年最後の大会があるんだから。先輩からも後輩からも哀れみの言葉なんかいらない。やめてください】
【もしかしたら悔しい最後だったかもしれないけど、私たちはその思いをすることさえ許されない】

 みんな同じ気持ちだった。タイムラインに流れる文字列を、ハートをピンクに染めながらひとつずつ読んでいく。

「Nコン中止になったので、明日でアカウント消します。」
「受験に集中します。今までありがとうございました。」

 誰のツイートかはわからない。このツイートをきっかけに、ひとりふたりと、顔も見たことがない「元」放送部員たちが、最期の言葉を遺して消えていく。
 でも、私はアカウントを消せなかった。消せなかった。「放送が好きだ」という気持ちが、自分を構成する最も大きなアイデンティティだった。だから、同じものを好きでいるフォロワーと繋がれるこの場所も、私の一部で、切っても切り離せなかったのだ。「放送部」ではない自分と、この場所がない明日を想像できなかったのだ。



 ――― そして、私は「2020年の亡霊」になった。


 

 2023年春。あれから3年が経った。
 得体の知れないウイルスは共生すべきものになった。いつしか顔の一部になっていたマスクを外してもよくなり、世間はまるで元通りになったかのように動き始めた。
   あれから3年も経ったのに、私は放送をやめられない。大学生になって、小さな放送サークルに入った。友人たちはやさしかった。後輩もできた。でも、コンテスト以外で放送は続けられなかった。みんなとの熱量の差が苦しかった。亡霊は亡霊のままだった。あの頃のようにはできないのだと悟った。
 あの頃となりにいた仲間は、ほぼ放送をやめた。
 友人のひとりは、高校放送に関わるために教員になるらしい。私は人に何かを教えられるほど、よい人間ではないから先生にはなれない。私は、子供を育てられないし、勉強もできない。教職に就き、指導者になろうと思える心が、環境が、羨ましい。眩しくて、眩しくて仕方がない。
 放送を続けている友人も、あくまで、マスコミで就職する未来のために続けている人の方が多い。どこかの県で1位をとっていた彼は、全国の準決勝に進んだ彼女は、アナウンサーになるらしい。
 関西や関東の有名私立は合同発表会がある。わざわざコンテストに参加しなくても、放送を続けられるらしい。だから、コンテストには参加しないという。
 コンテストに参加している大学生との熱量の差も苦しかった。「勝つため」のアナウンスは、朗読は、作品は、私には作れなかった。Twitterにいる大学放送に関わる学生は、同じ熱量で頑張れる仲間がいた。コンテスト以外での活動が眩しくて仕方なかった。
 私は、声の道へ進むのををあきらめてしまった。アナウンサーにも声優にもなれるほどポテンシャルも、バイタリティもない。芸大も専門学校も受験すらしていない。高校放送に関わる職業に就くことも考えたこともなかった。勝手に自分の可能性を狭めて、羨んで、馬鹿みたいだ。
 
 わかっている。気づいている。みんな「高校放送」「大学放送」から逃げたわけじゃない。他に大切なものができて、他にやりたいことができただけ。例えば、文化祭実行委員会、演劇、アイドルのコピーダンス。今大切にしたい何かが、みんなにはあるのだ。いや、やるべきことがたくさんあるんだ。社会人として働いている子だっている。
 本当は、私だって、懐古して、勝手に苦しんで、たられば言っている暇はないんだ。でも、やめられない。頭の片隅にずっと、「2020年の夏」がチラついている。私だけ、あの夏においていかれてしまっているのだ。
 
 あの頃が戻ってきたみたいだけれど、やっぱり失ったものが大きかったのか、失った心のかけらは戻らない。放送ができる環境は有難いことは大前提としても、あの頃のようにはできないんだと悟った。

 
 ――――セミの声だけが遠く聞こえるワンルーム。テレビをつけっぱなしにして、ぼーっとしていたらしい。消そうと思ってリモコンを握ったら、テレビの中で、アナウンサーが言った。

「3年ぶりに、高校生の熱い夏がやってきました」

 反射的にテレビを消す。脳内で、アナウンサーの声が何度も繰り返される。何も映っていないテレビを眺めながら、世間にとっては、全部戻ってきたことになっているんだと思った。世間は私たちと今の高校生が、同じものだと思っているんだ。あの頃の高校生はもういないのに。
 喉の奥がキュッとなった。心臓の音がドクドクとやけに大きく聞こえる。
 幻の2020年があったこと。世間はもう忘れている、いやもともと見えていなかったのかもしれない。アナウンサーもマスコミも悪気はないのはわかっているけれど。命を守るためには仕方なかったことだとわかっているけれど。ふとした瞬間に、思い出しては苦しくなる。
 
  3年が経って、気づいてしまった。この傷は、二度と癒えない。例え、赤い日が東から西へ、東から西へと何度落ちていったとしても。私は「2020年の亡霊」として、永遠を生きるのだ。

 本当に、私たちの「高校放送」は「不要不急」のものだったのか。

 そんなことはない、絶対そんなことはないはずだ。不急だったかもしれないけれど、不要ではなかった。世間にとっては不要でも、私たちにとってはずっとずっと必要なものだった。それは今も同じで、あの頃の思い出は、私を構成する必要不可欠な要素。放送を通じて出会った先輩も、同期も、後輩もずっとずっと大切なものなのだ。これまでも、そしてこれからも。
 だけど、あの夏があれば、もっと綺麗な思い出になっていたんじゃないかって、思ってしまうのだ。





 
 ―――2023年の夏、放送コンテストは70回を迎えたらしい。私たちの67回はまだ始まっていないのに。

 




 あの夏は、二度と戻らないのに。あの夏には、二度と戻れないのに。

 


 
 

 



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