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「ごはん、食べたの?」

私は、ネパールでこの言葉を何度投げかけてもらったでしょう。

Namaste(こんにちは)よりも
Khana khanu bhayo(ごはん、食べた)?
の方が、ずっと多い気がします。

日本では、そんなに多くはないこの会話。
私には、この言葉が抱きしめたくなる程、大好きになっています。

・・・

昨日、至急必要の用事があり、友人の家へ足を運びました。
(ロックダウンが長引いているせいか、思ったよりも取締りは緩和傾向にあるような気がします。)

その帰り道、一つの貼り紙と人の集まっている光景が目に入りました。

何だか気になって、近くのダイ(お兄さん)に聞きます。

👩🏻「これは、何をしているんですか?」
👨🏻「食事の提供だよ。」
👩🏻「誰のために?」
👨🏻「誰でも!子どもだけじゃない、大人だって同じだよ。」

話を聞いていくと、彼らは“ETEE YOUTH CLUB”のメンバーであり、有志の人々が炊き出しをやっているようでした。

朝・夕方の2時間ずつ、近くの病院で調理を行い露天に運んでいるそうです。

食事はネパールの定食、ダルバート。ごはん、ダル(豆スープ)、タルカリ(おかず)、アチャール(漬物)が並びます。

もちろん無料で配っており、それもこの日で10日目になると話してくださいました。

ダイの言葉通り、老若男女問わず人が列を成して食事を受け取っていました。

このロックダウン期間中、食事を満足に摂れないでいる人がいる事を、私はネットの情報で得ていました。

収入が途絶え、貯えのない人や家族は、お腹を空かせていることも知っていました。

コロナウィルスだからではなく、日常的な問題なのは変わりないのですが、それを一層強く感じていました。

その中で、目に飛び込んできたこの光景は、確かにそこにあって、それが現実でした。

ここで行なわれている活動が、どれだけの人のお腹を満たしているのだろうと思うと、胸が熱くなりました。

👨🏻「あなただって、食べられる。食べていきなよ!」

通りがかりの私にだって、その言葉を投げかけてくれました。

・・・

ネパールは、ロックダウンが宣言されてからもう1ヶ月半を越しました。

皆、何かストレスを抱えながら、我慢をしながら、時間を過ごしていると思います。

私自身、最初は「この時間をどう過ごそうか」と前向きに捉えていたものの、流石に厳しくなってきました。

現在は「どうにか今日を過ごさなければ」と消極的な精神状態が続いております。

さらに言えば、私は「何も動けなくて、何もできていない」そんな時間を過ごしています。

そんな中で、一歩足を伸ばすと、心が動かされる場面に出逢えたのです。

食事を運ぶ人、よそう人、列を整える人、声がけをする人...
キラキラと輝いているように見えました。

ただただ、凄いなぁ...と思いました。

自分ではない、“誰かの為”

・・・

ネパールの人々が、「ごはん、食べたの?」というのは、表面上だけの言葉じゃないということを知っています。

「食べてないなら、食べて行きなさい。」
その言葉が、後から付いてきます。

それは、自分のことではなく、相手のことを想う気持ちがある言葉なのです。

外国人で、何人かも、名前も、得体も知れない私...
それでも、その言葉を投げかけてくれるネパールの人々...

どれだけ、人を想う気持ちがあるのだろうと感じます。

最近は
近所で出会う、アンティ(おばさま)たちに
👩🏻‍🦱「家に、ごはん食べにおいでよ!あなたの食べる分なんて、ほんの少しなんだから!」なんて、言って頂けるのです。

ちょっと遠い友人たちからも
👴🏼「歩いて来い!一緒に美味しいごはん食べよう!」
とメッセージや電話がかかってきます。

みんな、ごはんの事ばっかり🍚◎
それに、人の心配ばっかり。

そんな言葉で、私はお腹が一杯になります。

昨日出会った、ダイにも
👨🏻「味見だけでもいいから、食べなよ!」
と何度も何度も言っていただきました。

でも、私には食べられませんでした。

私が食べようとしている分、別の誰かに渡せるのだと思うと、どうしても手が伸びませんでした。

私は、もうその言葉でお腹よりも心が満たされていました。

ネパールの「ごはん、食べたの?」は、相手を思っている証。

ここでゆっくりと暮らして、経験を積み上げて、関係を築いて、ようやく分かったこと。

やっぱり、この国が好きだなぁと思います。

私も誰かに言える側になりたい...
「ごはん、食べたの?」

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