世界が動かなくなった日

無性に本が読みたくなって、最寄りの本屋へと立ち寄ることにした。
そこは、昔ながらのハタキを手に持った、いかにもな頑固おじいさんと、優しげなおばあさんの老夫婦が営んでいる本屋であり僕がいつも、本を買う時にお世話になっている場所であった。

いつもの如くお目当の本を手にレジに並ぶと老夫婦が二人揃ってニッコリとして「いらっしゃいませ」と口にした。
「これを」と僕が言うと。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ!」
「いらっしゃいませ!!」
次第に声は大きくなっていき、焦点のあってない瞳が虚空を見つめながら、ニッコリと、ただニッコリとしながら、同じ言葉を繰り返していた。
「い、いらっしゃいませ」
「い、い、いらっ、いらっしゃ…」
二人の口調はだんだんに、大人しくなっていき、ついには笑顔のままその動作を止めてしまう。
僕は少しの恐怖と、不安を抱きながらその場をあとにした。

すると店の外でも同様に人々は、その動きを止め、虚しくも機械的に点滅する信号だけが唯一作動していた。

いや、違う。目の前に確かに動く何者かの姿があった。
女だ。いや、僕が女だと認識しているだけで、もしかしたら違うのかもしれない。
でも名も知らぬものが、こちらに向かって歩いてきていることはやっぱり確かだった。

女らしき人物。それは僕の中で今この世界で唯一この疑問に対して、その疑念を投げかけることができる人物。

女らしき人物が明らかにこちらを凝視していることがわかった時点で僕は「あの、一体何がどうなっているのでしょうか?」と尋ねると女らしき人物はニッコリと笑って「さて何故でしょうね。でも想像を膨らますと、色々と面白いんじゃないかしら?」
そんなことを口にした。僕は意味がわからなかったので「それって、どういう……」
すると彼女と思しき人物が自身の頭を、その滑らかな指先でトントンとつつきながら「もし仮に。もし仮にあなたが持っている記憶が、本当の記憶ではないとしたら?」
その言葉に僕は、困惑した。

そしてそれは、気味の悪いことに僕自身常々感じていたことでもあったのだ。
僕の記憶が僕の経験したことである証拠が一体どこにある?
ついさっきの記憶ですら、自分が体験した記憶である証明はどうすればできるのだろうか?
そうなれば写真ですらただの紙の媒体にすぎない。もし仮に、頭の中に記憶に関する全ての情報が埋め込まれていたとして、そして僕らが知る必要のない情報を排除されていたとしたら。

その中に僕の想像では考えつかない理由で、この現象が起きてたとしたら?
また新たなチップを埋め込まれて、何事もなかったことにされるかもしれない。
そんな普通では笑われるようなことすら今の自分では本気で信じてしまいそうであった。
「まぁ普通、常識とったことに囚われないことね。考えかたはいく通りもあるはずだから」

そして女らしき人物はニッコリと笑って、笑ったっきりその動きを止める。

僕は想像を膨らませた。
普通とは?
常識とは一体?
なんなのだろうか?

そんな考えを巡らせながら、僕は思考するのをやめた。
考えたからどうなるというのだろう。

僕は目を閉じる。

そして世界は動きを止める。