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隣の芝生が青すぎる

家の掃除をして、明日の誕生日のために買い出しへ行った。主婦の鑑みたいなところがある。ドラッグストアへ行く前に、家中の棚を見て、何を買うか戦略を立てる。ドラッグストアへ着いたら、値札とにらめっこする。スーパーへ行ったら、まずは見切りの品をチェックする。結果、シャインマスカット、冷凍エビ、アボカド、ローストビーフ用の牛肉など、いろいろゲットできて満足した。

昔から誕生日はあまり好きではない。いつもと違うルーティーンを強制される感じがあって、どうにも準備の途中で苛立ってきてしまう。今日もギリギリだったが、なんとか持ちこたえた。明日を待つのみ。とはいえノリノリではないと言ったら嘘にはなる。現に前夜祭はやりたいと思っているのだから。

毎日のようにnoteを更新していると、いろいろな気持ちになる。毎日やっているわりにはわりとクオリティ高くね?  とか自分を励まし勇気づけ、「ところでこんなことやって何の意味があるのだ?」と絶望し、自分の文章力に絶望し、誰も俺のことなど気にしていないのだと絶望し、誕生日なんて年をとるだけのお祭りなんてこなくていいのに、と絶望する。最後のはnoteは関係ないか。

書くことはあるようでないようであるほうだと思う。たとえば昨日、感動したのは、窓のサッシの上に「換気框(かまち)」なるものを見つけたことだ。以前の住居ではなかった。調べてみたら、建築基準法で空気が密閉されないようにしないといけないらしい。知らなかった。シックハウス症候群の予防のためだとのこと。こういう給気口から空気を取り込んで、風呂場の換気扇から空気を排出するというのが一般的らしい。梅雨時は湿気を取り込んでしまうから閉めておいたほうがいいと書いてあった。ちなみに今、ハマっているのは風通しだ。職場の、では勿論ない。文字通り風通しについてよく考えている。エアコンの冷房の冷気がたまる場所にサーキュレーターを置いたりして工夫している。

今朝、彼女にこう言ってやった。「そういえば引っ越してきたときに、ここ(新しい住まい)ではシンクに熱湯をかけてもボコンッって音がしないんだって言ってたけど、その直後に熱湯をシンクに撒いたら、ボコンッって音がしたのが俺にとって今年いちばん面白かったことだよ」。彼女は笑った。

思いつくままに書いているが、基本的に書いていることのだいたいは冗談であることが伝わっているのかが不安だ。以前、黒魔術が使えるのだ、とか書いたことがあったけど、マジで言ってると思われていたらどうしようと思っている。まあどうでもいいのか。

いま彼女が目の前で前髪を自分で切っているが、俺はずっと自分の髪を放置し続けた結果、過去いちどもないくらいに髪が伸びた。夏場に髪が伸びるとほんとうに鬱陶しい。前髪がぴょこんと落ちてきて、納豆を食っていたら前髪まで一緒に食って、「うわあ!」となる。でも、さいきんはそれが続きすぎて、もうどうでもよくなった。このごろどうでもよくなることばかりである。

先日の記事で「自分の車があれば」みたいなことを書いたが、どうやら維持費や駐車料金、ガソリン代が馬鹿にならないらしい。そもそもで金がない俺が、車で海へドライブしたいなんて夢を見たのがいけなかった。夢なんて見ても、現実にガッカリして鬱になるだけだ。もう夢は見ない。でも、ちょっとは夢見ていいかなと思って、彼女に「車で海へ行ってみたいんだ」と言ったら、「バイクは?」と言われたので、「車だって言ってんだろ!」と激おこ状態になった。

とにかく隣の芝生は青すぎる。いま住んでいるアパートは条件がよく、ほんとうにここに決まってよかったなと今でも思っているのだが、同じアパートの別の部屋の間取りを見たら、「うーむ、こっちのほうが良さそうか?」などと思ったりしてしまう。車についても、車でドライブっていいなあと羨ましがるが、維持費については考えない。とにかく、隣の芝生はヤバいくらいに青い。

本当に良いと思っていたら、それについて隠すだろうか。それとも「良い」とアピールしまくって、自分の選択を認めるために必死になって、選んだ道を、物を、自分に「良い」と言い聞かせるだろうか。なんにせよ、自分の庭の青さについては過小評価しているような気がしてならない。

たとえば俺には虫歯がない。普段そんなこと考えもしない。だが、虫歯がある人にとっては夢物語だろう。こういうことは言い出したらキリがないが、恵まれている点を挙げたらキリがない。どうしてこうも隣の芝生は青いのか。ほんとうに青いのか確かめてやろうと思って、相手の庭に足を踏み入れて、ああいまいちだなやっぱと思って引き返した後でも、時間が経つと、やっぱり青くね?  と思う。厄介極まりない。

極論だが、俺は鬱屈として死にそうになってきたら、おかしな表現かもしれないが、殺人で捕まってないだけいい、と思うことにした。その殺人が意味するのは、やはり父である。十分、父を殺してしまう世界線もあったわけだ。そういう記事も書いたことがある。本当に父を殺そうと思ったときが10代半ばの頃にあったが、奇跡的にそうはならなかった。

あのとき、ある意味、俺の人生は終わった。あとはもうボーナスタイムだ。もういい。なんでもいい。自分の芝生の成長を見守っていこうじゃないか。便通が良いなら、赤飯を炊けばいいじゃないか。人間とチンパンジーは近いけどチンパンジーが肉を食っているシーンを想像するとやたらと気持ち悪いな、だとしたら人間が肉を食うのもほんとうは気持ち悪いのかもとか思ったりしてもいいじゃないか。まあ、結局、明日はローストビーフを食うけど。

隣の芝生は青くないと思う。ぜんぜん青くない。「青い」という幻想だけが見えているだけだ。横を見れば、中学生のいじめノリの快感から卒業できないまま中年になった情けないやつらもいる。ああいうふうにならなくてよかったと思う自分はどうしようもないが、まあ実際にそう思ってしまうのだから、それを否定しようとは思わない。表現の自由とか言って、言いたいことを言いまくるより、ここはぐっとこらえて言いたいことを言わないようにしている人のほうが断然好きだ。

生きてます