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やりたいことをやると元気になる

「11時36分、起きた。2時近くまで眠れず久々に父の夢を見た。次第に不機嫌になってきた父が店員に暴言を吐いたのが許せず父を倒し殴る蹴るをしながら『お前がこれから死ぬまでニッコリと笑い続けてくれたとしても、ギリギリ0点だ!』と俺が叫んだところで目が覚めた。」

ブログを書くのが日課になってきた。上のは寝起きにスマホに書きつけたメモ帳の文をコピーしたものだ。0点ではなくギリギリ0点なのかと寝ぼけながら自分にツッコミを入れた。

「やりたいことをやる」というフレーズが頭のなかを時折通過していく。久しぶりに昨日は一歩も外に出なかった。その代わり、家でずっと作業していた。巷では「整う」という言葉がよく使われているのを見かけるけれど、自分的には整理整頓をしているときが一番整う。文字通り過ぎるが、データの管理も含めて整えているときが最もやりたいことをやれているという感覚に近い。

お金をもらってやることは経験上やりたくないことが基本的には多い。当たり前かもしれないが。逆にお金を使ってやることはやりたいことが多い。

「やりたいことをやる」と言う人は多いけれど、やりたいことを仕事でやるのはほとんど実現不可能だと思う。やりたいと思うことは常に遊びライクである。仕事と遊びを混同すると何がやりたいのかわかりにくくなるなと思った。

義務教育を受けずに育ったからか、偏差値云々みたいな話がまったくピンとこない。私の学歴は書類上(存在するのかわからないが)中卒ということになっていると思う。これもまったくピンときていない。そのせいか(おかげか?)学歴コンプレックスがない。単純にバイト募集の貼り紙に高卒以上という条件が載っていると、ああ俺は除外されたんだな、と思うくらいのことはある。

競った結果の中卒とまったく競わなかった結果の中卒ではコンプレックスの加減が変わってしまうのかなと思う。今でも夢に出てきてうんざりする父の存在もあったせいで(おかげで)長年引きこもり生活を送ったりした時期もあったわけだが、労働とは無縁の生活を送った結果、本気(と書いてマジと読む)で職業に貴賤なしと思っている。いつかの清掃のバイトを一緒にした同い年の友達がいたのだが、貴賎なしと言ってもあまりピンときていないようだったのがむしろ自分にとってはとても不思議なことだった。あるでしょという感じだった。

生まれつきというか生まれ育った環境によって強制的に競争社会に参加せずにこられたのは運がいいような気もしている。義務教育を受けなかったことより、暴力のほうがよっぽど心に傷を作る。教育を受けなかったと思うと、多少は、自分には教養がないのだろうかなどとネガティブなときは思ったりもするけれど(頭が悪いと思われるのが怖い)、実際はそんなには気にしてはいない。

世界的に見ても日本は豊かな国だと思う。その国に生きていて、周囲と競う必要性があまり感じられない。どちらが金を持っているか。わざわざ書くと強がりっぽく見えるが、本当にどうでもいい。それどころか「くださいよ」と思う。もちろん冗談だが(15%くらい本気かも)。というか比較で戦おうと思ったら、全部いわゆる負ける(笑)。だからとっくに勝ち負けなんてどうでもよくなった。

でも性根は負けず嫌いだ。ゲームでもトランプでもやるからには勝ちたい。負けてもいいやと思ってやる勝負事なんてつまらない。ガチでやるから楽しい。それで思い出すことがあるのだが、二人兄弟で育ったので、弟とはよくゲームで競い合っていた。お互い負けず嫌いな面があり(弟よ、君は負けず嫌いということにしてもいいか?)、対戦ゲームなどをすると兄弟喧嘩に突入する可能性が高いので、次第に協力プレイのゲームばかりするようになった。

兄弟喧嘩にも同じことが言えて、ぶつかればぶつかるほど喧嘩する意味が感じられなくなった。20代に入ってからは殴り合いの喧嘩は消滅し、建設的な話し合いを自然とするようになった。協力プレイのゲームの攻略法を二人で考えるのと同じように、人生に対しても作戦会議をするようになった。

うまく表現できていない気がするが、勝負事(相手を打ち負かす喜び)に対する無意味さを二十歳くらいで悟った感じがあった。社会には当たり前のように比較があることにどうしても馴染めないまま、ここまできてしまった。父には散々同い年の子たちと比べられたが、それもまあ見事に反面教師にしたので大丈夫。一応俺にもプライドがあるので、父が夢に出てきた場合は毎回ボコボコにしている。

人生を懸けたマジの競争意識は持っていないが、遊びに対しては真面目に取り組みたいと思っている。ブログに関してもわりとマジになる。一時期は体調管理までやっていた。理由も探せばある。子供の頃から父の圧政(?)によって自己表現をする場が一切なかった。絵も音楽も文章もスポーツもほとんどを真剣に取り組む余裕もなく、死んだような魚の目をして生きてきた。だから今こうして文章というツールを使うことで自分を発出させることができるのが本当に嬉しくてたまらない。誰にも邪魔されず(むしろいいねと言ってくれる人までいる!この広大な世界にありがとう!)、淡々と取り組めることが生きている実感すら伴う。

幾年月が過ぎ、対戦ゲームも楽しくできるようになった。喜ばしいよね。前提として「楽しもう」という暗黙の了解があるから、勝負事はマジになったほうが楽しい。ある種、遊びはすべて楽しむための協力プレイだ。だから人生もそれでいいじゃんと思ってしまうのだ。友達の数とか、恋愛の質とか、表現の鮮やかさとか、うーん。変な話、上には上がいるというか。もちろん成長の実感が生きる喜びとは直結しているのだけれど、競うということはほとんどがどんぐりの背比べに過ぎない。競争というのは都合のいい世界でしか存在していない。ある特定の分野のナンバーワンですら、あるルールに則ってやっているだけで、所(ルール)変われば、その能力が発揮しきれないことだって往々にしてあるはずだ。すげえものはすげえんだけどね。それとはまた違う話。

自信というのは比較のなかからは生まれない。自分がやると決めたことをやるなかで育っていくものだと思う。「やりたいことをやる」のも大変だよなあと思う。ビビると止まる。『星の王子さま』は、それに時間をかけた分だけ絆が深まるという物語だったと思うけれど、本当にそうだと思う。やる前からやりたいことはなく、やっていくうちにやりたいことになっていく。家族も友人にも言えることだよなと思う。大げさな言い方をすれば、「”尽くし尽くされた”関係」には愛情が込められる。注いだ時間が愛しさになる。やりたいことをやったらやった分だけ好きになる。好きだと言った分だけ好きになる。推せば推すほど推したくなる。で、ビビると止まる。諦めたらそこで試合終了になる。諦めるのはやりたくないことだけでいい。向いていないことにかける時間は思ったより残っていない。

片思いはつらいよ。人間相手だけでなく。選び取ることが大事だ。選ばなければ、選ばれなかったものを選ぶことになる。「選んだ」という実感が大事だ。それが生きる意味になる。

生きてます