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私たちは暗くなることで光を探す

学生の集団が路地裏で集まっていて、こんな夜にどういう理路だろうと思っていたら、引率の先生が数歩離れて写真を撮っていた。修学旅行なのかなと思いつつ、先生の後ろを通るときにふと「ハーイ!チーズ!」とか言ったらウケるかなと考えていて、俺はやっぱり根明なのかもしれないと思った。

同時に俺にはあの青春はなかったんだよなと切なくもなった。薄暗い十代を過ごしたという記憶の影が、あの集団という明かりによって、よりコントラストを増した。自分がポツンと社会から切り離された存在としか思えず、世界は遠くにあった。いま自分がこうしているあいだにも同世代は恋愛したりバイトしたりして輝いているのだろうなと思っていた。

早く動かなければいけないという焦りが怒りを呼び、怒りが暴力を呼び、暴力が破滅を生む。好意を持つ人間も、師匠的存在もおらず、多くの時間を独房的感覚で過ごした。

真っ暗なトンネルのなかでは少しの光も逃せない。自分自身をどんどん暗くすることで、光に対して鋭敏になる。世界が暗くなるときというのは、どこかで光を探し、さまよっているときなのだろう。そしてそのうち気づく。自分が光であるということを。暗い世界のなかの無数の人々が星くずのように輝くとき、輝かせていたのはあくまでも自分自身であったのだ。

暗闇にそのまま飲まれていくということがどれだけ恐ろしいことか。嫌悪感というベクトルが相手に向くとき、実際には言葉にしていないことでも、その背中をじっと見つめていると、相手が振り向くように、意識から伝わっていく。

不思議なことに、こうはなってほしくないと思えば思うほど、相手がそれに向かって突っ走っていくということが起きる。天邪鬼というより、こちらの嫌悪感に気づいているのだろう。こちらの都合で相手を変えることを、相手は勘づき、より対立が深まる。

理解を求めるほど、無理解がやってくる。それを嫌うほど、それは膨れ上がる。それはたぶんそれだけそこにエネルギーを投入しているからだろう。そのエネルギーの消耗の仕方はとてつもない。呪えば、呪われてしまうのだ。

光へ向かうということがどういうことなのか日々考えながら思ったことがあるのだが、単純に負の思考を振り払おうと思ったよ。もったいないんだよなあと思う。しょうもない消耗の仕方だ。くだらん。

信じ切るという言葉が流れ星のように突っ切っていく。光を信じ切る。この人の言葉がいいなあと思ったら、ガチで採用する。一度振り切る。これはカルトも、ちょっと丁寧に扱って「お」をつけたらオカルトになる、ということさ。

生きてます