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お前が変化になれ

この一ヶ月まるで悪夢を見なかったのに、台風による低気圧のせいか突然悪夢を三日連続で見ている。デメリットばかりじゃない。おかげでブログが超はかどる。外に行く選択肢がなくなり、家で何か取り組もうと思える。こういうときこそ思考をブラッシュアップできる。

あまり人には言うことではないが、臆することなく淡々と文章を書いているわけじゃない。内容がまったくまとまらず、たくさんボツにしている。調子がいいと「自分の限界」をすぐに感じられる。自分にはもっとできるはずだという夢物語が消えて、すぐに限界を感じ取って出せる。

よく考えたら、素人みたいな自分の思索は何通りの答えを提示しようが、所詮、すべて仮説に過ぎない。どんな内容のことも頭が切れる人がとっくに考え尽くしているはずだし、自分が素人であることを思い出せば、何をするにしても気張らないでいい。

最近読まなくなったが、岡本太郎の言葉を時折、思い出す。「文章を書き、自分の考え、問題を追いつめる。当然思索自体がアクションであり、アクションはまた同時に……激しい思索であるに違いないのだ。」

数日前から顕著に「行動すること」について考えている。文章を書くということもまた激しいアクションなのだ。実際に普段何も書かないでいると、日記ですら公開するのに気が引ける。「なんとなく怖い」だけで立ち止まってしまう。

行動する。つまりやりたいこと、やらねばならないことに手をつけること。自分で言うのもなんだけど、けっこう得意だ。先延ばし癖がないほうで、逆にさっさとやらないと気持ち悪くなってしまう。掃除をすることより、掃除をしないといけないと思い続けているときのほうがつらいと思うタイプ。

考えているだけで一切動こうとしない人を見るとすごいなと思ってしまう。明らかに皮肉っぽくなっているけれど、わりと正直な感想で、その強靭なメンタルはどこからやってくるのだろうと、見習いたいとすら思う。

「ブログを書きたい→書かない→気持ち悪い」、「ブログを書きたい→書く→気持ちいい」。めっちゃ単純。「やりたくないことを無理にでもやらなければならない」という状況に陥っているとしたなら、それはたしかにやりたくない。

問題はやりたいのになんとなく怖いこと。これはもう何が怖いのか、あらかじめ考えておくしかないように思う。そしてやりたいことをやらずに先延ばしにして、やるチャンスを失うことのほうがずっと恐ろしいことのように感じる。

先日、友人の誕生日を祝った。昔から祝い事が苦手で、祝うのも祝われるのもプレッシャーっぽくなって嫌だった。でも、祝いたいという気持ちが勝ったから、素直にその気持ちに従って祝った。結果的に本当に祝えてよかったと思っている。「なんとなく怖いから」という理由で逃げなくて本当によかった。

父から受けた影響が強く、子供の頃から顔色をうかがってばかりいた。父の機嫌が悪くなると殴られるから、どれだけ父に機嫌よくいてもらうか。それが子供ながらに生きる使命のようだった。自分の気持ちを優先することができなかった。やりたいことがあっても、諦めるのが当たり前になった。

でも、言われた。「良いことをしようと思ってるんだからやらない理由はない。勇気を持ってこれからもどんどん突き進んでほしい」。自分の気持ちを優先すれば、周りに迷惑がかかる。そう思い込んでいたけれど、そんなことはなかった。自分の思い描いた理想像を実現しようとしても、誰にも怒られないんだ。誕生日を祝った。たったそれだけのことかもしれないが、自分にはとってはとてつもなく大きい出来事だった。それはたしかだ。

他人の変化を待ったり、周囲の様子をうかがい続けたり、それはすべてやらないでいい理由探しのように思う。やらなければ、何も恐れなくていい。でも本当は、何もやらない自分を最も恐れていたのだ。やったほうがずっと楽で、楽しく、自信にもつながる。

人に見せつけるための行動はいらない。それは行動じゃない。自慢だ。自分のためにやる。自分がポジティブな気持ちになるからやる。他人の変化を待つんじゃない。「お前(俺)が変化になるんだよ」と思った。

自分のクローンがもし目の前にいたとして、自分に対して、少しでも尊敬できるところがあるなと思いたい。すげえよお前って言ってやりたい。

生きてます