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変化があっても苦悩は続くが

めんどくせえなあと思いながら、これを書き出す。書くことは、自分を知るための一歩だ。結局、何をしたところでできることしかできないというか、出せるものしか出せない。まずはやってみて、それでできたものに過剰なハードルの高さを求めないこと。それが大事なのではないかなどと思う。

久々に昨日は都内を歩き回っていた。恵比寿から中目黒、渋谷の方面へ。劣等感ゆえなのか、誰も自分のことには興味がないと心の底から思っている。俺の話はつまらない、誰も興味がない。普段からそんなことばかりを考えて生きているわけではないというのは前提で、なぜか自分の気持ちを書くと、こういう卑下が怒涛に心から吐き出されていく。

子供の頃から、自虐的な口癖が多かった。そう思うと、何も変わっていないじゃないか。ちょっと絶望的である。きっと知らない内にできることも増えてきて、だから、昔と比べると圧倒的に生きやすくはなった。対人関係でもそつなく会話もできるようになった。だが、なんだろう。そうした表層的な面よりも、もっと奥深く、根本的な部分から、強烈なコンプレックスに悩まされていると思う。

もちろん、これまでに克服してきた部分もある。自分なりに努力してきたことも多いと思う。数え上げればキリがないほど、コンプレックスに向き合ってきた。追い詰められて、どうしても受け入れざるを得なかった重たい感覚がある。やりたいことは山ほどあったのに、それができず、考えても行動に移せなかった。そんな自分に対して、情けない気持ちが募り、何度も希死念慮に襲われた。

ようやくだよ、ようやくだ。深いため息と共に「死にたさ」から一定の距離を取ることができるようになった。思い返せば、これが一番大きな克服だった。いろいろな人に触れて、変わった。肯定されまくって変わった。その肯定を拒否することだってできてしまったはずだ。それを受け入れた。そしたら、良いほうに変わっていった。

以前住んでいた家は狭くて、周りの環境にもすっかり飽きてしまい、そのせいでどうしても居心地が悪くなってしまった。運良く引っ越す機会を得て、今は新しい場所で少しは穏やかに過ごせるようになったものの、時々、あの頃と同じように虚しさや涙、怒りが押し寄せることがある。環境が変わっても、心の奥底には変わらず残る感情があるのだと感じる。

環境的な問題が気分を大きく左右することもある。たとえその問題が取り除かれたとしても、この体(心の棲む家)は今と昔であまり変わらない。それが簡単に変わってしまっても困る。性格というか性格性がある。それが俺だから。変わらないでいてほしい部分でもある。

薄ら薄らと、自覚できないレベルで、時間の流れの中で少しずつ変わってきているのを感じる。過去の苦しみが薄れ、むしろ生きることには価値があると感じられるようになった。あなたが好きだ。だからもっと生きてほしい。その気持ちが、自分自身にも返ってくる。それが前に進む力になっている。

誰しも悩んでいるのだし。孤独だなあと思うことはあれど、孤独だなあと思って他に生きている人は沢山いるのだろうし。孤独感や虚無感は強烈な痛みを伴うけれど、総じてそれを哀しみと表現するのなら、自分を通じて人の哀しみにも思いを馳せられる。それは意外にも素敵なことだと思う。

ゆっくりと変わっていく。それでも変わらない部分。自分は自分を常に引き連れている。どのように生きても、同じように苦しむし、もがくし、悩む。感情的にもなる。それは元気な証拠でもある。

選択の結果として、今の自分がある。その時々で、一生懸命悩んで選び抜いてきた。後悔もある。でも、やっぱり俺はその時々の自分自身の選択を尊重してあげたいなと思う。だってそうすることでしか、自分が救われないじゃないか。自分で自分を救ってあげる方法って、それくらいしかないじゃないか。変化があっても苦悩は続くとしても、それ自体が救いになるというか。なんというか。

このまま一生変わらないままかもしれない。それでも、オールオッケー。

生きてます