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自信を持つことの難しさ

『夜と霧』のフランクルの「心の岩礁」というフレーズが印象に残った。引き潮になると現れる岩をトラウマになぞらえる。心が満たされないと、過去のトラウマ的記憶が蘇ってくる。心が満たされる(満ち潮になる)と、岩礁は海の下に隠れる。

岩礁という喩えが秀逸だなと思った。あのゴツゴツして波に濡れた感じがいかにも心の傷のようだ。人によって思い出す記憶はさまざまだろう。

まれにシャワーを浴びていると封印していた記憶がブワッと蘇ってきて発狂したくなる。夜によくシャワーを浴びるから、心はすでに疲れていて、満たされない状態になっていることが多いのかもしれない。

心というのは消耗する。目が覚めるとケロッとしていることがほとんどである。寝ても回復しない場合はかなり疲れ切っているのだと思う。とにかく休みが必要な状態なのだろう。休まないことには、心が満ち潮にならない。「時間が解決する」とよく言うけれど、それはただ時間を送るという意味ではなく、自分なりの方法で休みをとるというニュアンスだと思う。

このごろあんまり疲れない。イライラしない。「心が満たされている」という表現は不正確かもしれない。心を消耗するようなことを避けているだけだ。自分の場合は、明らかにSNSから距離をとると疲れない。起きて、家事して、散歩して、ご飯を食べて、よく寝る。疲れる要素が見当たらない。悩みの原因は常に人間関係だとアドラーは言っていた。

蘇ってくる記憶もたしかに人間が関係している。思い出すたびに心がひりつくような、すりむけた肌に直接触れられるような、あの感じ。トゲが刺さったままかのような言われて引っかかっている言葉、つながりが失われてしまいそうな漠然とした不安感。思えば、そういうのも心のバッテリーがだいぶ少なくなっている状態のときによく思い起こされる。寝る前とか。

心の回復方法は大まかに二種類あると思う。ひとつは楽しいと思うことをやること。趣味に没頭するとか。「今」すら忘れる時間を作る。明日のストレスを考えない。もうひとつは心を消耗させることをやらないこと。読んで疲れるだけの情報から距離を置くとか。

「みんな敵だ」モードに頻繁に突入している時期があった。あの日々は、愛されるためには自分はどうなるべきか、そんなことばかり考えていたように思う。人は、動機を行動で強化すると聞いたことがある。出発地点の思い(動機)が、その後の行動によって強化されていく。愛されたいと思って動き回っても、愛されたい思いがどんどん強くなっていく。そうなると悲痛だ。

SNSから離れて心が整うということは、SNSをやる動機が承認欲求を満たすとか、注目されたいとか、そういう欲求に振れちゃっていて、やればやるほどその動機を強化してしまっているのだと思う。SNSで心を満たしたいというSOSを発信していた。そしてますます心を満たしたくなってしまう。

本当はそのままの自分で愛されたい。子供っぽい願いかもしれない。わがままなことを言っているのかもしれない。しかし、行動することで愛されるのなら、行動しなければ愛されないことになる。自分が役に立っている間は生きていてもいいが、役に立たなくなったら生きていないほうがいいのではないかという錯覚に溺れる。

なるべき自分なんてのはいない。元からそのつもりのはずだった。自分がどうすべきかというのは、自分自身を楽しませるはずのものだった。愛されるために、なるべき自分になろうとしていた。それではいつまでも満たされないままだ。岩礁が余計に際立つ。

ベクトルがあまりに自分に向かいすぎていると、殻に閉じこもった印象になる。愛について語るとき、誰も愛せていない証拠のように語る。愛について語れば、愛したかのような気分になる。そういうときの自分を俯瞰すると、誰よりも誰も愛せていなかった。周囲に誰がいたかさえ、覚えていない。

モラルの意味を調べたら「生き方に対する真剣な反省」と出てきた。「真剣」というのは「地に足をつけること」だと思う。「現実」という言葉はネガティブな意味合いで使われることも多いけれど、俺は結構いい意味で使っている。現実的に生きること。これが回り回って、自分に自信をつけさせてくれるのだと思う。

「こんなことをしている場合じゃない」と思うとき、目の前には「こんなこと」しかないのだ。こんなことを真剣にやるしかないのだ。空想の中をいくら飛び回っても、現実には目の前のことしかない。その現実を受け入れて、人は初めて一歩を踏み出すのだと思う。

「愛する」というのは本当にものすごい果てしない旅なんだと思う。簡単に人を、世界を愛せたら、もっと多くの人がにこやかに生きていると思う。でも、そうなっていない。

人間を消耗させるのも人間であれば、人間を元気にさせるのもまた人間だ。叶わない理想を掲げられるくらいなら、今日のお茶碗一杯分の白米のほうがありがたい。その白米をくれるのは、いつだって信じた他者だ。

自己肯定感、自分を信じる、そういう言葉にはトラップが多い。一度それらについて考え始めると、自分のことばかり考えてしまう。自分と向かい合うこともさることながら、目の前にいる体を持った他者とも向かい合うことも大事だ。

他者の中を旅して、また自分に戻ってくればいい。最短ルートは最長ルートだ。人は信じた分だけ、愛が芽生えるような気がしている。

生きてます