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守るべき自我なんていないのだなと思った

部屋に飾るための花瓶を買ってきた。中にはポプリを入れる。香りがなくなってきたら、もらい物の香水を吹きつけてみたい。

貧困というありがちな理由によって損得勘定が強くならざるを得なかった。今月はたまたまちょっとした臨時収入があった。生活必需品は買い揃えてあるので外食をしたり、インテリアにもお金を使ったりしている。自炊すれば節約になるのに外食をする。飾り物を買う。どちらも贅沢かと言ったら贅沢で、無駄かと言ったら無駄だと思ってしまうのだが、これこそが豊かさだよなと思った。必要なことだけで済みそうなところに不必要(非日常)を組み込むと、退屈だったであろう一日に少し彩りが加えられる。

正直ちょっとめんどうではあった。お金が減ることをわかっているなかで気分転換のために動くのは。出かけるのか。怠いな。やりたくないな。「やりたい・やりたくない」という言葉をリズミカルに使ってしまうが、多く気分が関係している。やりたいと思うことは常に慣れていて、やりたくないと思うことは基本的に慣れていない。普段と違ったことをしようとすると何事も億劫である。

めんどくさいことをめんどくさいままにしておくと、退屈が心に忍び寄ってくる。めんどくさいことは日々に嫌気が差しそうなところに差す一筋の光でもある。ちょっと試しにその光を手繰り寄せてみるだけで、思ってもみなかった景色がひらける。

ちょっと前に勉強したのだが、人は自分の気分と同じような現象を引き寄せるらしい。気分がいいほうがいい。気分がよくなることをしよう。そういうような内容だった。それにのっとって動いた。とはいえポジティブなことばかりは起こらない。遊び疲れてグッタリしたら、いつもはたやすいゴミ捨てもひどくめんどうに感じる。

気分が上がり続けることはないから、そのうち下がってくる。明日でいっかと後回しにすればいいことも、無理に頑張って今やろうとしてしまう。「やりたくてやっている」と自分に言い聞かせながら動けたらいいのだろうが、内心、苛立ちを隠せない自分もいる。

物心ついた頃から喧嘩ばかりしてきた。まず最初に苛立つことが問題なのだと思っていたけれど、そこじゃないなと痛感する出来事があった。主観から言い訳を何度も言って、自分を守ろうとムキになっていた。わかり合うための話し合いではなく、相手を打ち負かすための口論が起きると、奈落の底へ沈んでいくような感覚になる。

もうだめだと思って観念した。もう負けた。そしてハッとした。負けじゃなかった。相手の立場になる余裕が生まれただけだった。失いたくない、守り抜きたい自我があったのだと気づいた。一度その自我を手放して、できる限り客観的になってみようと努めた。相手に憑依するようなイメージで、世界を見た。そうしたら相手の気持ちが浸透してきた。そうか、こんな風に見えていたのか。

たとえば、じゃれてきた相手を苛立ちにまかせて振り払ったとする。自分からしてみたら罪悪感を覚えつつも、素直に謝ることができずにいる。それで相手が悲しそうな表情を見せている。自分が傷つけてしまったことがわかっているが、どうにかして自分を正当化しようとする。タイミングが悪かったんだよとか、相手の悲しみに触れるのではなく、自分は間違っていないのだということを発信し続ける。

謝る(謝ってもらう)ことが大事なのではなくて、どういう痛みだったかをお互いがお互いに想像してほしい。少しでもいい。歩み寄ってほしい。できたら気持ちをわかってほしい。理解してほしい。この気持ちから離れる。守るべき自我なんていないことに気づく。振り払った側に留まるのではなく、振り払われた側になりきる。どうしてほしかったのだろうか。強く振り払われてしまった。傷つく。本当はすぐに謝ってほしいけれど、相手は私の気持ちよりもどうして苛立っていたのかをまんべんなく説明してくる。こちらだって苛立ってくる。傷ついたのは私のほうだ。

振り払った自分に戻る。お互い様にしたくなるが、それはどちらも悪いのだと言っているようなものだ。「良いね・悪いね」から離れないといけない。自分を他人のようにイメージする。その時の私の顔がどんな顔だったら嬉しいか。どんな言葉を言ってほしいか。そしてそれになる。

生きてます