「されたい」を「した」に変えていく
老人の男が手に持っている折り畳み傘で電車のなかからドアの窓を叩いていた。同じ駅のホームに降りた。前方を歩いている女性二人に小言を言ったと思ったら、突然、姿が消えた。あの歩く速度の遅さで。違和感を覚え、右後ろに目をやると自販機の下を覗いていた。
そういう見た景色を時たま思い出す。あれこれ考えながら思った。あの老人は焦っていたに違いない。すると、どんどん辻褄が合っていった。そういえばこの前会ったあの人も。笑っているのだが、怒っているようにも見えた。そうか。あの人も焦っていたのかもしれないな。
なんだか最近怒りっぽいなと感じたら、自分自身のなかに焦りがあるときなのだろう。思い当たる節がある。その焦りが老人をとらえた。
典型的なのはお金で、人を焦らせる魔の力を持っている。あれば死なない気がする。安心して過ごせる。そこには焦りも、怒りもない。という、思い込みがある。
すべての怒りは死にたくない気持ちの表れだ。恋愛もそうだ。ないと生きていけないように感じる。得る以上は失う。いいとこどりはできない。常に失う恐怖がつきまとう。
お金も恋愛も、ないことが不自由なのではなく、あったほうがいいと思っていることが不自由なのだ。
生きる目的は食べることだ。腹が減れば、腹も立つ。「弁が立つ」という言葉があるが、それになぞらえるなら、腹が立つというのは、腹で語ろうとしている状態なのだろう。人が腹で語るときは、死の恐ろしさについて語っている。
自分がされたいことを人にもする。これしかないんじゃないかと思った。無駄な時間だったなと感じるときは、得てしてエネルギーの無駄遣いをしたときだ。自分がされたくないことを人にしたときだ。
人に言ったことは自分に言っていること。自分に言ったことは人に言っていること。言いたいことを言うというより、言われたいことを言う。「されたい」を「した」に変えていくのが人生じゃないだろうか。
生きてます