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嫌われても平気

恐れるということは何かを失うことを恐れているのだろう。では、何が失われるのだろう。極度の緊張感に支配されているとき、たとえば何を怖がっているのか。書きながら思うのは、やはり、嫌われてしまうことではないだろうか。

私の人生は平凡だ。これと言って特に何か大きな波があったわけでもなく、わりと悠々自適に過ごさせてもらっている。父は他界している。母は言う。「もし、あの人が今も生きていたら、全国ニュースになっていたと思う」。これは良いほうの意味ではもちろんない。悪いほうの意味で、である。

父は言わば、傍若無人だったので、10代の半ばまでは翻弄されまくった。だがそれももう過去の話だ。父が亡くなって、すでに父と過ごしていた時間以上の時間を過ごしている。与えられた影響はその後の人生を大きく左右するほどだったが、苦しい時間があったからこその今である。

人生右肩上がりだと思っている。10代。厳しかった。20代。冒険。30代半ばになり、人として成熟することがどういうことかを日々考えている。これから後退するかのような出来事が起ころうと、それは前進だ。

愛とは平等なもので、だから、一人に向かって愛しているとか言うと、なんだか違和感がある。それはどう考えても、条件付きの愛だ。偉そうにそんなことを考えているけれど、結局、大切にしたい人間関係がある。平等にすべての人を愛するなんて、まだまだ遠い夢だ。

「嫌われたくない」なんて、そんなことを言ってしまったら、余計に嫌われそうだ。だから、そういうことはあまり考えないようにしている。でも、よく緊張して人前で普段通りに話せなくなったりする。信じ切っている家族の前なら、何でも言える。それなのに、いざ他者的な存在が目の前に現れると黙り込んでしまう。シチュエーションにもよるけれど、本当の自分を出せていないと感じる。

本当の自分なんてめっきり考えなくなって久しい。家族といるときの自分のことを本当の自分だと思っていた。仲が良い人の前では人は明るくなると思う。明るい自分のことを本当の自分だと思っていた。でも一方で根暗な自分も確かに存在していて、人前ではそれが顕著に出る。

自分である以上、全部、本当の自分なのだろう。だが、いいところを見せようとしている自分は仮面を被っている。対社会用の自分。本当はどんな場面でも、同じ自分でいたい。仮面なんて被りたくない。そうは思っても、礼儀を尽くそうと思えば、多少、不自然な自分にもなる。

作られた自分でいると疲れる。そのままの自分でいれば、基本的に疲れないと思う。仲が良い人といると疲れないのは、そのままの自分でいられるからだと思う。

でもなぜ作られた自分でいなきゃならないのだろう。なぜそのままの自分では受け入れてもらえないと錯覚しているのだろう。そのままの自分でいないと疲れるのに。偽りの自分でいれば、疲れる。偽り続けて、疲れ続けてしまえば、どんな関係性も長くは続かない。いつかボロが出る。

だったら最初からボロなんか出してしまえばいいのに。ボロボロの姿を最初から見せてしまえばいいのに。変にかっこつけて、大人ぶる。

欠点は個性だ。「欠点」という表現は使いたくないけれど、他に言葉が見つからない。凸凹がある。凹みの部分が欠点だとして、人はそれを埋め合わせて、完璧な自分でいようとする。でも、それじゃ凸とかっちりはまらない。

勾玉の形をした陰陽のマークのように、反対の性質を持った者同士がぴったりとくっついてバランスを取る。本当に自分と同じような性質を持った人と出会えたらいいのかもしれないが、現実的にそういう出会いがポンポンとあるわけではない。人は欠落を埋め合わせるようにして、協力し合っている。

先日、友人と深い会話をした。友人は言っていた。「嫌われても平気、嫌われなくても平気」。その言葉を聞いて、そうだよなあと思った。本当の自分を出したいと思っているのなら、たとえ嫌われたとしても、その結果を引き受けること。その覚悟を持つこと。相手がどう思うかなんて、自分にはまるでコントロールできない。仮にコントロールができたとして、それはただのマインドコントロールじゃないかと思う。

あくまでも自分がどう思うかでしかないんだよなと思う。嫌われたと感じたなら、疎遠になっていくのだ。こちらが向こうに好意を持っていて、向こうもこちらに好意を向けてくれるなら続く。そう考えると、カゾクとかトモダチとか、ギリギリのバランスで成り立っているのだなと思う。そのバランスが少しでもズレたら、距離が開いていく。そして距離が開いたとしても、まったく問題ないのだと思う。

「去る者追わず、来る者選ぶ」と言っている人がいて、印象に残った。去る者を追わない。これがけっこう難しいなと思った。気づいたらまあまあ追っちゃってたりもする。向こうはもうここにはいないのに、終わっていない感じがあって、未練がある。来る者拒まずの部分が選ぶになっているところがミソなんだろうけど、普通に去る者追わないってところが響いてしまった。

生きていると自分自身の波長みたいなものが変化をしていく。最近、妙に明るいほう、光のほうに惹かれている。今までのコミュニケーションの仕方や関係性が心地よかったとしても、今はもう違う。心が、ここではないと言っている。そういう感性に従っていったほうがいいのだろうなと思う。

不快だなと思ったら、不快なものを叩くのではなく、快のほうへ意識を向ける。それが今の自分自身の課題だと感じている。過去は過去。大切な思い出ももちろんあるけれど、不快な思い出にいつまでも執着しないでいい。記憶を振り払う。今、大切にしたいものを大切にする。そこで素直さが必要なのだろう。対社会用の自分自身があまりにも硬化すると、何が大切なのかすらわからなくなる。

人は本当に大切なものに嫌われるだろうか。大切なものは愛せるし、愛されるのではないだろうか。嫌いになってしまったら、もうとりあえずそれでいいんじゃないだろうか。嫌われてしまっても、それはもうどうすることもできない。たくさんの人が生きている。一人に嫌われてもいいじゃないか。そんなことで人生は終わらない。百人に嫌われても、人生は終わらない。

どこに向かっていきたいのか。それしかないんじゃないだろうか。陰に傾きすぎているなら、もう少し光へ。明るさだけじゃ眩しすぎるなら、静かな暗いところへ。人のことはどうすることもできない。自分が何を求めているのか。どんな気持ちで、それをやったか。それがすべてじゃないだろうか。

生きてます