見出し画像

惑わされるな

眠い。やたらと眠い。糖分の摂り過ぎだろうか。気分が優れない日ほど、甘い物がほしくなる。しかし、他にやることもないので今日もこうしてエディタを開いてキーボードをペチペチと叩いている訳だ。書き始めないことには何も浮かんではこないので、とりあえずペチペチしてみている。これを読んでいる人はどれくらいいるのだろうか。ブログというのはネット上に公開されるものなので、プライベートな日記とは違う。書き手として表現したいことと、読み手の読みたいものが一致している可能性は限りなく低い。だからどれくらいの距離感で書いたらいいのか、さっぱり不明だ。

どんな風にしろ、書けるように書くことしかできない。人目を意識し過ぎると何も書けなくなるし、自分の世界に入り込み過ぎると日記に書いておけばいいじゃないかと思うので、そこのところの絶妙な間を模索していきたいと思いつつ、結局、今日もどっちつかずの中途半端な表現しかできない気がする。ので魅せようなんて考えずにダラダラと思うところを書いていきたい。

6次の隔たり

6次の隔たりという言葉をご存知だろうか。つい先ほど、そういえば知り合いの知り合いをたどっていくと6人目で全世界の誰とでもつながる理論あった気がするなと検索してみたら、その言葉がヒットした。気になる人は詳細を調べてみてほしいのだが、なぜいきなりそんなことを思い出したかというと、要するに俺の記事もページビューが6あれば全世界の誰とでもつながっているという計算になるのではないかと思ったからであった。

6だ。6あればよい。Twitter、ましてやブログ(note)さえいいねの数が可視化される。まるで一つ一つを微細にチェック(評価)されているようで気軽に投稿しようにも尻込みしてしまう。これ意外と心理的負荷が大きい。萎縮する。心当たりある人もいると思う。最近では、ご親切にも「この記事は〇〇回読まれています」と表示されるウェブサイトもあるので、そのうちページビューを表示するか否かも設定一つで変更できるブログも誕生するのではないかと怯えている。

繰り返すが6である。6人に読んでもらえたらいいのである。今、決めた。これで一気にハードルが下がった。目指せ、6。Twitterを始めた当初から、変わっていない思いがある。数字はあくまで広さであって、価値ではないということ。Twitterとブログを始めてから、もう6年以上経っている。定期的にそのことを書いているのだが、未だに共感されたことはない。それどころかフォロワーの数で人をジャッジする人もいる。

この頃ついついゴシップ関連のニュースを覗いてしまう。芸能人が収入や貯蓄額をちょくちょく発表するようになっていて、世も末だなと思った。気になるという意味では俺も同じなのだが、普通に品がない話だと思うので控えたほうがいいのではないだろうか。こんなことを書いたところで意味はないのだが。資本主義は加速している。このままだと数字命みたいな価値観が増えていきそうで、そうなってくると俺の肩身は狭くなる一方なので保身の意味でも物申していきたい。

お前と一緒にしないでくれ

お時間が許す限りお付き合いいただきたいのだが、共感とは、「人に物事を考えてもらっている証拠」になる危険性を孕んではいないだろうか。「わかる!」で終わりそうな気配がある。人の意見は考えるための道具になると思うのだが、「わかる!」という共感だけで終わると何も前進しないような気がする。先ほど、いいねの数は広さであって価値ではないと書いても誰も共感してくれないと書いたばかりだが、よくよく考えてみると共感なんてされなくていいのだ。

最近、文章を書く意味について頻繁に考え込んでしまう。世間は黒か白かではっきりとさせたがる傾向にある。肯定か否定の二択ばかりで辟易する。そこに言葉という道具で風穴を開けたいのかもしれないと思った。どんなに一生懸命に書いたところで「承認欲求ね」の一言で片付けられやすい。そんなわけねーだろと言いたい。数字のため、金のため、承認欲求のため。たしかに世の流れ的には、そちらの方向へどんどん流れているかもしれないが、せめてこれは言わせてくれ。俺は共感されるためにやっているのではなくて、思ったことはちゃんと述べたいだけだ。そして、俺のパレーシアによって考えるきっかけを持ってくれる人が現れたなら、それに勝る喜びはない。

体調不良の原因

正直、頭脳明晰な人は他にいっぱいいるので、俺のnoteを読むより、プロの文章であったり古典であったりを読んだほうが遥かに有意義な時間を過ごせるとは思うが、それだと例によって卑下にしかならないので腹に力を込める形で自虐を控えたい。それにしてもいくらなんでも情報社会過ぎると思う。考える時間が奪われているなと感じる。情報をインプットしている間、思考はできない。この頃、比較的すらすらと文章が書けているのは、俺が成長したんじゃなくて、シンプルに一日の前半はアウトプット、後半はインプットに分けたからだと思う。

一日、特に何もしていないのに疲れるのはテレビやネットといった媒体に触れ続けているからだ。人間にはもっと空っぽな時間が必要だと思う。シャワーを浴びているときにアイデアが浮かびやすいとよく言われるのは、適度にリラックスしているのもあるだろうが、それ以上に情報に触れていないからだと思う。情報を見ている間は「反応」は起きても「思考」は起きない。一人で虚空をぼーっと見つめるような時間(散歩もいい)を大切にしないと、人々は日々を過ごしているだけで疲れ果ててしまう。

安易にSNSを見るのをやめろと言いたいのではないが、SNSを見ている間は少なくとも運動はできない。ネットは相当、取捨選択しないと安易な情報に脳みそをやられてしまう。鬱っぽくなったり、死にたくなったりするのは、基本的に身体から来ていると考える派だ。日光不足、運動不足、食べ過ぎ・飲み過ぎ、情報に触れ過ぎ。何かが不足しているか、何かが過剰か。問題を心の問題だと一度設定してしまうとなかなか抜け出せなくなる。いくら考えても、確固たる正解なんて見つからないのは明白だ。思い悩んでいる間にも時は過ぎていく。低気圧による頭痛などの体調不良をメンタルが弱いせいだと片付けても、結果は目に見えている。即死である。

最悪のバイアス

話の内容は連鎖的に変わっていくが、ところでバイアスといえば種類はいろいろある。挙げるとキリがないので慎むが、中でもとりわけ厄介なのは、自分が生きている世界を実社会だと思い込むバイアスだと思った。調べていないのでそんなバイアス、実際はないかもしれないが。――思う。この世に実社会などないのだ。人間は自分の生きている場所(環境)を全世界かのように都合よく生きる。そして、このバイアスにはマウントの力が働いていると思う。自分の生きている世界を中心だと思うことによって、別世界の住人を見下せるのだ。

肩書で考えるだけでも、例はいくらでも見つかると思う。サラリーマンの世界にはサラリーマンの世界があり、フリーランスの世界にはフリーランスの世界があり、またその階層下にある職種によって無限に世界の数は増えていく。スピリチュアルや宗教、哲学。どこかしこに世界があり、どこかしこに対立がある。一つ言えるのは、世界の中心はどこにもないということである。世界の中心がここであると思うには世界は広すぎる。

それでも決して悪いことばかりではなく、了見が狭いことによって自分の世界を語ることができる。すべての世界に忖度しつつ、自分の意見を主張するなんて芸達者なことはできない。沈黙は金、言わぬが花、口は災いの元と、話さないことを美徳にする言葉は多い。正直、あまり好きな考えではない。好きなのは自意識が破裂しそうになりながらも挑もうとする姿勢だ。自意識は否定的に使われることが多いが、俺はむしろ自意識は爆発するくらいまで肥大させたほうがいいと思っている。自意識に取り込まれると、ぽつんと世界に一人取り残されたような気持ちになる。それをかっこつけて孤独と命名したい。人は孤独の味を知ってしまうと、元には戻れなくなる。この孤独(人生)から、人はバイアスにまみれた理想論を語り始めることができる。

世界は理想論でできている

正直、今日はイライラしていた。街を歩くと、こんなことは言わないほうがいいのだろうが、日本は終わってるなと思うし、これかも衰退が続くだけだろうなと気が滅入った。同じような感性の人に背中をポンと優しく叩かれたかった。でも書いている間に心に安らぎが訪れてきた。書く。自己療養だ。頑張り過ぎないほうがいい。変に頑張ってしまうと、物事を達成するために頑張っていたはずなのに、いつの間にか頑張っている自分を見せたいだけに変わってしまい、気付いたら、他人にも頑張るということを押し付ける格好になる。私が我慢しているのだからお前も我慢しろと同じくらい身勝手だ。

いろいろな思考に汚染される。自分のことばっかり考えてしまっているような、言い換えれば、他人のことばっかり考えているような、もう訳がわからない状態になる。毎日のようにああでもないこうでもないと脳内で衝突が起こる。自分一人戦争をしているみたいだ。でも、最後にいい感じに締めくくりたいので、急に畏まるが、基本的に「愛は投げっぱなし」だと思う。見返りを求めている時点で愛は愛ではなくなる。「くそ!」と喚き散らしたくなることも多発するが、どうか愛だけは忘れずにいたい。理想が現実を理想に近付けていく。これからも語っていこう。理想論という名の愛を。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。