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胸を張って生きる

一日動くと二日は休まないと疲れが取れない。12月は怒涛で、三森としてはここまで生き切った気分でいる。肉体が疲れているというより、脳が気疲れを起こしているような感じで、こういう時は寝るに限る。三日間くらい爆睡を繰り返していたら、ようやく60%くらいまで回復したと思う。でも、まだ全然疲れている気がする。時間が空くと、すぐに何かに取り掛かりたくなるけれど、どうせ予定は真っ白なので、生きようと気負っても、疲れと気概が衝突して錯乱するだけだと思うので、ここは無理をせずに休みたいところ。

不慣れなことを繰り返しているから、気持ち疲れているだけで心の奥は本当に最高に気持ちのいい出会いに出会えた気持ちでいる。社交辞令的に褒められることはあったような気がするが、そういう褒め言葉はすぐに忘れる。心の底から思って言ってくれたと思える言葉は胸に浸透し、心を潤わせてくれる。今までここまで存在を肯定してもらえたことがあっただろうか。そういう12月前半になった。本当にいいことがあるとブログに何も書けなくなる。

変に言葉にしようとすると、あわや自慢になったり、あわや承認欲求を満たすだけの表出になる。事実のはずが、まるでフィクションのように形を変えてしまう。もちろん最高のものが書けるなら、いくらでも書きたいのだが、足を踏み外すと俺はこんなにやってますよアピールにしかならず、表現の難しさを感じさせる。人にはいい面を見せることに慣れるが、自分の心からはどうやっても逃れられないので、ひょっこりと顔を出す心の汚さ、つまりエゴをどうコントロールするか。誰にも見られない裏側でも美しくありたい。

ジム・キャリー主演の『トゥルーマン・ショー』という映画がある。生まれてから現在に至るまでの人生を、24時間生中継でテレビ放映されていることを彼は知らないままで生きている。陰で言う言葉も、全公開されているような気持ちで生きていきたい。ある程度、人生経験を積むと初対面ですぐに相手と自分の相性がわかる。それだけ自分のことを知り始めたということでもあると思う。理想の出会いとは何か。お互いを肯定し合える間柄だと思う。

自分を知るには、肩書やスキルを武装するより、自分を徹底的に許すことが最短ルートだ。俺は何もできない。歌も下手だし、絵も描けないし、ダンスも踊れないし、運動音痴だし、勉強もできない。できないことを挙げればキリがないが、だから何だろう。自分を擁護する形になるが、できる人に価値があって、できない人に価値がないのか。先日、「俺には何もありませんよ」と自嘲したら、Nさんに「みっつくんには心があるよ」と言ってもらえた。

人の役に立てば、収入が増えるとよく聞く。では、金がない人は人の役に立っていないのか。金が稼げない人間は無価値なのか。言うまでもなく、そんなことはないのだ。私たちには心がある。魂がある。生きていれば運もあれば運命もある。あらゆる事象に翻弄される。何が起こるかわからない。いつ何を失うかもわからない。生きているだけでリスキーだ。肉体を生かすために一生懸命働くのも素晴らしいことだとは思うが、それ以上に心を死なせないことのほうがずっと大切ではないだろうか。本当の死は心が死ぬときだ。

物を捨てて裸一貫になってもいい。だが、大事なのは物を捨てることそのものではなく、所有することに惑わされないことであり、かつ、心がどこにあるのかを発見することだ。痛く苦しくなるほど、俺は自分のことしか考えていないのだなということを突き付けられるような日々だった。心や魂を対価に豊かさを手に入れても、それは本当の豊かさだとは思わないし、多くを持っているから偉いとも思わない。持っていようと持っていなかろうと心を保っている人に惹かれる。心を失わないでいる人は永遠に美しいままなのだ。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。