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光を見ることを忘れてないかい

人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だという言葉を孤児院で育ったチャップリンは残しています。怒涛の五月の終わりはドトールで迎えております。三森正道です。三年分生きたかのような月になりました。起こった出来事は書こうとは思わないけれど、思ったことなら書こうと思える。

唐突ですが、自分にとって今までやってきた殆どの仕事は苦行でしかありませんでした。業務が遂行できないというより、対人関係で毎回つまずいてきました。自分のような人ばかりではないのが世の中のようで、営業や接客に強い人もいるし、仕事しないとだめになっちゃう人のほうが多そうです。

人は働きすぎよりも休みすぎのほうがだめになりやすいのでしょう。自分に関しては人生の3分の1は無でした。引きこもりを抜け出すきっかけになる最初の一歩の難しさは半端なかったですが、年々、自分でも驚くくらいのスピードでできることが増えています。前だったら緊張で胃が痛くなるような場でも、今では平然としていることに気が付きました。

中卒なので高卒以上と求人誌に書かれている時点で応募できない。選べる職が少なく、右も左もわからない10代の頃の自分にとっては働くということ自体のハードルがとても高かったです。働けない自分はだめな人間なんだとずっと思っていました。

今は自分なりのやり方で地道に生きておりますが、人としてあるべきであろう姿に頭を悩ませるより、楽しいことを全力で模索していたほうが結果的にやりたいことが増えて金を稼ぐ意味を見つけられていたのではないかと思います。

本当のセーフティーネットは人だと思います。生きていく上で必要最低限の環境だけでなく、しんどいの後に寄り添ってくれる人がいないと立ち直れない。人生とは、自分のことをわかってくれる人との出会いの連続だと思います。その出会いは待っている間はやってこないんだけど、動き出すと向こうからやってくる。

自分のことを理解しようとしてくれる人たちは光です。その光に当たると回復するので立ち直るスピードも早くなるし、その波に乗ると、できることが増えるスピードも上がる。自分は落ち込むと闇の中に入り込んでしまって光のほうを見ることを忘れてしまいますが、いつでも光はそこにあって、自分を照らしてくれている。

闇の中では、世界はまるで闇しかないように思えてくるし、自分や他人と向き合うのは強さでもあるから、それを考えないようにすることは考え過ぎるような性格にあっては残酷なことのようにも思える。けれども時には思い切って向き合うことをやめないと人生が一時停止状態のままになってしまう。自分はいま闇の中を泳いでいないか。光を見ることを忘れてはいないか。考えるのはそこだ。

闇の中にいれば、光はどこかわかりやすくなるから、向き合うメリットも大いにあるけれど、闇の中を生きることがメインになってしまうと、きっといつか窒息する。闇の別称は「こうあるべき」だと思う。先日、横浜の街を歩きながら思った。みんながこうあるべきにとらわれるとみんなが幸福になるんじゃなくてみんなが不幸になる、と。

自分に対しても、人に対しても、こうあるべきだモードが続くと、どこかで息切れする。何もかもが嫌になってくる。人としてどうあるべきか深く考え込んでしまうときこそ、純粋に楽しいことをしようと思った。諸問題は一旦すべて忘れて、自分がいま一番楽しめそうなことに集中し始めると、いつの間にかエンジンがかかり、光へのドライブが始まっている。昔の自分にも、今の自分にも言いたい。光を見よう。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。