見出し画像

希薄なつながりが増えると寂しさが増長する

寂しさを取り除く一種の答えになるのかはわからないが、ぼんやりと書いてみたい。先日、母親と電話していた。俺は「いろいろあってね」と近況報告をした。常時ネットにつながっていると疲れると伝えると、母は「私は本当にそれがいやなの」と言った。

自分に似ているなと思った。俺も実際正直になると「極力親しい人と以外はリアルでもネットでもつながりたくない」と思う。これは遺伝だったのかと思う。ではどうして俺は「つながろう」と意識しているのだろうと考えた。

「生きていくため」。最初に浮かぶのはそれだ。友情もつながりを持とうと意志を発動しなければ長続きしないし、仕事もコネが大事だ。俺は自分の奥底で「人とつながることが生きていくこと」だと思っているようだ。

長い間、引きこもりをしていた自分にとって人とつながることは永遠とも思えるほどの課題だった。それを克服するため、ここ数年間いろいろなことをした。失敗もたくさんしたし、本当に出会えてよかったと思う出会いもあった。もしもこの人と出会えてなかったら。俺は途方もない虚無感と共に今を生きていたと思う。

だから出会いは大事だ。でも、そこに落とし穴があるなと思う。つながること自体が目的になると感情に振り回される。今や承認欲求を満たすためやアテンション稼ぎの時代になっている。過激な表現をして人が集まれば、それが巡り巡ってお金になることをみんな知っているからだ。コネは金になる。

しかし冒頭の通り、俺は今やつながりをとにかく断とうとしている傾向にある。つながりたくないのだ。たまにでも思い出す顔。会わなくても思い出す人。俺にとってそういう人たちは特別な存在だ。そういう人たちとの関係性を大切にしたいのであって、誰彼構わずつながりを持ちたいわけじゃない。

希薄なつながりが増えると寂しさも一緒になって増えていく。寂しさとは人間の奥底にある感情だと思うから、出だしと矛盾しているようだけど取り除くことはできない。寂しさとは裏を返せば、誰かとつながっていたい欲求でもあると思う。その欲求があるからこそ人は生きていける。だが寂しさが募るとそれはやがて虚無感に変わっていき、次第に身も心も蝕んでいく。

寂しさをこじらせている人が多すぎるなと正直思う。人とつながろうとし過ぎだと思う。中途半端につながろうとするから、どんどん寂しさが増長していって余計に寂しくなる。まるで負のループだ。

では誰とつながったらいいのだろう。これはヒントになるのかはわからないけれども、離れると寂しくなる人とのつながりは偽のような感覚を持つ。俺にとって大切な人。真っ先に浮かぶのはやはり家族や恋人の存在だ。しかし面白いことに家族や今の恋人と離れてもまったく寂しくはない。会いたい、一緒にいたいとは強く思うが、離れていても不安になったり寂しくなったりはしない。わかってくれている感覚があるからこそ、もう一人の自分のように感じる。

とある人の集まる空間にいたとして、そこから離れると一気に寂しさが押し寄せるときがある。あの感覚。つながりが希薄だからこそ押し寄せる寂しさがある気がする。当然だが寂しさを感じない相手と共に過ごしていると寂しさは感じない。恋愛も友情も執着があると離れている間、「誰かに奪われている感覚」が巻き起こり、自分のものにしたいと思う気持ちに束縛される。

誰でもいいからつながっていたいという願望があると物を捨てられないのと一緒で心の中がゴミ屋敷になる。大切なものは案外少なく、人間関係にも同じことが言える。関係を手放していくときはまるでその人(たち)がいないと生きていけなくなるような感覚になり、初めは怖いが、つながっていないと生きていけなくなってしまうような不安のつきまとう関係性こそ手放していいのだと思う。

希薄なつながりが増えると寂しさが増長する。会わなくてもいい関係性というと軽薄に聞こえるが、会わなくても平気な関係性が増えるほどに生きていくことの不安は解消されていく気がする。大切な人を大切にする。時間は有限だ。生活するための煩わしいだけのつながりを求めている間、大切な人との時間は減っていく。

それがないと生きていけないなんてことはそうそうない。むしろそんな執着にとらわれている間は豊かな時間は過ごせない。俺は今わりとカットに夢中だ。もちろん友情はカットしないが、友情未満はカットする。顔の見えない相手に好かれたところで何も得られないことは知っている。惨めになるだけだ。なぜならそこには媚があるからだ。

生活の不安からくるつながりではなく、この人と一緒に過ごしたら楽しいと思えるつながりが友情。恋愛の中にも友情がある。俺は今、自分のために生きている。自分のために生きる。ごくごく当たり前の前提だが、するっと抜け落ちてどっか行ってしまうことがある。それを取り戻す。それはごまかしなんかではない。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。