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「こっち側」の人間が担う役割

主に同性に対してだけど、
昔から常に一人は「見本」みたいな人間に会う。

もっと直接的に言うとしたら
「憧れて」しまう。

共通点は、みんなぼくとは
絶対的に何かが違う存在だということと
なぜかそういう人と相性が良いことだ。
わりと、深いところまで仲良くなる。

もうほとんどの人とは縁が切れてしまったけれど
みんなぼくにとっては
なりたくても絶対になれなかった
真逆のような人たちで、
憧れという光や熱をまとった
太陽のような存在だった。

小学校も中学・高校の頃も、
大学も、社会人になってからの今も
常に一人はそういう存在がいる。

今も、仕事や習い事を通じて、
絵に描いたような
なりたかった理想像に出会っている。


彼らを今まで近くで見ていて、
ぼくは、彼らの側には立てないと確信した。

だからこそ、相性が良かったのだ。

幸せになる側の人間がいるということは
当然、幸せではない側の人間がいる。

物事は必ず対になっているから。



ぼくのような人間も、彼らのような光る人たちの
黒子だと思えば、居る意味がある。

黒子であるから、周囲は光の方に当然目が向く。
もし仮に、ぼくも光のような存在であったら、
隣にいる光に反発して
闇を探すか、遠く離れていくだろう。
だから、黒子のぼくは
光である彼らにスポットライトが当たるために
「意図してはいないけど、不本意だけど」
彼らを支えていたのだ。


、、、と、思っている。


ぼくは、生まれながらにして
いろいろと負の遺産を背負っているし
30何年か生きていれば、
もう自分の人生はある程度見えたつもりだ。

ぼくは彼らの側には立てない。

そんなぼくにとっての幸せを感じるチャンスは
自分のために誰かと一緒になることじゃなかった。

例えば、その誰かと
光のような誰かを繋ぐキューピットになったり
自分にとって仲の良い人と
別の誰かを仲良くさせたりすることだった。

昔から、そういうことだけは、
なぜか上手くいった。

けどそれは、
「そういうことで生きる喜びを感じろ」
っていう、見えない何かから与えられた
課題だったのだと思う。


だから、孤独だろうがなんだろうが、
与えられた運命があって、
それを全うすることが
ぼくという人間の課題なんだと、
認識するようになった。

ぼくのような人間にしかできないこともある。
それがたとえ、自分自身は幸せになれない
形であっても。

それが、こっち側の人間が担うべき役割であって、
生きる理由だと思う。

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