見出し画像

アマビコ(アマビエ)考

アマビコ(アマビエ)って何だろう?

 近所のお寺さんにアマビエまたはアマビコと呼ばれる予言獣の絵が掲示されたのは2020年の夏のことだった。言うまでもなく、2019年の終わり頃に発生したと見られ現在に至っている疫病の脅威が日本でも強く意識されだした時期である。

 アマビ「エ」というのは、アマビ「コ」と文書にあったのを変体仮名の「ヱ」と読み間違えて伝承されたものではないか、という説がある。ここではアマビエ=アマビコと見做した上で、以降、「アマビコ」と記述していく。

 古文書の中でアマビコは、尼彦、あま彦、天日子などと表記されているそうだが、江戸時代後期に肥後国(現在の熊本県)の海岸に現れたという。疫病の広がりとともにテレビなどメディアで紹介されたのも昔から民俗の中で生き続けてきたからだが、メディアには疫病を止ませるおまじない、または、守護神のように取り扱われていたような気がする。

 ところが疫病を止ませるのはアマビコの一つの面であり、民俗学的には、そもそもは不吉なことが起こることを知らせる「予言獣」の一つだということである。予言獣と言われるものには、アマビコの他にも人魚やアリエと呼ばれるものがある。これらの予言獣の姿はお互いに似ている点があって、体に鱗があったり、足の数が人間とは違ったりして、総じて半人半魚のような姿態をしている。そして、海の方からやってきて姿を見せると言われている(山童といわれる予言獣もあるが)。

 姿を見た人は予言獣から予言を聞くことになる。その予言は大きくは二種類あって、一つは豊作になるか、それとも凶作になるか、田畑の収穫について。もう一つが疫病の発生ということである。そして、疫病が流行るぞと告げるだけではなくて、わざわいを避けるにはこうしなさい、と救済の手立てについても告げるのだと伝えられている。

 アマビコについて言えば、疫病を避けるには私の姿を描いて門口に貼り、朝晩拝みなさいといったそうだ。メディアが取り上げたのは予言獣のこの側面である。御霊信仰には怨霊の祟りの威力を畏怖しながら、その力を人間の利益になる方向に転じて利用する民心のはたらきが見られる。予言獣そのものは疫病をもたらすものではないが、なんとか災厄を逃れたい民心を読み取ることができる。

予言獣にみえる心意

 御霊ないし怨霊の祟りについては、それを怖れる人の心のなかでは怨霊の怨念と落雷などの災厄との間に因果関係が認められている。だから、その怨霊を祀り上げることによって、災いの原因を取り除くとともに、むしろ怨霊の威力の向け先を転換してご利益を祈願するに至る。これは菅原道真の御霊信仰から北野天満宮が創建され、今や天神さまと言えば学問の神様として受験生が合格祈願にお詣りすることに典型的である。

 対して、凶作や、疫病の発生については、災厄の原因を特定することができない。科学技術が発達した今日では少雨や冷夏による農業への影響や、新たな病原体が発生した兆しなど原因を観測することはできる。それでも、予測される悪い結果を未然にコントロールすることは困難である。

 ましてや、科学技術が未発達だった前近代において祀り上げる対象が見当たらない災厄に対しては為すすべもなく、困惑し怖れるしかなかっただろう。そして神仏に救済を祈願したのだろうが、やがて御霊信仰に準じて祀り上げることによって、災いを避け、または鎮める手立てを民心は求めたのではなかろうか。御霊信仰のようにストレートな因果関係にはならないが、その代替になるようなもの、それが予言獣というものではないのかな、と思うのである。

 アマビコの話がメディアに取り上げられ始めたのは、初めて緊急事態宣言が発令された2020年の春以降のことだったと思う。この頃は、まだ病原体のゲノム解析も終わっておらず、脅威の実体が未詳だったために、とにかく不気味さを強く感じていた。やがて、この病による有名人の訃報も聞こえてきて第一回目の緊急事態宣言下の街は、まことに静かに逼塞していたものであった。

 まん延防止措置も解除された2022年5月時点では、アマビコが話題にならなくなっているような気がするが、この病の不気味さがだいぶ薄れてきたからではなかろうか。病原体のゲノム解析は完了して、その実態が専門家によって明らかになった上に、並行してワクチンが開発されて一定の効果が見られた。現状では、科学的知見にもとづく因果関係を利用することによって重症者や死亡者が目に減少してきたわけである(病原体そのものの変異の結果もあろうが)。

病と憑物

 病気というものについての古い伝統的、民俗的な観方について、立ち入ってみたい。近代医学が導入される前の時代においては、特に疱瘡麻疹(はしか)は疫病神(えきびょうしん)の仕業と考えられた。例えば、疱瘡の患者が出ると寝床に疱瘡神を祀る神棚をつくって餅や御幣などを供えたとされる。

 疱瘡は特に子どもがかかりやすく、また、麻疹は時に大流行をみせたこともあり、いずれも昔は死亡する危険が高かった。そういうことから、特にこの二つの病については、人々の関心が高く、疫病神とその祀り方についての民俗が共有されていたようである。もちろん、現在では予防接種によって罹患したり死亡したりするリスクは低くなっている。

 疱瘡、麻疹など特に重視された病気以外のカゼのように、ありふれた病気についてはどうだったろうか。現在、カゼというと病原体に上気道が冒されて発熱や咳などをともなう感冒という病状を指すけれど、実は前近代においてはもっと意味が広くて病気全般を含む呼び方だったらしい。

 そして、人々の観念としては四季おりおりに吹く風とは異なる種類の風があって、これにあたると病気になると信じられていた。そこから、「カゼをひく」(悪い風を引き寄せる)という言い方が生まれたのだと推測できるそうである。

 さらにカゼを引き寄せて病気になることを、神霊などが人に取り憑いたのだと見なす考え方が生まれたともいう。「日本民俗学概論」という図書では、伊豆大島で原因不明の高熱でうわ言をいう状態を「カゼオリ」(風邪降り)と呼んだ例や、五島列島で生霊に取り憑かれたと見做された場合にお握り二つを海上に流す儀式を「カゼハナシ」(風邪離し)と呼んだ例が、紹介されている。

 こうした例から、「カゼをひくとは文字通りカゼを引き寄せることであり、また引き寄せてしまったことによって神霊など病気の原因となるなにかあるモノに憑かれてしまったということの表現だった」という考察が同書には展開されている。

現代に見える民俗的心意

 さて、現代に生きるわれわれは科学にもとづく医学的な知見をもって疫病に対処しているつもりでいるけれども、はたして、そのように言い切れるものか。もしかすると、案外に前近代のわれわれの先祖たちと同じような心意がわれわれの無意識にも潜んでいるようなことはないだろうか。

 たとえば私が見聞した例でいうと、ある年配の方でこういうご意見の方がいらした。一つには、PCR検査を簡単に受けられるようにして陽性の人は隔離ないし自宅に謹慎してほしい、ということ。二つ目には、その方自身は理由は存じ上げないがワクチン接種に消極的で、あちこちを動き回っている若い人から接種するようにしてほしい、ということ。

 こうしたご意見に対しては医学と法制の知見にもとづいた政策的な評価をすることができようが、ここでは触れない。ただ、そのようなご意見の背後には、もしかすると、病気は悪いカゼもしくは神霊などに憑かれてしまうことだという心意が無意識に潜んでいるのではないか、という気もするのである。

 裏返すと悪いカゼや神霊を引き寄せなければ病気にはかからないのだとか、お祓いで悪いカゼや神霊を追い出せば安全だ、といった心意である。だから、カゼを引き寄せてしまった者は隔離しよう、カゼを引き寄せるおそれが高い若者からワクチン接種を受けさせよう、自分自身は悪いものには無縁なのだから、という発想になったのではなかろうか。

 しかしながら、事実として疫病の病原体(ウイルス)は外気に遍在しており、われわれは常に病原体にさらされていると考えるべきである。そして、われわれの免疫システムが常に病原体と闘っている上で健康が維持されているのである。

 そもそもPCR検査の判定には誤差がある上に、検査を受けた時に陰性でも明日も陰性でいられるかは別の話だ。また、ワクチンを接種した人は病原体を寄せつけなくなったわけではないので、ワクチンを接種済みの人が病原体をもっているかも知れず、周囲の人には罹患リスクが残存することになる。病気はカゼを引き寄せた結果というアナロジーは、医学的には意味がない。

 このように伝統的で民俗的な心意が、現代人たるわれわれの無意識にも潜んでいて事実認識に影響を与えることがありうるのではないか、という気がする。なお、疫病退散を祈願するアマビコの絵だが、江戸時代から印刷物が出回ったそうである。

 これは何を意味するかというと当時でもアマビコの絵の頒布を目的とした商売がなされていた、ということであり、世人の不安を煽って一儲けしようと目論んだ人たちもそれなりに存在したということである。現代でも、そうした営利行為というのは存在するはずであり、まずはメディアの報道にバイアスがないかどうかということから、批判的に検討するとよいのではないだろうか。

(2022年5月)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?