見出し画像

邪馬台国の謎 (20)

 前回は、邪馬台国東日本説(千葉・静岡・長野)を取り上げました。
その際、私の不勉強で抜けていた地域として、

邪馬台国岩手説

というのがあります。
すいません。前回の時点では全く知らなかった説でして・・・
あと、山梨説もあるそうです。(情報不足のため、今回は取り上げません)

場所は、岩手県八幡平市はちまんたいしになります。
Wikipediaで、読み方を調べて良かったです。安易に【はちまんだいらし】と読んでしまうところでした。
(岩手県の皆さん、すいません。土地勘が無くて・・・)

という書籍で、邪馬台国岩手説が唱えられています。

この説をざっくりまとめると、

  1.  震旦は日本を南北に長い国として見ていた。

  2.  魏志倭人伝で「到」の文字が使われているのは、伊都国が最終目的地・終着点だったから。それ以外の国は、「至」が使われている。
    つまり、使者は邪馬台国まで到着していない。

  3.  卑弥呼失脚の原因は【皆既日食】。だから、それが見られる北陸から東北地方に邪馬台国があった。

  4.  発音が似ている富山県(とやま)が、投馬(とうま)国である。

  5.  八幡平(はちまんたい)と邪馬台(やまたい)の発音が似ている。

というものでした。
なるほど~。こういう解釈もあるのか、と、しばし感心しました。

まず、1は本当のことです。
中国人は日本という国に対し、南北に長いイメージを持っていました。
九州を北端として本州をその南に配置する地図がいくつかあります。

2の「到」に関する使い分けについては、結構、注目が集まっていて、他の説でも取沙汰されることが多いです。
この項目も信憑性はあります。

3の皆既日食が東北地方で見られたというのも本当です。
ただし、卑弥呼が日食が理由で失脚や死亡というところまでは、断定できません。
仮説として、面白い説であることは間違いありませんが。

4は、・・・違うと思います。
富山は、長らくの間、【越中】と呼ばれていました。
富山と呼ばれるようになった語源についても諸説あるので、何とも言えないのですが・・・

外山(とやま)が縁起の良い「富」の字を当てて富山になったという説が一つ。
この場合、山そのものを指すため、投馬国は山国でないと不自然かなと思ってしまいます。
でも、行程では水行しか書かれていないので、疑問符が付きます。
他の説として、富山寺ふせんじが挙げられます。
富山市役所の近くにあり、富山の中核ともなる場所にあります。
歴史も古く、行基上人や弘法大師空海に所縁のあるお寺です。
ここが、富山県の名前の由来なのだという説は、非常に説得力があるなあと思っております。
行基上人も弘法大師も邪馬台国の時代ではないので、4番はかなりの確度で違うと言えるのではないでしょうか?

最後の5番ですが、これも違うでしょうね。
【八幡】とあるように、応神天皇を神格化した八幡神に関係しています。
起源は、坂上田村麻呂の征討に伴い、武運長久を祈念した際に名づけられたとされています。
これも時代区分でいけば、邪馬台国より、はるかあとなので、無理があります。

八幡平市では、奈良時代に竪穴式住居があったという遺跡があります。
が、西暦200年代に国家があったという遺跡群が見当たりませんし、そもそも、南国イメージの強い邪馬台国が、岩手県という寒冷な土地である可能性は低いのではないでしょうか。

仮説としては、ものすごく面白いのですが、考古学的見地から見て、相当に無理があるなあと思いました。

でもまあ、情熱をもって仮説を語る姿勢、私は大好きです。
説得力のある根拠が追加されれば、信じる方向に変わるかもしれません。
(かなり多くの根拠が必要と思われますが・・・)

しがないオッサンにサポートが頂けるとは、思ってはおりませんが、万が一、サポートして頂くようなことがあれば、研究用書籍の購入費に充当させて頂きます。