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聖徳太子(1)

 来年2024年の1月21日(日曜日)の松賢堂講義までの間、聖徳太子に関する予備知識としていくつかの投稿を予定しています。
(受講希望者は、Facebookで閲覧可能)
複数回投稿したいなと思っておりますが、時間の都合で何回になるかは未定です。

近年、「聖徳太子はいなかった」という珍説が流布されていますが、それが珍説である理由については、以前、投稿させて頂きました。

なお、生前の正式な呼称とされるのが、厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこと)です。
非常に聡明で多くの意見に耳を傾けるという意味です。
他にも、上宮(かみつみや)と呼ばれることもありました。
恐らく、幼少期は純粋に厩戸皇子(うまやとのみこ)と呼ばれていたのではないでしょうか?
この辺り、研究解明が進むのを待ちたいところです。

さて。
厩戸皇子は、西暦574年2月7日。
母親の穴穗部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が、馬小屋の前で産気づいて産声を上げたと言われています。

※)2024年が聖徳太子生誕1450年の節目の年になります!

 厩戸皇子というのは、文字通り、馬小屋の王子という意味で、伝承そのままとなっています。
なお、穴穂部の姫様は、14歳で厩戸皇子を出産しているという計算になります。
父親の用明天皇がその当時34歳でしたから、20歳の年の差婚になりますね。

厩戸皇子の父・用明天皇は、継体天皇と仁徳天皇の系譜で仁賢天皇の娘(手白香皇女(たしらかのひめみこ))が結婚することで誕生した欽明天皇の第四皇子でした。
応神天皇五世の孫と称される継体天皇なのですが、地元豪族たちを納得させる狙いがあり、仁徳系統の姫君を嫁がせ、血の融和を行なっています。

継体天皇には、
手白香皇女(父:仁賢天皇 母:春日大娘皇女(雄略天皇娘))

安閑天皇(継体の子で大和移住前の子)には、
春日山田皇女(父:仁賢天皇 母:和珥糠君娘)

宣化天皇には、
橘仲皇女(父:仁賢天皇 母:春日大娘皇女(雄略天皇娘))

と、父子三人に対し、仁賢天皇の娘・三人を嫁がせています。

さらに、継体天皇の息子である欽明天皇には、
石姫皇女(父:宣化天皇 母:橘仲皇女)が嫁いでいます。

徹底的に、皇族同士で血を重ね合わせました。
応神天皇五世という血の繋がりの弱さを克服するためとはいえ、かなりの近親婚になっています。それだけでなく、皇室の血を再び絶やしてはいけないということで、多くの豪族の娘も嫁がせました。

結果、欽明天皇には26人もの子供がいたと言われています。

豪族の中でも蘇我氏は娘を積極的に輿入れさせていました。
欽明天皇の妻で、蘇我氏出身の母親から生まれた子供は19人。

蘇我氏の権勢が否が応でも高まることになったのは言うまでもありません。

このような情勢の中、異母姉妹である用明天皇と穴穗部間人皇女の子として生を受けたのです。

祖父と外祖父が、同一人物である欽明天皇。
さらに、曾祖父と外曾祖父が、同一人物である蘇我稲目。
現代ではありえないような血の濃さでした。

通常、近親婚を繰り返していくと、劣性遺伝子が活性化してしまい、障がい児や、短命な子が生まれることが多くなります。
ですが稀に、優れた才能が凝縮した天才児も誕生することがあります。

厩戸皇子が、当時としては卓越した頭脳を発揮したのは、この血の濃さに起因しているのかもしれませんね。

しがないオッサンにサポートが頂けるとは、思ってはおりませんが、万が一、サポートして頂くようなことがあれば、研究用書籍の購入費に充当させて頂きます。