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薩摩偉人伝 ~ 西郷隆盛(後編)

後編では、西郷さんの遺訓や稲盛和夫さんの著書などを交えながら、私たちが手本とするべき考え方や、目指すべき社会の在り方について提言して参ります。

後編の要旨
(Created by ISSA)

(以下、文字削減のため「である」調・敬称略で記載)

1 西郷という偉人が生まれた背景
(1) 薩摩隼人の伝統気風
古来、南九州には「隼人」と呼ばれる勇猛果敢な民族が住んでいた。

隼人は、次第に大和民族と同化したが、その勇猛さは地域の伝統気風として生き続け、本居宣長が「薩摩隼人」を再定義したことで、薩摩藩士が目指す理想の武士像がより明確にされた。

また、そのスピリットは、薩摩独自の郷中教育にも浸透し、藩士の子は幼少期から、武士道の色合いが強い教育を受けてきた。

郷中教育の基本精神《維新ふるさと館》
(Photo by ISSA)

(2) 勤王の伝統気風
畿内隼人は、天皇の守護人であり続けると同時に、古来より天孫降臨や神武東征の伝承が伝わる土地柄と相まって、とりわけ勤王の気風が強い土壌であり続けた。

(3) 西郷を強くしたもの
前編で触れたように、西郷の心の内には、勇猛な菊池一族の末裔としての誇りがあった。

また、暮らしは裕福ではなかったが故に農民の苦しみに寄り添える優しさが備わり、そして剣術を諦めたが故に思想家としての才覚も磨かれた。

(4) 西郷を高みへ導いたもの
薩摩は南西諸島や琉球王国を抱え、他藩に比べて海外事情や外航船舶その他の技術を獲得しやすい立地にあった。

海の薩摩《維新ふるさと館》
(Photo by ISSA)

そうした土地柄で藩主となった英名君主・島津斉彬との出会いが、西郷を志士へと開眼させ、その後も、月照、橋本左内、勝海舟などの優れた人格者・才覚者との出会いが、西郷を更なる高みへと導いた。

そして、西郷の歩むべき道を明るく照らしていた斉彬が夭逝したことで、西郷の自立・成長が促された。

2 西郷のここが凄い
(1) 思い切りの良さ
西郷はとても潔く、迷いが少なかった。実際、いつも西郷の近くに居た大久保は、次のように語っている。

西郷は、禅の影響で思い切りが良すぎる

大久保利通

また、急逝した斉彬の後を追おうとしたり、月照と錦江湾に入水したり、沖永良部島で瀕死の獄中生活を強いられたりと、幾度となく死の縁を彷徨ったことも、思い切りの良さを後押しした。

左:大河ドラマ・西郷どん《西郷南洲顕彰館》
右:大河ドラマ・西郷どん《維新ふるさと館》
(Photo by ISSA)

(2) 常に、弱者の味方
西郷は、若い頃に郡方書役助として農民の暮らしをつぶさにみて、重税に苦しむ農民の減税に力を尽くし、農政改革の建白書を藩に提出していた。

万民の上に位する者は己れをつつしみ、品行を正しくし、驕奢をいましめ、節倹につとめ、職務に勤労して人民の標準となり、下民、その勤労を気の毒に思うようならでは、政令はおこなわれがたし

南洲翁遺訓4条

かつての維新の同志たちも弱者の味方であったはずだが、新政府で要職についた途端に驕り高ぶるようになり、贅沢な家に住み、贅沢な身なりをし、贅沢な酒をのみ、贅沢なメシを食っている姿をみて、このように強く戒めた。

西郷隆盛と幕末の志士《維新ふるさと館》
(Photo by ISSA)

終始一貫、質素倹約を貫き、弱者の味方という行動原理が変わることがなかったのは、西郷ただ一人と言っても過言ではないだろう。

(3) 名声も地位もいらない
そもそも、西郷には名声とか地位とか、そういう俗人的なことへの執着がなかった。だからこそ、自身が政治の場に居る必要ないと思えば、さっさと下野する(官吏が職を辞し民間人になる)ことができた。

このことについて、稲盛さんは「公平無私」という言葉で次のように語っている。

リーダーが持つべき最も大事なものは、一言で申しますと「公平無私」ということであります。(中略)今まで私どもは各界各層のリーダーに才能のある人を選んできました。(中略)頭が良くて才能があり弁が立つことは、3番目の資質でしかない(注:最重要の資質ではない)のです。

稲盛講演録「リーダーに必要な公平無私の心」
南洲神社の境内《南洲神社》
(Photo by ISSA)

確かに、学歴など「概ね20代前半の時点での修学の度合いを示す指標」に過ぎないのだ。

そんな過去の遺物に一生、かじりついている人間よりも、その後の人生でどれだけ新しい学びや徳を積んだかによって、リーダーは選ばれるべきだろう。

(4) 変幻自在の柔軟性
小人から君子に至るまで、相手の気心に合わせられる柔軟性
を持ち合わせていた西郷を、坂本龍馬は、こう評している。

なるほど西郷という奴はわからぬ奴だ。小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし、馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう。

坂本龍馬

黒船来航、安政の大獄、長州討伐、戊辰戦争、西南戦争・・・。目まぐるしく変化する情勢の下で、長州や幕府や慶喜の味方になったり、敵になったり。薩摩軍になったり、幕府軍になったり、政府軍になったり、最後には朝敵になったり。

侍でありながら畑仕事に精を出し、時に軍人であり、外交官であり、政治家であると同時に、優れた教育者であり思想家だった。

西郷隆盛と桜島《西郷南洲顕彰館》
西郷隆盛と愛犬ツン《維新ふるさと館》
(Photo by ISSA)

その生涯は、まるで変幻自在なカメレオンのようでもあるが、西郷は常に責任ある立場に居たという点では、脱藩浪人で自由人だった龍馬とは異にすると言えよう。

(5) 一貫した信念
こうした柔軟性は、一見、「信念」とは相反するようにみえるが、そうではない。

斉彬は、西郷のことをこう評している。

この者は英気あまりあって、人の命令に縛られず、これを逸脱して、自らの見識で行動する者であるから、私でなければ使いこなすことはできないだろう

島津斉彬

また、西郷自身も、こう言っている。

人を相手にせず、天を相手にせよ

南洲翁遺訓25条

つまり、西郷が様々な肩書を持ち合わせていたのは、物事の本質(=天)に照らし合わせて、その時々でどう立ち振る舞えば「義」に適うのかを考えて行動した結果なのである。

薩摩偉人と西郷の肖像画《維新ふるさと館》
(Photo by ISSA)

だからこそ、久光にも、幕臣にも、新政府の閣僚にも、確執を恐れず率直に「義」を唱えることが出来たし、征韓論が起きたときも、

朝鮮は、単に「幕府にクーデターを起こした新政府は、欧米に魂を売った傀儡ではないか」と疑心暗鬼になっているだけであることや、

「日本も、アジアを武力で従わせてきた欧米と同じことをやるのか」という、問題の本質が見えていたからこそ、

「おいどんが行って、直接交渉する」と自信を持って主張することができた。

西南の役官軍戦没者慰霊塔《祇園之洲公園》
(Photo by ISSA)

西南戦争では、そもそも勤王の侍であったはずの西郷が、「朝敵」呼ばわりされる屈辱に耐え、身をもって侍の世を終わらすことができたのも、一貫した信念があったからこそである。

3 西郷が目指したもの
「大義なき戦争」と言われた西南戦争。果たして、そこに本当に「義」はなかったのだろうか。

《田原坂西南戦争資料館》
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「政府に尋問の筋これあり」

これは、出立前に県庁に宛てた書簡に書き連ねた言葉である。

西郷は「西洋にかぶれて傲慢高ぶり、汚職にまみれ、日本の美徳を失い、国の宝である農民や、忠誠を尽くした侍を蔑ろにすることが、維新を成し遂げたあなた方が目指したものだったのか」と問い質すことに、西南戦争開戦の「義」を見出していた。

また、殆どの侍が自分の生きる場所を探し求める中、西郷はその先にある世界(ポスト西南戦争)を見つめていた

私学校跡石壁《鹿児島市》
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つまり、西郷には行き場を失った侍と、彼らのカリスマにされてしまった自分自身が、何らかの形で消滅しなければ、真の維新にはならないということが見えていた。

だから、西郷は政府軍の大将として不平士族を討つのではなく、私学校を開いて行き場を失った彼らを受け入れ、侍以外の生きる道を教え諭し、

急進派の生徒による陸軍弾薬庫襲撃を許してしまった後も、薩軍として彼らと運命を共にすることに「義」を見出し、その道を選んだのである。

南洲翁終焉之地《鹿児島市城山》
(Photo by ISSA)

西郷は子弟との「情死」を選んだのさ

勝海舟

この事が「西郷こそが日本のラスト・サムライである」と評される所以なのであろう(この映画で、渡辺謙が演じる「勝元」は、西郷がモデルだ)。

4 今、私たちが歩むべき「道」
ここからは、こうした西郷の生きざまを踏まえて、今を生きる私たちが歩むべき「道」を模索する。

稲盛さんの著書「人生の王道」から、前書きの一部を抜粋してご紹介。

かつて、とびきり美しく温かい心をもった、ひとりの上質な日本人がいた(中略)。それは、西郷隆盛です。

人生の王道|稲盛和夫

この進みゆく心の荒廃こそが、(中略)現代の日本社会に混迷と混乱をもたらしている真因なのです。(中略)今こそ、日本人一人ひとりが(中略)美しく上質な心をいかにして取り戻すかを考えなければなりません。

人生の王道|稲盛和夫

稲盛さんは、日本人の心の荒廃に危機感を持ち、尊敬する西郷隆盛の生きざまから、どうすれば美しく上質な心を取り戻すことができるのかを考え続けた。

では、具体的どうすればその上質な心を取り戻すことができるのだろうか。

愛犬ツンと西郷像《鹿児島市》
(Photo by ISSA)

6 上質な心を取り戻すために
(1) 欲から離れること

西郷は沖永良部島に遠島となったが、その時、島の子供たちを集めてこう話した。

「一家が仲睦まじく暮らすためにはどうすればよいか?」
それは、欲を離れることだ

西郷隆盛

これについて、稲盛さんはこのように説いている。

各人が欲を少しずつ削って自分が損をする覚悟をし、また他人に自分の利を譲り与える勇気さえあれば、すべてはうまくいくのです。

人生の王道|稲盛和夫

そのためには、頭で分かっているだけでは不十分で、時には、敢えて「自己の利益を遠ざける訓練を積み重ねる」ことが必要なのだという。

更に、西郷は、常々生徒らに損得で動かない人間になれと教え諭した。

命もいらぬ、名誉もいらぬ、官位や肩書きも、金もいらぬ、という人は、始末に困るものである

南洲翁遺訓30条

ここで言う「始末に困る」とは、誉め言葉である。

西郷隆盛像《西郷公園》
(Photo by ISSA)

本来、地位・名声・学歴といった肩書や財力は、それ自体が「目的」ではなく、何か大きな事を成し遂げるための「手段」であるべき。

上質な心とは、そういうことではないのか。

(2) 誠を貫くこと

作略は平日致さぬものぞ。作略を以てやりたる事は、其の跡を見れば善からざること判然にして、必ず悔い有る也。(唯戦に臨みて作略無くばあるべからず。)

南洲翁遺訓34条

西郷は、謀(はかりごと)は、(戦時を除いて)日常的に用いない方が良くて、誠の心を貫くように努めるよう教え諭している。

また、稲盛さんも、次のように語っている。

「権謀術策を駆使する人間は、純粋な心を持った人間に最終的には負けるのだ」という西郷の教えを、私はそのまま自分の信念としました。

無私、利他〜西郷隆盛の教え〜│稲盛和夫

私は、とにかく人間として正しいことを正しいままに貫いていこうと心に決めました。

生き方│稲盛和夫
《田原坂西南戦争資料館》
(Photo by ISSA)

そもそも、人は善悪の二面性を持つ生き物。オセロのように、自分が白くなれば相手も白くなるし、自分が黒くなれば相手も黒くなる。

たとえ、黒い相手と接しようとも、自分は強い気持ちで白で居続けられる。そういうことが、上質な心なのかもしれない。

(3) 人に尽くすこと
「敬天愛人」は、沖永良部島の牢獄で苦難を乗り越える過程で、西郷が全身全霊をもって体得したものだった。

道は天地自然の物にして人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以て人を愛するなり。

南洲翁遺訓24条

欲を離れ、誠を尽くし、人を愛すること。稲盛さんによれば、「敬天愛人」の思想の源流は、ここにあるという。

西郷隆盛と敬天愛人《西郷南洲顕彰館》
(Photo by ISSA)

そして、稲盛さんは、上記3項目を「人が正しく生きていくための哲学」であり、すなわち「真の道徳」なのだと説いている。

欲を離れること、誠を貫くこと、人に尽くすこと。(中略)これは、人間が正しく生きていくための哲学であり、真の道徳といえます。

人生の王道|稲盛和夫

繰り返しになるが、各界各層のリーダーを選ぶときに最も大事なことは「学歴」ではなく、こうした真の道徳(≒公平無私)が身についているかどうかで選ぶべきなのだ。

(4) 「考え方」が最も大事
現在、一般的には「知識・能力>考え方」と受け止められていることを、「知識・能力<考え方」へと転換する必要がある(徳を積めば、自ずと知識や能力もついてくる)。

稲盛さんは、このことを「人生の方程式」という手法で分かり易く語っている(詳しくはこちら👇)。

(5) 自発的な人間になること
西郷は、次のような言葉を残している。

世の中で十人のうち七、八人までは小人である

南洲翁遺訓6条

また、稲盛さんは、世の中には(学歴とは無関係に)自燃性、可燃性、不燃性の特性を持つ3種類の人間が存在すると話す。

3種類の人間とは
(Modified by ISSA)

しかるに、私自身も含めて、大半の小人は「可燃性」の辺りを行き来しながら生きているが、偉人(図表の一番左を極めた人)に学ぶことによって動機づけが刺激され、誰もが、より自発的で利他的な選択が出来るするようになるのである。

7 この国が採るべき進路
(1) 人心が荒廃する原因とは

現代の資本主義、自由主義、学歴主義というのは、社会の仕組みとしてベターではあってもベストではない。

何故なら、そこに哲学が存在しなければ、これらはあっという間に私たち自身を傷つける諸刃の剣となるからである。

どうすれば、楽して金儲けができるか
どうすれば、他者より優位に立てるか
どうすれば、自分の我を押し通せるか

そのような、浅ましい心に取りつかれた瞬間から、人心の荒廃は始まる

西郷南洲顕彰館の入口
(Photo by ISSA)

そうならないようにするには、先ず、そのことを自覚した上で、日々、自らの脳(心)に上質な哲学というエサを与え続けなければならない。

社会規範が弱体化している今、なおさら、こうした自助努力が必要
なのではないだろうか。

(2) 学歴社会から徳歴社会へ

今という時代は、明治維新と同じように、その潮目が大きく変わろうとしているとき(中略)他の国々に対して「徳」をもって報いることができる(中略)「富国有徳」の国をめざす(中略)それこそが日本という国家がとるべき「王道」であろう・・・(略)

人生の王道|稲盛和夫

明治維新の本質は、全日本国民の意識革命だった。

稲盛さんが説く「富国有徳」の国に生まれ変わるという考え方が広がることも、ひとつの意識革命なのかもしれない。

西郷隆盛像《上野公園》
(Photo by ISSA's Daughter)

(持論であるが、)これからの世界に必要なことは「学歴社会」ではなく、より多くの徳を積んだ者が頂点に向かえる(リアリズムを前提とした)「徳歴社会」に転換することだと思う。

徳歴社会では、敬天愛人や公平無私などの人生哲学がしっかりした者が人の上に立つので、資本主義や自由主義が諸刃の剣になることはないのだから。

おわりに
西郷隆盛が示した考え方や生き方は、いかなる時代、国家、民族、宗教にも共通する不変の真理だと思います。

そういう意味では、かつての西郷隆盛がそうであったように、政治家だろうと、外交官だろうと、軍人だろうと、経営者だろうと、私たちが目指すべき人間像の原点は何も変わらないのでしょう。

西郷南洲顕彰館と桜島
(Photo by ISSA)

稲盛さんが指摘するように、今、明治維新前夜と同様に潮目が大きく変わろうとしていて、昔ながらの価値観が、今一度、見直されるときかもしれません。

だからこそ、ひとりひとりが、西郷のような偉人に学ぶことに大きな意義があるのだと思います。

西郷は、正道を踏むということを「人生の王道」と考え、さらには、それが万人のつとめだと考えていた。(中略)「うそをつくな、正直であれ、人を騙すな」といった、幼い頃に親や先生から教わった(中略)プリミティブな教えこそが「正道」なのです。

人生の王道|稲盛和夫

前編から2回にわたって、西郷隆盛と稲盛さんを通して、色々と語って来ましたが、「人生の王道」とは、実はすごく身近にあって、とてもシンプルなことなのかもしれません🍀

【後記】
私は、日本人の「心の防衛力を育むこと」をライフワークとしております。ご関心があれば、是非、こちらもご一読ください。