発狂頭巾『VS. 辻斬りの発狂浪人』

 夜の江戸。闇の中を行灯片手に一人の町人が行く。

「うー。さみぃさみぃ。夜風が冷たくてかなわねぇや」

 駆ける町人。彼が橋を渡ろうとした、その時だった。

「……お主」

 町人の背後から声がした。男の声だ。深い沼に沈み込むかのような、身の毛のよだつような声。

「……っ」

 町人は動くことができなかった。逃げてしまいたい、と思ったが、逃げれば死ぬと直感していた。
 背後の男が言う。

「おれは、狂うているか……?」

「は、はぁっ……?」

 なに言ってんだこいつ。

「し、知るかいっ! こっちはとっとと帰りてぇんだ!」

 町人が振り返って男の顔を見た。その刹那。
 一閃。

「……は、え……? お、おい、アン、タ……」

 町人の片手の行灯が切り捨てられた。灯りが、ふっと消える。

「もう、用はない」

 いよいよ町人の命も風前の灯、といったところで横から割り込む声。

「おい! そこの者! なにをしておる!」

 見回り中の奉行所の同心がやってきたのだ。

「く……」

 男は舌打ちして、橋下の川へ飛び込んだ。
 ぼちゃん!

「おいっ! なにがあった!?」

 同心がやってきて、町人に問う。

「あ、ああ……さ、さっきの奴に行灯切られちまったんだ……でもよぉ、あいつ、大丈夫なのかねぇ……あんな、顔で」
「顔? 顔がどうしたというのだ」
「あ、あいつの顔、半分が火傷でえらく爛れてたんだ……片目もきかねぇ風でありゃ、生きてるのが不思議だよ……」
「半分火傷の、辻斬りか……」

 同心の見つめる橋の下、そこにはいつもと変わらず流れる川があるのみである。

◇◇◇

 団子屋に腰掛け、茶を啜っている男がいる。本名不詳、出身地不明のその男は吉貝という名で江戸の人々に親しまれていた。
 そこに、町奉行所の同心、清七がやってくる。慌てた様子の彼は吉貝の隣に座るやいなや、言う。

「キチの旦那、どうやら例の辻斬り、顔を見たやつが出たそうですぜ」
「そうか」
「あらぁ、そいつはホントかい? 良かったじゃないの、セイさん。お団子、食ってくかい?」
「おお、お、女将さん! そ、そんじゃありがたく……」

 清七が笑みで答える。その伸びた鼻の下を見れば、清七が女将に向ける感情がなにかなど、誰の目にも一目瞭然であろう。しかし、清七の隣に座る男はつまらなさそうに問うた。

「そんなに美味いか? ここの団子。俺も気に入っているが、そう股ぐらに血を集めるほどではあるまい」
「だ、旦那! 何を……!」

 清七は股間を抑えるとともに、女将の様子をうかがった。どうやら聞こえてはいないらしい。ついでに言うと、清七のシンボルは平静のままであった。

「……まったく。それより旦那、いいですかい? 続報ですよ、続報。あの辻斬り、発狂浪人の!」
「何をそんなに執心しておる」
「いやだって旦那、最初の事件のときはえらい気にしてたでしょう」
「猫又を斬り殺すほどの男が如何ほどか、気にしない者はあるまい」
「は、はぁ……?」
「して、どんな顔であった。このままでは腰の座りが悪い。全て話せ」
「へ、へぇ……」
「お団子、お持ちしましたよ」

 女将の持ってきた団子を食いつつ、清七は昨晩の町人辻斬り未遂事件のあらましと、それによって明らかになった発狂浪人の容貌を吉貝に伝えた。

「そうか……火傷……」
「ええ。うわさじゃ、先の大火事の生き残りなんじゃねぇのかって話で」
「火事……なるほど頭蓋の焼けたしゃれこうべ……」

 ゆらり、吉貝が立ち上がる。その焦点の合わない目を見て、清七は天を仰いだ。

「だめだこりゃ。旦那、完全にイっちまった」
「あら、キチさん……?」
「だぁめだよ女将さん。もうイっちまったさ。お勘定、ここ置いとくよ」
「まいど! また来ておくれよ」
「もちろんでぇ!」
 清七は吉貝の後を追って、町の賑わいの中へと消えていった。

◇◇◇

 町の、誰の目にもつかない人通りの少ない通り、建物と建物の間にできた物置のごとく材木やら車の残骸やらの放置された日の当たらぬところに、一人の男がいた。顔半分に酷い火傷の痕を負ったその男こそ、今巷を騒がせる辻斬り、発狂浪人こと高橋兵右衛門その人である。

「あっいたいた! おういあんた、昼飯まだだろ。これでも食え」

 兵右衛門にそう言って握り飯を差し入れるのは、この近くに店を構える商家の若旦那だ。

「…………」
「あんたよう、体が震えてるぜ? まあだ寒さが抜けてねぇんだろ。やっぱそんな日陰じゃあなくってすこしはお天道様の下に出て――」
「いらぬ気遣いだ」
「へえへえ。そんじゃ、せめてメシでも食え」
「……かたじけない」
「いいってことよ。助けちまった手前、あんたが平気になるまでは面倒見てやらにゃなんねえしな」
「ならば、助けなければ良かったではないか」
「おもしろいこと言うね、え? ならなんでい、あんた、死にてぇのかい?」
「……分からぬ。分からぬのだ」

 兵右衛門の耳には今もなお、あの日の音がこびりついている。
 カンカンカンとけたたましく鳴り響く半鐘の音。そして、

「にいちゃん――にいちゃん――」

 兵右衛門は目を閉じて呟いた。

「……小夜」

「しかしあんた、」

 兵右衛門を現実へと引き戻したのは、若旦那の一言だった。

「その火傷痕、すごいねぇ。刃傷沙汰で手足がもげた奴なら何度か見た覚えがあるけど、そこまでの火傷を顔にしてんのは初めてだ……よく生きてるもんだよ」
「これは、妹だ」
「はあ?」

 兵右衛門は焼けて使いものにならなくなった片目の眼球に手で触れ、

「この火傷痕はおれの妹なのよ。今もなお、にいちゃんにいちゃんとおれを呼んでやまぬ小夜がここにいるのだ」
「へ、へえ……そうかい」
「狂うておる――そう思ったか?」

 図星を突かれ、町人は腰を抜かした。しかし兵右衛門はやや穏やかな笑みを向け、

「良い。分かっておるのだ。妹がもうこの世にいないことも、おれが腑甲斐無い出来損ないの兄であることも……だがな、それでも認められぬのだ。この顔の半分にまだ、炎に焼かれる小夜がいる――おれにはそれこそが真実なのだ。なあ、それでもおれは、狂うておるか?」
「あんた……」
「馳走になった」

 握り飯をたいらげると、兵右衛門はやにわに立ち上がり、その場を去ろうとする。

「お、おい……どこへ?」

 若旦那の問いに、兵右衛門は冷たい声で突き放すように答えた。

「もうおれには関わるな。次に会うときは、辻斬りのおれが顔を出しておるであろうからな」

 若旦那は、ふらつく足で立ち去る兵右衛門の背中を見ることしかできなかった。

◇◇◇

 橋の下。そこに頭巾を被った吉貝と寒さに縮こまって肩をさする清七がいた。日は落ち、月の昇った時分。冷たい北風が吹きすさぶ。

「キチの旦那ぁ。今夜ここにあいつが現れるってホントですかい? 確かにここはあの川の下流にある橋ですがね、あっしにゃとんと信じらんねぇ……」
「奴は油を嫌い、水を好む。炎に焼かれた者の宿命よ」
「あーあ。あっしも頭巾かなんか用意しときゃ良かった」

 清七が文句を言う。その時である。

「……誰ぞ、橋の下におるのか?」

 橋の上から声がした。二人に気付いてのものであろう。

「ひぃっ! で、でた!」

 叫ぶ清七の横、吉貝――否、発狂頭巾が橋の上へと踊り出た。
 同時、声の主に斬りかかる!

「う、うわああああああああ!」

 カキン!
 キン!
 キン!

 打ち合うこと、いくばくか。
 発狂頭巾は己の刃を防いだ者の姿を見た。
 その男は、顔に火傷を負った男。彼は黙って、傍らで腰を抜かす若旦那の傍らに立っていた。

「やはり出たな。辻斬り、発狂浪人よ」
「ほう。おれは巷ではそう呼ばれているのか。発狂、発狂ねぇ……」

 その声音にはあたたかなものが一切なく、ただ、ひたすらにつめたい。
 恐ろしくなって逃げ出したのは若旦那だ。彼は礼を言うのも忘れて足をもたつかせながらその場を去ろうとし――

「――ぐわああああああ!」

 発狂浪人に背中を切られた。鮮血で浪人の刀が濡れ、闇夜の中で妖しく光る。若旦那は、橋の上に倒れてぴくりとも動かなくなった。
 浪人が問う。

「なあ、おれは狂うておるのか?」
「無論!」

 こうして、再び打ち合いが始まった。
 居合を基礎とする浪人の剣術とどこまでも実践に重きを置く我流の発狂頭巾の剣術。その二つが攻防を交代しながらぶつかり合う。
 互いに一歩たりとも引くとこのない剣戟のさなか、浪人は言う。

「そうとも! おれは狂うている! だが、だがだが、小夜のいないこの世、神仏の加護なき無常の世こそがなによりも狂うておるのだとは思わぬか!」
「…………」
「小夜は器量よしだった! 愛嬌もあった! 仏も神も生まれてから一度として馬鹿にしなかった! おれの頬で、炎に焼かれ続ける罰を受ける謂れはないはずだ!」

 浪人の刀の切っ先が、発狂頭巾の頭巾を斬り裂いた。口もとがあらわになる。

「…………はっ。貴様、さては狂うておるな? おかしいのであろう、おれの語りが」

 発狂頭巾は笑っていた。

「はっはっは! はっはっはっはっは!」

 連られて、浪人も笑い出す。目尻に涙を溜めつつ、

「はーっはっはっは! はーっはっはっは!」

 笑い終えると発狂頭巾は刀を構え、言う。

「お主の言う通りやもしれぬな。俺は狂うておるのやも知れぬ……だが、」

 戦乱の果てに訪れた天下泰平の世。
しかしいつの時代も俗世の闇は数知れず。その闇を、人知れず討つ狂人がいた。黒ずくめの頭巾姿、正気なき鋭い眼光は今日も善良なる民に仇なす悪事を見通す。
人は彼を、発狂頭巾と呼んだ!

カァーッ!

「狂うておるのは、貴様の方であろう!」

 発狂頭巾が刀を振り下ろす。対する浪人――兵右衛門はもう構えようとしなかった。
 その刃の振り下ろしに、あるいはなにかの救いを見て――
 しかし、

 ヒュンッ

 発狂頭巾の刀は空を切った。
 少し遅れて、どさ、と倒れる兵右衛門。
 発狂頭巾の刃から兵右衛門を逃したのは、意外や意外、死んだかと思われた若旦那だった。

「へ、ホントに辻斬りの顔で挨拶する奴がどこにいるってんだ……」
「お、お主! なぜ助けた!」
「お、おれぁよ……死なせるために助けたわけじゃ、ねぇんだ……分かれよ」
「だ、だが! おれは斬ったのだぞ! お主の背を!」
「なあにかすり傷さ。よく嗅いでみなよ、その刀」
「……! これは、もしや……」
「あたしんとこじゃ南蛮由来のモンも扱っててね。新鮮なトマトのすりおろしを仕込んどいたのさ」

 若旦那は優しく微笑みかけて、兵右衛門に言う。

「……あんたは狂っちゃいねえよ。ただ、心が傷ついて、その傷が癒えていねえだけさ」
「…………おれには、妹を救う術が見い出せぬ」
「なら、共に旅してみるってのはどうだい?」
「旅?」
「ああ、その頬で炎に焼かれてる妹さんとよ、色んな景色を見るのさ。この世界にはどうしようもないこともあるが、同時に素晴らしいことも数え切れねえほどある。そいつがありゃ、あんたの炎も、妹さんの声も、いつか止むんじゃねえのかって……あたしゃそう思うよ」

 兵右衛門は、くずおれて涙を流した。それを、若旦那は微笑みとともに見守っていた。
 闇を貫く正気なき鋭い眼光――発狂頭巾の姿は、もう、どこにもなかった。

◇◇◇

 翌朝。団子屋にて。

「やあ気絶するたあ情けねえ! キチの旦那、本当に済まねえ!」
「腑分けでもしてきたらどうだ。ついでに肝を食え」
「あっはっはっは! そいつぁいいかもしんねえ!」
「セイさん? 腑分けした日はうちに来んどくれよ。臭いでお客が離れられちゃ商売あがったりだからねっ」
「や、やだなあ女将さん、冗談よ。冗談」
「それにしても、もう辻斬りの心配はなくなって良かったよ」
「ああまったく。今回も、旦那に任せて良かったよ」
「橋の下で眠っておっただけだと言うのに、よう言うわ」
「うおっと、そいつは勘弁! はっはっはっはっは!」
「はっはっはっはっは!」

 威勢のいい二つの笑い声が江戸の町に響き渡る。今日も町は活気に満ちている。

(了)

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