小説・最後のサイン

小さな疑惑
「本当に嫌になっちゃうわ」
年明け早々、黒川コーポレーション古川営業所(宮城県)の事務員・春川朋美は、昼食に出かけた喫茶店で、同僚の杉浦真弓にひとしきり愚痴を聞かせた。黒川コーポレーションは、東京に本社を置く東証一部上場の老舗建材メーカーだ。
朋美をいらだたせているのは、営業所の先輩事務員、須藤佳世子の執拗なイジメだった。就職氷河期のまっただ中に大学を卒業し、派遣社員の道を選ぶしかなかった朋美より、佳世子は3歳年上。氷河期に引っかかることもなく、正社員として黒川コーポレーションに入社した。
当初は営業所の中でちやほやされていた佳世子だったが、派遣会社からやってきた朋美がテキパキ事務作業をこなす姿をまのあたりにして、朋美に激しい嫉妬心を抱くようになっていた。
「どうせなら、須藤のかわりに春川さんを正社員にしたほうがいいんじゃないか」営業所の忘年会で、冗談混じりに所長が口にした一言で、朋美に対する佳世子の憎悪は決定的になった。以来、佳世子は朋美の仕事をことあるごとに妨害してくるようになった。朋美あての電話を取りついでくれないくらいは序の口で、同僚との不倫の噂を流されたり、朋美の机の上の業務用の資料をこっそりとシュレッダーにかけられたりした。佳世子の目の前で思い切り机を蹴り上げたいと思ったことも一度や二度ではない。
真弓も、朋美と同じ派遣のOLだ。その気安さから、いつも朋美の愚痴を聞かされる役回りだった。
「私への嫌がらせに使うエネルギーがあんなにあるんだったら、それ、もっと他のこと使えばいいのにねえ。例えば恋愛とかさあ。そういえば、須藤さんって彼氏いないのかしら?」
何気なく朋美がつぶやくと、真弓が意外なことを口走った。
「そういえばこの間、須藤さんがユニバーサル建材の中込社長と一緒にいるところを見ちやったの」
「へえ、意外な組み合わせねえ。で、いつ?どこで?」
"天敵"の知られざる一面に朋美は食いついた。
「先週の金曜日の夜よ。高校時代の女友達と食事して、それから駅前にできた新しいバーに飲みに行ったんだ。そしたら須藤さんと中込さんがカウンターの一番奥で話し込んでいたのよ。慌てて二人から見えないところに座ったから、向こうは気づいていないと思うけど…・。でも、あの二人、恋人同士っていう雰囲気じゃなかったわね。年齢だって親子ほども違うし......」
「アヤシイわねえ、なに話してたんだろう」
「まあうちの得意先だから、接待とかで食事して、その流れで飲んでいたっていうのな
ら、別に不思議じゃないんじゃない?」
真弓はあまり気に留めていなかったが、朋美は二人のきな臭さを逃さなかった。
「得意先っていったって、うちで中込さんと付き合いがあるのは営業課の人でしょう。内勤の事務員なんて、挨拶くらいはするでしょうけど、会社の外で会うほどの付き合いなんてないわよ。絶対おかしいよ!」
翌日、朋美はいつもより1時聞早く出社した。
誰もいない営業所で、ユニバーサル建材との取引履歴を調べてみようと、昨夜から決めていたのだ。
すべての取引先を調べるとなれば大ごとだが、ユニバーサル建材1社だけならそれほど手間は掛からない。営業所のパソコンで取引履歴を確かめて、ものの数分で朋美は異常記録に気がついた。定価にして約90万円分の内装用のカーペットが「価格0円」でユニバーサル建材に発送されている。
しかも、商品であるカーペットは「廃棄処分」とされている。廃番になった商品や傷ものになった商品を廃棄処分するのはよくあることだ。しかし、それらは通常、廃棄物処理業者が回収し、彼らの手で処分される。ユニバーサル建材のような取引先に発送されて処分されることなど、まずありえない。
「どういうこと?」
朋美は疑問を感じながら、取引履歴をもう少し遡って調べてみた。すると同様の取引が複数回繰り返されている。去年の4月以降の分を合計すると、「廃棄処分」にされたおよそ1000万円分のカーペットが、価格0円でユニバーサル建材に発送されているのだ。
「なによ、これ……」
朋美は鼓動が高まるのを抑えることができなかった。

指摘された危険信号
東京・浜松町にある太平洋監査法人のオフィス。2月末のこの時期、企業の通年決算が集中する3月を目前に控え、フロアは活気に満ちていた。
太平洋監査法人のパートナーである鳴沢巧のデスクの上で電話が鳴ったのは、午後1時すぎだった。
「鳴沢さん、黒川の阿久津です」
神田にある黒川コーポレーション本社の経理部長・阿久津からだ。
「阿久津部長、どうされました。確か来週には監査の打ち合わせに伺う予定になっているはずですが」
「いや、たいした案件じゃないんですが、早急に鳴沢さんにご相談したいことがありまして。今日にでも当社にお越し頂くことはできませんか」
「別のクライアントとの打ち合わせが夕方5時まで続いていますので、5時半ごろでしたら伺えると思いますが」
「結構です。ご足労おかけしますが、よろしくお願いします」
「実は3日前、インター、不ヅトの内部告発用掲示板に書き込みがありましてね。宮城県にある古川の営業所で、女性事務員が日常的に横領を働いているという内容です。取引先に商品をタダで横流ししているようだというんです。匿名の掲示板ですから誰が書き込んだのかはわかりませんが、とりあえず営業所長に調査を命じてみたところ、書き込みの内容はほぼ事実でした。事務員が横流しの見返りとして現金を受け取っていたんです」
黒川コーポレーションの応接室で、鳴尺と向かい合った経理部長の阿久津は打ち明けた。
「本当ですか。で、被害額はどれくらいなんですか?」
「いやいや、たいした額ではないんです。昨年の4月から数えておよそ1000万円。ほぼ3年にわたって同じようなペースで不正を働いていたので、横流しの被害額は合計で3000万円ほどです」
黒川コーポレーションの売上規模は年間およそ500億円。利益はここ数年10億から20億円程度のレンジで推移している。経理部長が言うように、発覚した金額は財務諸表に重要な影響を与えるほどではない。
阿久津が続けた。
「横領を働いた事務員のほうはすぐに懲戒解雇にしましたが、刑事告訴は見送ることにしました。共謀していた取引先の社長と事務員本人に損害賠償請求を検討しているところです」
「裁判で回収できる額にはあまり期待できないでしょうけど、おっしゃるように被害額がその程度であれば、財務諸表に大きな影響は出ないでしょうね」
鳴沢のつぶやきを聞いて、阿久津の顔も心なしかほころんだように見えた。
「よかった。でもなにせ決算月の直前ですからね。まずは監査を担当していただいている鳴沢さんのお耳には早めに入れておきたいと思いまして。いや、それを伺って安心しました」
「ホッとされるのはまだ早いですよ。まず、横領の詳しい手口を教えてください」
古川営業所の須藤佳世子は、営業所の取引先であるユニバーサル建材の経営者・中込と
共謀していた。営業所の販売用カーペットを「廃棄処分」扱いにし、価格を0円にしてから、ユニバーサル建材へ発送の手続きを取っていた。
古川営業所からユニバーサル建材へは、カーペットのほか様々な内装材が発送されているのだが、その中のカーペットの一部はタダということだ。だが他の取引と一緒に処理されてしまうと、日常の業務の中でそれを発見するのは難しい。
一連のシステム操作を担当したのは須藤佳世子一人だった。古川営業所の営業所長が佳世子を問い詰めると、彼女はユニバーサル建材の中込から繰り返し現金を受け取っていたことを白状した。立派な横領事件だった。
〈ありがちな手口だな〉
経理部長の阿久津の説明を聞いているうちに、鳴沢は職濫たる気持ちになってきた。
不正行為は金額が大きければ大きいほど発見もされやすい。だが細かい金額で複数回に分けてやられてしまうとなかなか発見が難しい。この事件もそのクチだ。
〈確かに被害額は決算に影響を与えるほどではない。だが問題はその後だ〉
「鳴沢さん、なんだか顔がいかめしくなっていますよ。何か大きな問題でもありましたか?」
阿久津が心配そうに声をかけた。
「阿久津さん、つまりこういうことではないですか。御社の営業所に備えられているシステムでは、価格が0円の商品を、通常の発送ルートに乗せることが可能であり、それをチェックできる社内のシステムも整備されていないと」
意外なことを聞かれたという顔つきで阿久津は答えた。
「ええ、まあ……。確かにお恥ずかしいことですがそうなんです。ただ、うちの社員は派遣の人も含め真面目な人聞ばかりですし、第一、名古屋や大阪、福岡といった大きな営業所は専門の経理担当者が毎日、資金繰り表を作成して営業所内に目を光らせていますから、同じようなことはまずありえないんです」
「いいですか、阿久津さん」
相手の機先を制するように鳴沢が言葉を発した。
「これは単に横領とか決算の修正という問題ではないんです。御社の内部統制、つまり不正やミスを未然に防ぐ社内体制が不十分だということです。
われわれ会計監査人としては、現時点で御社の内部統制のシステム自体に大きな欠陥がある可能性を否定できません。いまのお話を伺う限り、御社の物流システム上では任意の送付先に廃棄処分の価格0円とした商品発送が可能になっているわけですからね。
御社は全国に営業所が80ヵ所あります。もしかすると、その営業拠点すべてで同じような不正が発生している可能性だってあるわけですから、現時点でその潜在的な影響金額を確認することもできないんです。
われわれが認識していない不正が存在している可能性、またそのすべてを集計すると財務諸表に重大な影響を及ぼす金額にふくれあがっている可能性が、現時点では否定できません」
「ということは?」
一気にまくしたてた鳴沢に完全に気圧されてしまった阿久津が、恐る恐る尋ねた。
「われわれとしては・同様の不正が古川営業所以外で発生していないことを確かめる必要があります・それなくして、今期の御社の決算書に適正意見を表明することはできません」

おざなりな内部調査
鳴沢から予想外の厳しい指摘を受け、阿久津は急遽、自分自身を責任者とする「特別調査チーム」を結成することにした。
メンバーは経理部員が中心だが、他の部署からも集める必要がある。法務部から1名、営業サイドの状況も知る必要があるため営業管理部からも1名、さらに内部監査室から1名ということで、総勢10人のチームとなった。
メンバーの人選を終えると、次は調査計画の策定に取りかからなければならなかった。事件の発生原因、正確な規模、同様の不正が他の営業所で発生していないかを調査し、そして防止策のとりまとめを行う。期限は決算日となる3月末とした。
ここまでの作業を終えると、阿久津は再び鳴沢に連絡を取った。事件の概要と、特別調査チームの調査計画について詳しく説明するためだった。
神田の本社で阿久津から説明を受けた鳴沢は、調査計画の内容に不満だった。だが、その場で苦言を呈することは控え、阿久津が練り上げた黒川コーポレーションの調査計画をいったん浜松町のオフィスに持ち帰り、監査チームのメンバーと一緒にレビューすることにした。
「調査範囲が全営業拠点を対象としていませんね」
「調査対象の営業所の取扱高は、全体の売上高の40%程度をカバーするだけです。これで
は残りの営業所で不正が行われていないという証明にはなりませんよ」
「調査方法だって営業拠点の責任者へのヒアリングが中心になるようですね。肝心の書類のチェックは、限定されたわずかな範囲のものになっている」
鳴沢チームのメンバーも、誰もこの調査計画が十分なものだという認識は持っていなかった。
「要するに、3月末までにできる範囲でしか調査しません、ということだ。期末までになんとかケリを付けたいという黒川の経理部長の気持ちもわからないではないが、調査が中途半端になってしまっては何の意味もない。
こういう事例はよくあることだからみんなに肝に銘じておいてほしい。不正を生みかね
ない要因を放置しておくということは、結局はクライアントのためにならない。クライアントが内部調査や防止策の策定に割く時間や人員が足りないと言ってくるかもしれないが、粘り強く説得して、しっかりした対応をしてもらうことを心がけてほしい」
どうやって阿久津に調査計画の改善を納得させるか鳴沢は腕組みして思案した。
鳴沢が同じ太平洋監査法人のパートナー・藤堂信吾を伴って、黒川コーポレーションの本社に阿久津を訪ねたのはその翌日だった。藤堂は黒川コーポレーションの会計監査を一緒に担当している。
阿久津は思っていた以上に強硬だった。
「当社としては、なんとしても決算期末までに一定の結論を出したいんです。それにすでに決算月の3月を迎えていますから、どの営業所も予算達成のために血眼になっています。ですから通常の業務に支障が出ないよう調査を進めたいんです。
鳴沢さんのおっしゃることは会計原則に照らしても正論だということは重々承知しています。でも営業所勤務の経験もある私から見て、同じような不正があちこちの営業所で発生している可能性はまずありません。いまの計画で十分なんです。どうかこの計画で進めさせてください」
最後には土下座せんばかりの勢いで、テーブルに両手を突き、頭を上げようとしなかった。
阿久津の話をオフィスに持ち帰った鳴沢は、さっそく自分のチームを招集した。
「阿久津部長の話を聞いて、藤堂さんはどう思いました?」
まずは入所10年目の藤堂に口火を切らせた。
「前回、われわれが議論して問題だと指摘した点について、黒川側はほとんどゼロ回答といっていい内容でした。私は黒川コーポレーションは、事態を甘く見すぎていると思います。われわれとしては、古川営業所で起きたような不正が他の営業所では絶対に起きていないという確信を持てない限り、黒川の内部統制が十分だと証明することはとうていできません」
阿久津の人柄をよく知る鳴沢も意見を述べた。
「私は、阿久津部長自身は調査の重要性を認識しているのではないかと思う。なんといってもベテランの経理マンで、内部統制の重要性も理解しているはずだからね。ただ社内の協力が十分得られていないような気がしてならない」
3年目の会計士、藪田琴美が口を開いた。
「だけど、もしもこのまま主張が平行線のまま期末を迎えてしまうと、どうなるのかしら・…。最悪の場合、適正意見を出さない、という事態もあり得るんですか」
ひと呼吸おいて、鳴沢が静かに語りはじめた。
「適正意見が出ない、という結果にはならないんじゃないかな。そもそも、太平洋監査法人が適正意見を出さないという見通しになれば、黒川コーポレーションはわれわれを解任してしまうはずだ。そして黒川は他の監査法人に泣きつく。世の中には、高い監査報酬と引き替えに、多少危ない決算書にも適正意見を出す駆け込み寺みたいな監査法人もあるからな。それが一番ありそうなシナリオだ」
「でもそんなことをしたら、黒川コーポレーションの信用はがた落ちですよ。株価が下がるだけじゃなく、今後の市場でのファイナンスにも大きな影響が出てしまう」
藤堂の意見に鳴沢が答える。
「だからこそ、なんとしても阿久津部長には踏ん張ってもらいたい。彼らの協力なしにわれわれの作業は進まないんだからね」
念のため鳴沢は、自分たちのチームの監査内容をチェックする、審査担当パートナーの意見も聞いてみたが、結論は同じだった。
「黒川コーポレーションの調査計画では、適正意見を表明するための十分な監査証拠を入手することはできないのではないか」
これは鳴沢だけでなく太平洋監査法人としての確固たる態度となった。

企業存亡の危機
古川営業所の件で、鳴沢が阿久津から電話をもらってからすでに10日が過ぎていた。
黒川コーポレーションの役員応接室。この問題で阿久津は、三度鳴沢と向き合っていた。
「阿久津さん。不正を生む可能性を放置しておくことは御社のためになりません。もしも同様の不正がいまもどこかで行われているとしたら、御社の資産がどんどん外部に流出していることになるんですよ」
鳴沢の真摯な説得に、阿久津はうなだれた。
「……経理に携わる人間として、太平洋監査法人の意見には個人的には同意します。しかし、社内事情を考えると、なかなか素直に受け入れることは難しいんです」
「どういうことですか」
鳴沢は静かな口調で尋ねた。
「抜本的な調査をするとなると、営業部門の協力がどうしても不可欠です。すべての営業所の営業担当者の取り扱い内容をチェックするわけですからね。そうなれば、書き入れ時の営業部隊の活動が大幅に制約されます……」
「それはわかりますが。……もしかしてあのイケイケドンドンの営業担当常務が反対しているんですか?」
「はっきり申し上げればその通りです。蔵本常務を私だけで説得することは難しい」
鳴沢の予想した通りだった。監査業務一般について、経理担当者でないビジネスマンの
関心は薄い。〈そんなもの仕事の邪魔だ〉と、内心で毒づいている者も決して少なくないのが実態だ。
だが、これは上場会社に必要な「適正証明」が出るか出ないか、という企業の存亡にも関わる大問題なのだ。タイムスケジュール的にも、一刻の猶予もない。
「では日高社長に、調査計画の修正が必要だと私から説明させてもらえませんか。社長から蔵本常務に言い含めてもらうしかないでしょう」
「社長の日高にですか……。わかりました。秘書室長に日高のスケジュールを空けるよう頼んでみます」
鳴沢が黒川コーポレーション社長の日高と会談を持ったのは、それから2日後のことだった。
「率直に言って、このままの調査計画で進展すると、予定されている決算発表日までに監査報告書を発行することはできません」
普段は紳士然とした物腰の日高の右の眉がピクンと動いた。
「それは困りますね。そんなことになれば当社の信用に直結します。決算発表はなんとしても予定通り行いたい。それほど切迫した事態であれば、私から営業本部に指示して協力させますから、鳴沢先生、くれぐれもよろしくお願いします」
一部上場企業の社長に頭を下げられなくても、監査人は全力で財務諸表の監査に当たる。鳴沢にとっては当たり前のことだった。
社長直々の指示が出たお陰で、営業本部を統括する蔵本常務も渋々ながら協力を約束してくれた。ここから黒川コーポレーションの「特別調査チーム」は本格的に動き始めた。
調査対象の営業拠点は、ほぼすべての営業所へと拡大したし、取引信葱、つまり領収書や見積書、受取証といった取引書類のチェックを含めた深度のある調査が一斉に始まった。また、外部の不正調査会社への委託についても検討がなされ始めた。
ただ、ここに至るまでの時間のロスがありすぎた。
鳴沢が阿久津から連絡を受け、黒川コーポレーションが特別調査チームの編成を決めてからすでに2週間が過ぎている。すでに3月半ばになっていることを考えれば、3月末までに調査結果が提出される見込みはまずない。2週間のタイムロスは大きなダメージだった。
これでは、予定していた4月末までに監査報告書を発行するためには、監査チームのメンバーを増員しなければならない。また頭の痛い問題が降りかかってきた。
太平洋監査法人では、黒川コーポレーションの監査チーム増員を検討し始めた。別の会社を担当している監査チームから2名を融通してもらい、黒川コーポレーションの監査チームを組み上げる調整がなされたのである。当然のことながら、スタッフを引き抜かれるチームは反発した。しかし、最終的には部門長が取りなし、黒川コーポレーション担当チへームの2名増員が認められた。
これで監査態勢はほぼ整ったが、新たに浮上した問題がひとつあった。監査チームの増員と監査時間の増加によって、黒川コーポレーションが負担する監査報酬が増加するのだ。黒川コーポレーションと交わしている監査契約書の約款には、クライアント側の事情によって監査の手間が増えた場合には、それに応じて追加の監査報酬を請求することができると書かれている。基本的には監査に関わった人数とその時間によって監査報酬は決定されるが、追加の監査報酬額もおそらく数百万円単位にはなる。
「日高社長がすんなり呑んでくれるか」
呑んでもらわなければならない。鳴沢は不安になった。

襲い来る難題とタイムリミット
「そんな大きな金額になるんですか」
「ええ。増員したスタッフの分と、増えた稼働日数を考えると、どうしてもこれくらいにはなってしまうんです。ご理解ください」
「しかしこれではわれわれが想定していた監査報酬を大幅に超えてしまいますよ。社長がなんと言うか……」
鳴沢としては、もとをたどれば黒川側の不祥事をきっかけに、突発的に発生した業務だ。報酬金額については、実績ベースでの請求をしたい。
一方の経理部長としては、事情はわかるが、報酬の増加分があまりに多すぎる。第一、鳴沢から提示されたのはざっくりした金額だけだ。せめて概算の見積書くらいは出してもらわないと役員の決裁も得られない。
「わかりました。現時点で想定できる範囲で見積書を作成し、お持ちします」
それから約1ヵ月後の4月半ば、経理部長をトップとする特別調査チームがまとめた調査報告書が、太平洋監査法人に提出された。
古川営業所と同様の不正は、他の営業拠点では発見されなかった。阿久津の直感は正しかったが、それが調査で裏付けられた意味は非常に大きい。再発防止策として当面は廃棄処分を含めて、定価の変更を伴う出荷取引については、営業拠点の責任者がチェックすることが決められた。さらに、3ヵ月後には、今回のような取引について拠点責任者の電子承認を行うシステムを導入することも、報告書には盛り込まれていた。こうした内部統制
の仕組みが整備されている心証が得られない以上、監査人は決算数字が正当な手続きによって積み上げられたかどうかを確信することはできない。他に不正がなかったこと、再発防瓜策が取られたことが確認できるまでは、会計監査の結論は出せないのだ。
鳴沢のチームは、調査結果をレビューし、監査チームとして追加すべき新しい監査手続
きの範囲を定義し、その実施に取りかかった。
しかし、黒川コーポレーションの追加手続きに関する対応が、通常の決算業務と重なったこともあって大幅に遅れていた。当初予定していた4月末での監査報告書の発行は難しいとの判断から、決算発表の予定日である5月10日の前日、5月9日に延期することになっていたが、発行日を延期したにもかかわらず、監査報告書の発行日前日になっても、重
要性のある手続きが終了していなかったのだ。
その結果次第では、財務諸表の数値を修正しないと適正意見の監査報告書が発行できない状況だ。
鳴沢はチームのメンバーと協議し、監査報告書提出の延期も含めて黒川コーポレーションと相談することにした。

監査報告書の重み
「そんな。こんな土壇場になって財務諸表の数字を修正するなんて無理ですよ」
阿久津の言うように、この期に及んで決算書の数字をいじるのは困難な作業だ。
財務諸表の数字を修正すれば、それと連動してマスコミ向けや銀行向けといった、それぞれに様式の違う資料の修正も多数発生する。
また、この決算の数字は、すでに親会社や大株主といった利害関係者との協議を経て積み上げてきたものだ。彼らとの協議の時間を再び設けることは至難の業だ。
「現時点で未了となっている部分については、おそらく問題はありません。なんとかなりませんかっ!」
普段冷静な阿久津もさすがにパニック状態だった。
「事情は理解できます。しかし......」
鳴沢は諭すように言った。
「監査報告書を発行する以上、必要な監査手続きはすべて終了していなければなりません。最終的に未了部分が『問題なし』という結論だったとしても、です」
「当社と太平洋監査法人さんの間柄じゃないですか。そんな原則論に固執しなくても…」
「原則論ではありません。われわれ監査法人とすれば、それ以外に選択肢はないのです」
「もしも対応が間に合わなかったらどうなるんですか」
「決算の数字を修正していただくことこなるかもしれません。監査報告書の作成も当然遅れます」
もし決算の数字の修正が必要になった場合、どれだけ膨大な時間と手間が掛かるか阿久津は想像しただけでゾッとした。もちろん会計監査人には、必要な手続きを実施してもらい、監査報告書を作成してもらうのが筋だということは十分理解している。
決算日から45日以内に証券取引所へ提出することが「適当」とされる「決算短信」は、明後日の決算発表日での提出となる。「決算短信」には監査報告書を添付する必要はないが、決算数値を対外公表するにあたっては、監査法人から事前に監査報告書を入手しておきたいということから、その前日までに監査報告書を発行するよう、監査法人に依頼していたのである。
決算発表した数値と、監査報告書の添付が必須となる株主に送付される計算書類および、金融庁に提出される有価証券報告書で開示される決算数値の内容に乖離が生じることを、日本の企業は徹底的に嫌う。
そのため、多くの企業は、東証への決算報告前の段階で「適正意見」の付いた監査報告書を入手したいと考える。
「決算発表を遅らせることは当社の信用に関わります。それに、このまま未了の状態が続き監査報告書が発行されないとすると、会社法上の問題も生じますよね」
阿久津の声は震えていた。
「御社は6月28日に株主総会を予定されていましたね。その2週間前である6月14日まで
に、監査報告書を含めた招集通知書類を発送することができなければ、会社法に抵触することになります。さらに」
「さらに?」
"会社法違反"だけでも心が折れそうなのに、もっと悪い事態もあり得るというのか。阿久津は力ない声で聞き返した。
「他意なく客観的な事実としてのお話をさせていただければ、有価証券報告書の提出期限である6月末からーヵ月以内、すなわち7月末までに監査報告書が発行されない場合、上場廃止の可能性も生じることになります」
「そこまで未了の状態が続くとは思いませんが、わずか1OOO万円、3年間で3000万円の横領事件の後始末に手間取るだけで上場廃止の可能性まで出てくるとは!?」
「理不尽に感じられるかもしれませんが、ルールとしてはそういうことなのです」
「法令違反が生じるまでの対応の遅れになるとは考えていませんが、問題は明後日の決算発表です。決算発表日を延期することは信用に関わりますし、監査証明をいただいていない決算数値で発表することのリスクは大きいと考えております。」
「まずは、現時点で未了となっている手続きを完了させることです」
「死にものぐるいでやるしかない、ということですか」
鳴沢はうなずいた。
「わかりました。そこまで言われるのであれば、なんとか明日までにスタッフ総動員で作業に当たらせます。しかし、必ずしも間に合うかどうかはわかりません。明日までに間に合わなかったら、再度、対処法について相談に乗っていただけますか」
「もちろんです。健闘をお祈りします」
鳴沢との打ち合わせが終わると、経理部長の阿久津は社長室に飛んでいった。
「なんだと……」
阿久津の報告を聞いて、普段は温厚な日高も声を荒らげた。
「明日までに監査報告書を受け取れないかもしれない?最悪で上場廃止だと?そんな馬鹿なことがあるのか。今期だって20億近い利益が出てるんだぞ」
珍しく取り乱したことに気づいたのか、日高は椅子に座り直して腕組みをした。
「まず第一に考えなければならないのは、予定通りのスケジュールで決算発表をすることだ。発表延期となれば、それだけで黒川の信用は失墜する。新聞にも叩かれるだろう。
もちろん君のほうにはできるだけの対応はしてもらうが、もしも作業が間に合わず太平
洋監査法人が監査報告書を発行してくれなかった場合でも、決算発表は予定通り行う。原則論で言えば、決算短信に監査法人の報告書は必要ないんだからな。最終的に有価証券報告書の数字と食い違いが出てきてもしようがないだろう。そのつもりで事に当たってくれ」

翌日の午後9時。未了の監査手続きに関する必要資料が阿久津の手元にすべて揃った。
阿久津本人と部下たちが、猛烈な働きをした結果だった。資料の内容に問題はない。
「見事です、阿久津さん。すぐ監査報告書を作成します」
黒川コーポレーションの会議室で控えていた鳴沢は、すでに「適正意見」を表明した監
査報告書を用意していた。
「鳴沢巧」
鳴沢は上着の内ポケットから愛用の万年筆を取り出すと、監査報告書の「指定社員業務執行社員」の署名欄に、いつもより少し太めの筆致でサインした。

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