あshくがいふぃあ

「やった。ついに、完成したぞ!」
 郊外に建てられたアパートの一室でM氏は歓喜の声を上げた。
「やりましたね、博士。ということは、元に戻す薬も……?」
「当然、できておる」
 助手も飛び上がって喜んだ。二人は抱き合い、涙を流すほどだった。それも仕方のないことだろう。もともとは国が主導で始めたプロジェクト。しかし、目に見える成果が一向に上げられず、予算は削られ、人も徐々に減っていった。ついに、政府から計画の中止を告げられたのが三年前。それでも諦めきれなかった二人は独立し、個人的に開発を続けて苦節、十年。長年の苦労がようやく報われた瞬間であった。
「で、では、さっそく飲んでみましょう」
 興奮を抑えきれない助手をM氏はたしなめた。
「まあ、待て。そう急くでない。チンパンジーで有効性は確認できたが、人には一度も試していないのだ。どんな副作用があるか分からない。慎重になるべきだ」
「もちろん、臨床実験は必要でしょう。だから、その実験に僕を使ってください。博士より若いし、体力もある。なにより、そのための助手じゃないですか」
 と言うと、助手はその黒い液体をぐいっと飲んでしまった。M氏が呆気に取られる間もなく、効果はすぐに表れた。
「あ……、あ」
 助手の瞳が焦点を失う。M氏の目が研究者の輝きを放つ。
「ど、どうだ、気分は。意識はあるか。体に異常は?」
「あ、が、あsh……」
 やった、成功だ。M氏は手を叩いて喜び、質問を続けた。
「君の名前は」
「あばふぁふこw」
「ここはどこ」
「がgふうdヴぁあ」
 効き目はばっちりのようだ。こちらの言葉をまったく理解しておらず、口の端からよだれを垂らすばかり。完全に言語力を失っている。
「gにいふぁが、あどぅ、ふぉだらsしがg」
 ためしに日本で有名なバンドの曲を聞かせてみると、助手は肩を揺らしながら鼻歌を口ずさんだ。歌詞は理解できなくても純粋にこの音楽を楽しんでいるようだった。
 いまはまだすべての言語を忘れてしまう乱暴な薬だが、ゆくゆくは特定の言語だけを忘れるように改良するつもりである。
 本来が、クールジャパン戦略のひとつ。映画、音楽、アニメ。ジャパニーズコンテンツの市場をさらに拡大するためにはクリエイターの客観性が課題だった。日本人の視点でなく、世界でみたときにこの作品は面白いのか、どうか。その正確な判断をするためには日本語を忘れる必要があるだろうというのが識者の結論だ。日本語が理解できなければよりフラットな状態でコンテンツを評価できる。第三者ではなく、作り手自身に世界規模の客観性が身につけばまさに鬼に金棒、我が国のポップカルチャーによる国際競争力はますます高まることだろう。
「khくるふぁばんscか!」
 別の曲を流すと、助手は不満そうに声を荒げた。アジアで活躍する歌姫はお気に召さないようだった。
 彼が何を言っているのかはさっぱり分からないし、たぶん自分でも分かってないだろう。言語を失えば、頭で考えることもできなくなる。当然、このままでは使い物にならないが、薬の改良が進めば問題ない。助手は英語が堪能なので、日本語が分からなくても英語で思考できるからだ。私たちをお払い箱にした政府を見返す未来もそう遠くないだろう。
「さて、これからが正念場だ。薬を改善する前にまずやることがある」
 M氏は助手に近付いて言った。
「君には嘘を吐いて申し訳ないが、元に戻す薬はこれから開発するんだ。なあに、理論は確立しているからさして時間はかからん。数年の辛抱だ」
「あshくがいふぃあ」
 助手には当然、伝わらなかった。
 うんうん、とM氏は満足げに頷いた。

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