東田神明宮(奉納手筒花火)
10/14、豊橋市御園町に鎮座する東田(あずまだ)神明宮の例祭で奉納される手筒花火を見に出かけてきました。
名古屋から名鉄に乗り名鉄名古屋本線で約1時間、豊橋駅に到着。
10/21・22に行われる豊橋まつりを前に、路面電車もデコレーションされ祭り気分を盛り上げていた。
目的地の東田神明宮は路面電車で最寄り駅の東田坂上まで約15分程、そこから徒歩で10分ほどで到着できます。
例祭で奉納される手筒花火は日没からなので、市内を散策しながら神社に向かいます。
マンホールには手筒花火と吉田城が描かれています。
某TV局で取り上げられることのある「スパゲッ亭チャオ」で少し早い昼食。
昭和レトロな店内は昼前と言う事もあり混雑する様子はなかった。
味は食べ慣れた名古屋の味と比較すると、スパイシーさに欠け率直なところ普通のあんかけパスタ。
TVや口コミは話半分として捉えるべきなのを改めて感じた、一度食べれば満足かナ。
ここから北に5分程のケーキ店「マッターホーン」で三時のおやつ「ダミエ」をテイクアウトして散策開始。
吉田神社。
マッターホーンから北東に15分程、豊川左岸の護岸を背にして鎮座し、参道の松並木が特徴の神社。
社頭右に縣社吉田神社の社号標と手筒花火発祥之地の標柱がさり気無く立っている。
創建は諸説あるそうですが、旧社家の文書(天王御縁起)に天治元年(1124)当地で疫病が流行した際、牛頭天王を勧請し疫病退散を祈願したのが起こりとされ、源頼朝からも篤く崇敬されたという。
吉田城(今橋城)築城後は御城内天王社・牛頭天王社、天保6年に正一位の神階を賜った後は正一位吉田天王社と称し、徳川幕府成立後の歴代城主から崇敬庇護を受けて来た。
現在も本町・上伝馬町・萱町・指笠町・札木町・三浦町・関屋町・西八町の氏神として、又手筒花火発祥の神社として崇敬されている神社です。
「伝承三河伝統 手筒花火発祥之地」
吉田神社の祭礼手筒花火の歴史は450年以上前にさかのぼると伝えられます。
「参河国名所図絵」内で記述のある「古老伝」(所在不明)には「永禄元年(1558)天王社祭礼花火と云事初る」と書かれており、このことから吉田(現在の豊橋)が日本での花火の発祥地と伝承されています。
花火は、天文12年(1543)のポルトガルからの鉄砲伝来以降、火薬の広がりとともに発展していったと考えられているそうで、その後天正3年(1575)の長篠の戦い、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いを経て、火薬の可能性に気づいた徳川家康が三河衆に火薬の製造を任せたことがこの地方での花火の発展につながったと言われています。
江戸時代の中頃になると、豊橋の花火は全国的にも名を知られるようになります。
江戸時代後期に纏められた「三河国吉田名蹤綜録」には他国からも多くの人が見物に来たと記されています。
花火が掲げられた場所は、吉田城の城下町・吉田の繁華街だった本町(現在の新本町周辺)の軒が連なる大通りで花火が揚げられていたそうです。
享和2年(1802)にこの地を訪れた人気戯作者・滝沢馬琴は著書「羇旅漫録」で吉田の花火を「天下一」と称賛しており、当時の吉田の花火がいかに降盛を極めていたかが読み取れます。
嘉永4年(1851)「参河国名所図絵」には、三日間に及ぶ当時の祭の様子が描かれています。
初日は午後2時頃から「昼揚げ」が始まり、「袋物」と呼ばれた傘や布なども打ち揚げていたようです。 夜になると打ち揚げ花火や仕掛け花火、翌日には「聞き物」という細工花火などが掲げられたと記録されています。
市内の神社を何社か参拝しましたが、何れも花火を揚げるだけの広い境内を持っています。
吉田神社
創建 / 天治元年(1124)、諸説あり
祭神 / 素盞嗚尊
所在地 / 豊橋市関屋町2
豊川と吉田城。
吉田神社から北に数分の所に国道1号線の吉田大橋が架かり、写真は橋の中ほどから吉田城を眺めています。
この一帯は吉田城の他、市役所や豊橋公園が隣接しており、緑豊かな癒し空間になっています。
東海道の34番目の宿場町吉田宿は平安時代より吉田といわれ、地名の由来は吉田大橋から眺める事で察しがつく様に思います。
河原は葦が生えており、古くは田園風景の中に一面葦原が広がる地だったのだろう、そうした光景から「葦田」となり吉田に変って行ったのではないだろうか。
吉田から豊橋に地名変更されたのは最近の事で、明治2年(1869)、吉田藩は伊予国に同名の藩があったことから、明治政府から改名を命ぜられ、今橋、関屋、豊橋の三つの候補より、豊川に架けられていた豊橋の名から、明治2年に「豊橋」へ藩名変更されたようです。
吉田城の本丸には所謂天守はなく、四方に櫓を設けたもので、そのうちの一つ鉄櫓が復元されています。
城内で見かけた狂い咲きの桜。
公園内でおやつの時間、ベンチに腰掛け花見をかねてダミエを頂く。
バタークリームをスポンジケーキに挟んで外をチョコでコーティングしたもので、見た目は重そうですが軽い食感の昔懐かしい素朴な味。
市役所13階の展望デッキから東田神明宮方向の眺め。
市街地の中に島のようにポツンと杜が点在しています、この景観の中に東田神明宮の杜も見えています。
13階の展望デッキには手筒花火体験パーク(入場無料)とレストランが併設されています。
手筒花火
「東三河の伝統芸能の一つである手筒花火。
その歴史は古く戦国時代の永禄元年(1558)今川義元公の吉田城代、大原肥前守が吉田神社に奉納したことに始まると言われています。
直径12㌢前後の孟宗竹の節を抜いた筒に荒縄を巻き、その中に火薬を詰め、点火した筒を抱えて揚げる花火で、五穀豊穣、無病息災、家運隆盛を神に念じ、若者の大人への門出、度胸試しとして奉納打ち揚げられます。
夏の夜空に轟音と共に立ち上がる火柱、オレン ジ色の雨の様に降りそそぐ火の粉、その中で仁王立ちで放揚する勇姿、人と花火が一体となった手筒花火は豪快にして勇壮華麗な花火絵巻です。」
竹の伐採から始まり、火薬の充填まで奉納者自らの手で作るものという。
資格もなく安易に火薬が取り扱えるのか疑問に感じたが、花火屋さんの講習を受け、花火工場の臨時従業員の形態で初めて作る事が出来るらしい。
豊橋の方にとって花火作りは身近なイベントなのかもしれない。
手筒花火マップ。
知らなかったがこうして見ると手筒花火は規模の大きさの違いはあるものの、3月から10月までほぼ毎月のようにどこかで揚げられているようです。
東田古墳。
豊橋公園から東へ30分前後の住宅地の中に聳える小山で、古墳時代中期の五世紀頃に造られた前方後円墳。
鬱蒼とした樹々に包まれ、古墳上部に御嶽社がある事から前方後円墳の実感は得られないかも知れませんが、解説によれば全長40㍍、前方部は幅16㍍、高さ4㍍、後円部は直径20㍍、高さ3㍍あると云います。
神社の社殿の建設時に副葬品の鳥文鏡と大刀が出土したとされます。
ここから目的地の東田神明宮は東隣といってもいい。
東田神明宮社頭。
北側を流れる朝倉川左岸に位置し、社殿は深い社叢に包まれています。
「東田神明宮
御祭神 天照皇大神
例祭日 十月第二土曜日 日曜日
由緒
社伝によると、平安朝初期醍醐天皇延喜二年(西暦902年)勅旨田飽海壮に神宮領御園職員令による園池司正として神宮禰宜一人 他に佑一人 令史一人 使部六人を使わされ榊山本社に天照皇大神を祀り 本社東五百間(後の仁連木城跡)に豊受大神を祀り 本社東三十間に猿田毘古神を祀るとある如く、伊勢神宮の御分霊を奉斎する古いお社である。
古来武将をはじめ庶民の崇敬厚く、天文二十二年(西暦1553年)仁連木城主戸田丹波守宣光新たに社殿造営し祀る。
古来社殿の造営しばしば行われ、棟礼二十二枚を尚蔵する。
慶長九年伊奈備前守忠次、徳川家の命を受け社領三石の黒印状(除地)を寄進し爾後明治維新に及ぶ。
明治五年壬申九月、郷社に列せらる。
明治六年九月、東征大総督一品有栖川宮熾仁親王より御親筆、御額を賜る。
大正十二年、本殿、弊殿、拝殿、神楽殿を新たに造営し奉る。
例祭には、大筒、手筒の花火が多数奉納され、浦安の舞、豊栄の舞、稚児神楽が奉奏される。
東田神明宮の氏子の戸数は、二十六ヶ町、五千戸を数え、豊橋市内最大の神社である。
境内社
天王社(素盞鳴命)
御鍬社(伊佐波止姜神)
秋葉社(火産霊神)
猿田彦社(猿田毘古神)
英霊社(国防に殉じた方々の神霊)」
神紋は三本杉。
日暮れには早いが境内に向かい参拝だけ済ませる。
参道の先の拝殿。
展望デッキからも見えていた幟旗が聳え立っている。
拝殿前には氏子らが集まり神事を見守る最中だった。
境内は参道左に社務所、神楽殿、正面の社殿、右に広い境内があり境内社が祀られています。
今日ばかりは、じっくり見て廻るのは難しいな。
拝殿右側の境内。
ここが奉納手筒花火が揚げられる場所で日暮れを前に準備に追われていました。
有栖川宮熾仁親王御親筆の神明宮の額、折しもお宮さんに舞が奉納されていた。
神楽殿では今年デビューを迎えた稚児神楽を舞う子らが、出番を控え一生懸命練習するあどけない姿があった、こうして少しずつ大人に成長していく。
かみさんもその昔、舞を奉納した(させられた)事があるようで、当時はおひねりを頂けたが、菓子の配給に誤魔化され、多額?のおひねりは青年団の酒代に消えた事、妹の年には全額子供達で別けあった事を今でも訴える。
日暮れまでしばらく時間もあり、朝倉川を渡った先のファストフード店で待機。
日暮れと共に空は泣き出し雨天での花火となりました。
日も暮れて、多くの見物客が集まり始め、やがて境内の照明が落とされ手筒花火の奉納がはじまる。
オレンジ色の火柱と豪快に舞い落ちる火花、想像以上の熱や音に男の気概と誇りみたいなものが伝わってくる。
最後に訪れるはねの爆音は分かっていても体がビクッとするほどのもの。
余談になりますが、我が地区には子供達にファイヤートーチなる行事が受け継がれてきましたが、小さい頃はデビューの日が来るのを待ち望んだものですが、新しい住民が増えるとともに「危ない」とされ途絶えてしまいました。
子供花火、境内のお子様たちは希望すれば大人付き添いのもと手持ち花火を体験できる。
家庭で楽しむ小さなものより大きなもので、こうして花火に親しんでもらい、いつかはあの大きな手筒花火に至るのだろう。
自分事になりますが、世の中危ないことはいくらでもある、そうしたことから遠避けてしまう風潮にどうも共感できない。
井戸端会議に熱中し、傍らの我が子が道路でスケボーや自転車を操る事に「危ない」と教えられない姿を見ると、危ないことを教えられない事は子の成長過程で不幸な事かもしれないと感じる。
東田(あずまだ)神明宮
創建 / 延喜2年(902)
祭神 / 天照大御神
所在地 / 豊橋市御園町6-16
参拝日 / 2023/10/14
雨脚も強くなり、帰りの時間も気になって来た、後ろの観客に場所を譲り神社を後に路面電車の最寄り駅東田坂上を目指す。
路面電車が頻繁に通るが、車道を走る車の流れは混乱もなくスムーズに流れています。
終点の駅前まで路面電車に揺られて15分程。
駅前行きの電車が到着。
一人しか乗っていない車が緊張感なく、かっ飛ばしやす道の整備を進める事より、こうした移動手段を名古屋にも復活させて欲しい。
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