映画『関心領域』を観た感想、…とルドルフ・ヘス一家のその後について。
イントロ
何年振りかな、映画の感想を書くのは。
ホロコースト映画なら何でもかんでも見るってわけではないし、ホロコースト映画にはまったのは、ホロコースト否定に興味を持つきっかけとなった2020年頃だけだと思う。『シンドラーのリスト』や『戦場のピアニスト』を、確かNetflixかAmazonプライムで見て、色々と関連情報を知りたくなって検索したりしているうちに、ホロコースト否定が日本のネット上でもかなり存在していたのを初めて知った、ってことだったように思う。
もしかすると、劇場で見たホロコースト映画の初は、去年くらいに観た『ヒトラーのための虐殺会議』だったかもしれないし、だから劇場では今回が2回目ということになるのかもしれない。実際のところ、ホロコースト映画にそんなに興味がある方でもないと思う。9時間くらいの超大作『SHOAH』は未だに観ることができていない。これこそ、取り憑かれたように否定論に興味を持つなら観ていて然るべきなのにね。
で、『関心領域』だけど、第96回アカデミー賞にノミネートされたかくらいの頃に知ったのだと思う。同時に『ゴジラ-1.0』があったからね、あれは普通に面白かったし楽しめた。『関心領域』については、YouTubeで予告編を観て、どっかのページで簡単な解説を読んで、もちろん興味を引いた。アカデミー賞ってだけで、映画のクオリティは保証されたようなものだし、二千円払ってでも観る価値はあるかなと。それに、音が勝負だっていうからさ、それこそ配信では楽しみが半減してしまう、そこは映画館でないとね。
でも、本当に正直にそう思っているのだけれど、しばしば、ホロコースト否定派的な人が言うように、ノーマン・フィンケルスタインの『ホロコースト産業』に絡めるように、毎年毎年何十本ものホロコースト映画が公開され続けるのは、ホロコーストを(ユダヤ人が)産業にしているようなものだ、ってな主張に半分くらいは同調している。ホロコーストっつーかナチものっていうか、「そればっかりかい!」と言いたくもなるってものだ。ホロコースト映画とは言い難い、ホロコースト関連映画なら、『ヒトラーのための虐殺会議』以前に映画館で観た『異端の鳥』ってのがあったのだけれど、観たその時は面白いと思ったけれど、後でよく考えたらあんなのはクソ映画だ。
だから、「他にもなんか良い映画はあるだろ?」と、映画館の映画一覧を見てたら、これが石原さとみ主演の『ミッシング』くらいしか興味を惹くものがない。で、30秒くらい悩んだ末、『関心領域』鑑賞をポチった。では感想を――。
感想本題
先に蛇足を述べると、今まで見たホロコースト関連映画でランク付けすると、本作品は五位くらい。一位は『ソフィーの選択』、二位は『戦場のピアニスト』、三位は『サウルの息子』、四位は『シンドラーのリスト』。『ソフィーの選択』が何故一位かと言うと、それはもう、あのビルケナウのホームで娘をガス室に連れてかれるシーンの衝撃があまりにも強烈過ぎて、いまだにトラウマだから。どんな残虐シーンよりも遥かに残酷だと思う。あと、メンゲレ医師役だと思うけど、あの親衛隊将校の表情の冷酷さは今でも直視したくない程。メリル・ストリープの演技は絶賛ものだしね。
さて、私の場合、ホロコーストそのものではなくホロコースト否定論に知識が偏っているとは言え、それでも4年間くらい片手間にでも没頭していると、映画を見なくても大体の大まかな感じは、予告編程度でわかる場合が多い。特にこれは、ホロコースト否定派が集中攻撃するアウシュヴィッツの話であり、ある意味最も集中的に調べたかもしれない、司令官ルドルフ・ヘスを主役とする話だから、一箇所たりとて驚くことはなかった。それどころか、もしこの映画をホロコースト否定派が見て、おそらく鼻で笑うだろう煙突から出ている炎について、「煙突火災ならあり得るw」とまで想定できてしまった。
知らなかったのは、多分、あの赤外線映像っぽいシーンだけだろう。あれだけは、その元となったエピソードを知らないので、私なりの簡単な推定しか思いつかなかった(それでも多分、ほぼ合ってるはず)。だから、「カナダ」の話が出てきたって、あの会話の意味がそのままスッと理解してしまえた。他、例えばあのトプフの営業マンはクルト・プリュファーなのだろうけど似ても似つかないのはやや不満だったし、そこで説明されていた火葬場は結局採用されなかったんだよねー、みたいなことまで心の中でぶつぶつ言ってた。職業柄(笑)詳し過ぎだから仕方ないが。
ヘス夫人があんな感じだったのかどうはまでは知らないけれど、たぶんあの描き方はそれほど外してはいないとは思う。元々、ヘスとその夫人ヘートヴィヒは、アルタマーネンの団体に所属していて、そこで知り合った二人だった。アルタマーネンとは、ルドルフ・ヘスの自伝である『アウシュヴィッツ収容所』によると、
ヒムラーなどもこの団体に所属していたことがあるらしいが、「自然に即した、大地の上での生活」をヘス夫人が理想としており、アウシュヴィッツの司令官邸宅を離れようとしなかったように描かれていたのも合っていると思う。
そういうわけで、素人にしては妙に詳しい(笑)私からしても、史実にはよく合っているとは思う。但し、嘘もあって、演出上のことだから別にそれは咎めることはないのだけれど、恐ろしい地獄のような収容所は実際には、ヘス邸宅のそばにあるアウシュヴィッツ基幹収容所(第一収容所)ではなく、そこから2キロほど離れたところにある第二収容所であるビルケナウである。もちろん、第一収容所の方もビルケナウよりはマシだったというだけで、天国だったわけでも何でもない。ただ、火葬場(第一)の煙突からずっと煙が出ていたり、火葬場や列車、あるいは囚人たちの叫びなどの「音」が絶えず聞こえていたりするようなことはなかったろう。
もちろん、それら「音」は、この映画の最大の演出の妙でもあり、『関心領域』というタイトルを表現する仕掛けなのではある。単純に、平和で幸せでヘス夫人にとって理想的な環境は、すぐ隣にあるアウシュヴィッツの地獄を無視することによって成立していたわけだから。無視どころか、その地獄を利用までしていた。それもまた、史実であろう。監督が最も描きたかったであろうこの極端なまでの平和と地獄の共存は、本当にその「音」によってうまく表現できていたとは思う。
しかし、私はこの平和と地獄の共存について、では一体それでこの映画が何を言おうとしていたのかについては、あまり具体的には語ろうとは思わない。もっとも卑近な例はイスラエル、パレスチナ問題であり、ガザ地区の問題であろう。あるいは、地球温暖化の問題に結びつけることも可能だし、ネットでは中国のウイグル問題に絡める人も見たことがある。それらの問題に無関心であって良いのか?という問いかけであると見做すことは簡単だ。もし監督や製作者の狙いがそこだったのなら、それは成功しているのかもしれないが、私個人はそれは違うと思っている。
そうではなく、私たち、自分自身が知らないはずはないのに『関心領域』の外に置いてしまっていることはないか? だと思うのだ。その言わば『関心領域外』は個々人で違ったって別に構わないが、しかし自分自身に問いかけて、自分自身で本当に見ないふりをしている事柄はないか? だと思う。それは別に監督や映画の意図ではないかもしれないが。
で、そんな風に思ったのは、実はこの『関心領域』関連の話題をちょっと調べていて、次のような記事を見つけたからです。多分、ヘスの家族が、じゃぁその後どうなったのかまでについて、『関心』を持つ人はあまりいないんじゃないかと思ったのですね。ちなみに、ルドルフ・ヘスは1947年に、自分が司令官をしていたアウシュビッツ収容所の敷地内で絞首刑になっています。
では残された家族はその後どうなったのでしょう? それが以下の記事です。
Hiding in N. Virginia, a daughter of Auschwitz
▼翻訳開始▼
バージニア州に隠れていたアウシュビッツの娘
トーマス・ハーディング
2013年9月7日 16時54分
彼女は1972年からワシントン地域に住んでいる。しかし、彼女はまだ孫たちに自分の話をしていない。
ブリジット・ヘスはバージニア州北部の緑豊かな脇道にひっそりと住んでいる。ワシントンのファッションサロンで30年以上働いた後、現在は引退している。彼女は最近ガンと診断され、その治療と向き合う日々を送っている。
ブリジットには孫たちでさえ知らない秘密がある。彼女の父親はアウシュビッツの司令官ルドルフ・ヘスだった。
ポーランドの古い陸軍兵舎から、1時間に2,000人を殺害できる殺戮マシーンへとアウシュビッツを設計・建設したのはルドルフ・ヘスである。戦争終結までに、110万人のユダヤ人が、2万人のジプシー、数万人のポーランド人とロシア人の政治犯とともに、収容所で殺された。そのため、ブリジットの父親は歴史上最大の大量殺人者の一人である。
翻訳者註:収容所の責任としては、ヘスはアウシュヴィッツ収容所を設計・建設したと言えるかもしれませんが、もちろんですがヘスはそれら技術者ではありません。また、アウシュヴィッツ収容所は「1時間に2,000人を殺害できる殺戮マシーン」ではありませんでした。細かい話はさておき、それなら、1日あたりで、$${2,000人 × 24時間 = 48,000人/日}$$も処理できたことになってしまいます。しかし、殺した後の遺体処理である火葬能力には限界があったため、1日あたりせいぜい$${10,000人}$$が限界でした。さらに、「110万人のユダヤ人」とありますが、これはよくある間違いで、110万人の犠牲者数の推計を行ったフランチシェク・ピーパーによれば、110万人はユダヤ人以外も含めた犠牲者数の合計であり、うち、ユダヤ人は96万人程度とされています。
40年近く、彼女は自分の過去を人目に触れさせず、調べもせず、親しい家族にも自分の話をしなかった。
1930年代にベルリンから逃亡したドイツ系ユダヤ人である私の大叔父、ハンス・アレクサンダーが、戦後どのようにしてヘスを捕らえたかを書いた本『ハンスとルドルフ』の取材中に、彼女が住んでいた場所を知ったのだ。彼女を見つけるのに3年かかった。結婚相手の名前も、身元を明かすような内容も一切明かさないという条件でのみ、彼女はインタビューに応じた。
「クレイジーな人たちがいるのよ。私の家を燃やしたり、誰かを撃ったりするかもしれないの」と、太いドイツ訛りで彼女は言う。
ホロコーストの話題が出れば、彼女は会話を別の方向に誘導する。「パパのことを聞かれたら」、彼女は言う、「私は彼らに、彼は戦争で死んだと言うわ」
しかし、彼女は80歳になったばかりで、孫たちに自分の話をする時期なのだろうかと悩んでいる。彼女は、自分にはほとんど理解できない、ましてや責任も持てないような歴史的な壮大な力に巻き込まれた少女だった。今こそ彼女の家族史を処理する時なのだろうか? 彼女が生涯抱えてきた発見の恐怖を受け継ぐのか? それとも墓場まで持っていくのか?
「ずいぶん昔のことですから」と彼女は言う。「私はされたことをしていない。そのことは決して口にしない――それは私の中にだけあるもの。私の心に残っている」
SSの人事記録によると――カレッジパークの国立公文書館所蔵――インゲ=ブリジット・ヘスは1933年8月18日、バルト海近くの農場で生まれた。彼女の父ルドルフと母ヘートヴィヒはこの農場で出会った。この農場は、人種的純潔と田園ユートピアの思想に取りつかれたドイツの若者たちの隠れ家だった。ブリジットは5人兄弟の3番目で、3人の女の子と2人の男の子だった。
ブリジットは特別な子供時代を過ごした、父親がナチス親衛隊の階級を上げるにつれて、農場を転々とし、強制収容所を転々とした:ダッハウでは1歳から5歳まで、ザクセンハウゼンでは5歳から7歳まで、そしておそらく最も悪名高い死の収容所であるアウシュビッツでは7歳から11歳まで。
1940年から1944年まで、ヘス一家はアウシュヴィッツのはずれにある灰色の漆喰の2階建ての別荘に住んでいた――二階の窓から囚人棟と古い火葬場が見えるほど近かった。ブリジットの母親は、この場所を「パラダイス」と表現した:コック、乳母、庭師、運転手、お針子、散髪屋、掃除屋がおり、中には囚人もいた。
一家は、ガス室行きの囚人から盗んだ家具や美術品で家を飾った。恐怖と苦悩からほんの少し離れた場所で、贅沢な生活を送っていたのだ。たいていの日曜日は、厩舎にいる馬を見に行くために指揮官が子供たちを連れて行った。子供たちは犬小屋を訪れ、ドイツ・シェパードを撫でるのが大好きだった。
写真には、庭の池とピクニック用の大きなテーブルが写っている。囚人たちは少年たちのために、座って庭を押し回せる大きさの巨大なおもちゃの飛行機を作った。女の子たちは、収容所の入り口を守るハンサムな兵士たちといちゃつくのが好きだった。
子供たちは父親が収容所を運営していることを知っていた。黒と白の縞模様の制服を着た男たちが庭で働いていた。ヘス家の子供たちが囚人に扮し、黒い三角形と黄色い星をシャツにつけ、父親がそれを見てゲームをやめるように言うまで追いかけっこをしたこともあった。
1945年4月、終戦が目前に迫ったとき、ルドルフ・ヘスとその家族は北へ逃れた。彼らは別れた。妻は子供たちを連れて、海岸近くの村、ザンクト・ミカエルスドンの古い製糖工場の上に避難した。司令官は労働者になりすまし、デンマーク国境から4マイル離れた農場に身を隠した。ヘス一家は南米に逃れるタイミングを待った。
私たちは彼女の家の脇にある小さくて暗い書斎に座った。ブリジットは古いソファに横たわり、足が痛いと訴えている。私はクリスマスツリーの横のふっくらとしたラブシートに座り、そこには彼女の母、司令官の妻ヘートヴィヒが編んだ星が吊るされている。
私はまず、彼女がアウシュビッツの隣に住んでいた時のことを尋ねる。「そういうことは思い出さない方がいいわ」とブリジットは言う。
彼女は、英国が父親を捕らえたときのことをもっと話したがっている。1946年3月のある寒い夜、私の大叔父であるハンス・アレクサンダー(ドイツ生まれのユダヤ人だが、当時は英国大尉だった)が家のドアを叩いた。
「家に質問に来たときのことを覚えているわ」と彼女は声を荒げた。「私は妹とテーブルの上に座っていたの。私は13歳くらいだったかしら。イギリス兵が叫んでいたわ:「お父さんはどこにいるの?」と何度も何度も。ひどい頭痛がしたの。外に出て、木の下で泣いたわ。自分を落ち着かせた。泣くのをやめたら、頭痛が治まったわ。でも、その後何年も片頭痛に悩まされているの。この偏頭痛は数年前に止まっていたのだけど、この手紙を受け取ってからまた始まったわ」
話は続く。「兄のクラウスは母と一緒に連れて行かれたの。彼はイギリス人にひどく殴られたわ。母は、隣の部屋から彼が苦痛に悲鳴を上げるのを聞いたの。普通の母親と同じように、息子を守りたかったから、父の居場所を教えたの」
アレクサンダーはチームを編成し、夜のうちに納屋に向かった。ヘスが目を覚ました。彼は自分が司令官であることを否定した。アレクサンダーは、自分の部下を捕まえたと確信し、結婚指輪を見せろと要求した。ヘスが指輪が抜けなくなっていると主張すると、アレクサンダーは司令官が指輪を渡すまで指を切り落とすと脅した。中には「ルドルフ」と「ヘートヴィヒ」と刻まれていた。
この司令官は、アウシュビッツでの虐殺の程度を認めた最初の幹部だった。彼はアメリカに引き渡され、ニュルンベルクで証言させられた。その後、ヘスはポーランド人に引き渡され、ポーランド人は彼を起訴し、アウシュヴィッツの火葬場の隣にある絞首台に吊るした。
ヘートヴィヒと子供たちは、なんとかしのいでいた。彼らは家を暖めるために列車から石炭を盗んだ。靴を履かず、ボロ布を足に巻いた。ナチス政権とつながりのある家族として、彼らは敬遠された。クラウスがシュトゥットガルトで仕事を見つけてから、一家の運命は好転した。
1950年代、ブリジットはドイツを離れ、スペインで新しい生活を始めた。金髪のロングヘア、スレンダーな体型、そして「私をバカにしないで」という態度が印象的な若い女性だった。新進気鋭のファッションブランド、バレンシアガで3年間モデルを務めた。そして彼女は、マドリッドでワシントンの通信会社に勤めるアイルランド系アメリカ人のエンジニアと知り合った。
夫妻は1961年に結婚。娘と息子をもうけた。仕事の関係でリベリア、ギリシャ、イラン、ベトナムに行った。
そのエンジニアによれば、ブリジットは交際中に父親とアウシュビッツでの生活について話したという。「「最初は少しショックだった」と彼は言う。「でも、彼女と話し合っていくうちに、彼女も被害者なんだと気づいたんだ。こんなことが起こっている間、彼女はまだ子供だった。彼女はすべてを持っていたのに、何も持たなくなってしまった」
彼女の家庭環境については話さないという「暗黙の了解」があったという。彼は彼女に言ったことを覚えている:「恐ろしいことだった――これ以上はやめよう。人生をやり直し、幸せに暮らし、すべてを捨て去ろう。あなたの責任ではない。お父さんの罪を背負う理由なんてないんだから」
1972年、彼らはワシントンに移り住んだ。ブリジットの夫は運送会社の上級職に就き、二人はジョージタウンに家を買った。ブリジットにとっては再出発のチャンスだった。
ブリジットは奮闘した――小切手の書き方も知らず、英語もほとんど話せず、友人も家族もいなかった。いろいろ探した結果、彼女はファッション・ブティックでのアルバイトを見つけた。
ある日、背の低いユダヤ人女性がブティックを訪れた。彼女はブリジットのスタイルを気に入り、ディストリクトにある自分のファッション・サロンで働かないかと誘った。
雇われて間もなく、ブリジットはマネージャーと酒に酔い、父親がルドルフ・ヘスであることを告白したという。マネージャーは店のオーナーに言った。オーナーはブリジットに、彼女自身は犯罪を犯していないのだから、ここにいてもいいと言った。ブリジットは、少なくとも後になるまで知らなかったことだが、店のオーナーと彼女の夫である共同経営者がユダヤ人であり、彼は1938年の水晶の夜の攻撃の後、ナチス・ドイツから逃れてきたのだった。
ブリジットは父親の娘としてではなく、一人の人間として見てもらえたことに感謝していた。彼女はこの店で35年間働き、上院議員や下院議員の妻など、著名なワシントン市民にサービスを提供した。
オーナーはブリジットの忠誠心と勤勉さに報いるため、彼女の秘密を守り続けた。一人のマネージャーを除いて、他のスタッフは誰もブリジットの家族構成について知らなかった。
ブリジットが数年前に引退した後、店のオーナーは彼女がどうしているか毎月電話で尋ねてきた。「彼女はとてもいい人だ」ブリジットは言う。それから1年ほど前、彼女は電話をかけてこなくなった。ブリジットはオーナーがイスラエルを訪れたことがあることを知っていた、長い年月を経て、怒りがこみ上げてきた。「人は変わるものです」と彼女は言った。
ルドルフ・ヘスの娘がヴァージニア北部に住んでいることは、秘密にされている家族の物語だけではない。1960年代から、ヘートヴィヒは数年おきにワシントンの娘を訪ねていた。
この頃までに、ヘートヴィヒはシュトゥットガルト近郊の小さな家に移り住み、そこで娘の一人と暮らしていた。他のドイツ兵の未亡人とは異なり、彼女には公的年金は支給されず、政府からの収入もなかった。
ヘートヴィヒはアウシュヴィッツで重要な役割を果たし、1965年にはフランクフルトのアウシュヴィッツ裁判に証人として出廷しているが、ナチス戦犯の配偶者に対する渡航制限はなかった。ワシントンにいる間、ヘートヴィヒは娘が働いている間、孫たちを見て過ごした。昔のことは話さなかった。
ヘートヴィヒの最後の訪問は1989年9月だった。彼女は81歳で、体が弱かった。飛行機でドイツに戻る予定だったが、娘には寒すぎるからもっとここにいたいと言っていた。9月15日の夕食後、ヘートヴィヒは疲れたと言ってベッドに向かった。翌日、ブリジットが母の家のドアをノックした。ヘートヴィヒは眠ったまま死んでいた。
ブリジットは地元の火葬場を見つけて遺体を処理した。彼女は母の遺骨を誰にも見つけて欲しくなかった――とりわけ、ネオナチが敬意を表してくるかもしれない――ので、墓地の管理者に母の名前を修正したものを渡した。彼女はドイツからの親族が参列できるよう、追悼式を遅らせた。
1990年3月3日午前11時、母親の誕生日に合わせて、宗派を超えた墓地の小さな石の回廊で短い礼拝が行われた。祈りが捧げられ、骨壷が埋葬された。
ヘートヴィヒが最後に眠る場所は、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒の墓の中だった。
ブリジットの生活は今や医者と病院と薬でいっぱいだ。夫とは1983年に離婚。夫はその後2度結婚し、フロリダに住んでいる。
彼女の息子は彼女と同居している。彼は祖父のことは知っているが、自分の家族の歴史を調べることにはあまり興味を示さない。娘は亡くなった。ブリジットには孫たちがよく訪ねてくる。
年に一度、フロリダに飛び、ドイツからやってきた姉のアンネグレットと過ごす。クラウスは1980年代にオーストラリアで亡くなった。もう一人の兄、ハンス・ユルゲンと姉のハイデトラウトはともにドイツに住んでいる。
まるでルドルフ・ヘスが処刑された1947年から彼らの歴史が始まったかのようだ。
ブリジットの甥で、ハンス・ユルゲンの息子であるライナー・ヘスは、過去について質問してきた唯一の家族である。2009年、私は彼とアウシュビッツを訪れた。ある時、彼は私に向かって平然と言った。「祖父がどこに埋葬されているか知っていたら、彼の墓に小便をかけてやるのに」と。
ブリジットは離婚後も夫の姓を名乗った。彼女は友人には過去を語らず、他のドイツ人家族とは距離を置き、家族にも自分の生い立ちを語らない。
彼女は孫たちに父親のことを話していない(ただし、元夫はヘスの自伝を上の2人に渡したと語っている)。彼女は「彼らを動揺させたくないの」と言い、彼らが人に話すかもしれないことを心配している。「私はまだワシントンで怯えている、」と彼女は言う。「多くのユダヤ人が、いまだにドイツ人を憎んでいるのよ。それは決して終わらないわ」
それでも彼女は、自分の物語を家族に伝えようと考えている。「あなたの本を読んだら、いずれそうするつもりだわ」と私に告げた。
おそらく、過去を非公開にした結果のひとつは、それが十分に検証されないままになっていることだろう。ブリジットは国立ホロコースト博物館を訪れたことがないと言う。そして、過去の恐怖を思い起こさせる博物館の価値を理解しながらも、それはワシントンではなくアウシュビッツかイスラエルにあるべきだと言う。「彼らはいつも物事を実際よりも悪くするのよ」彼女は言う。「とてもひどくて、耐えられないわ」
彼女は残虐行為が行われたこと、ユダヤ人やその他の人々が収容所で殺害されたことは否定しないが、何百万人もが殺されたことには疑問を呈している。「これだけ多くの人が殺されたのに、どうしてこれほど多くの生存者がいるのでしょう?」と彼女は問いかける。
私が、彼女の父親が100万人以上のユダヤ人の死に責任があると自白したことを指摘すると、彼女は、イギリス人は「拷問で彼を自白させたのよ」と言うのだった。
「お父さんのことはどんな風に覚えていますか?」と私は尋ねた。
「「彼は世界で一番素敵な人でした」と彼女は言う。「彼は私たちにとてもよくしてくれました」一緒に食事をしたり、庭で遊んだり、ヘンゼルとグレーテルの物語を読んだりしたことを覚えている、と。
ブリジットは、父親が繊細な人で、何か悪いことに巻き込まれているのではないかと推測していたのだと確信する。「彼は内心悲しかったでしょうね」と彼女は振り返る。「それはただの感情よ。家にいるときも、私たちと一緒にいるときも、仕事から帰ってくると悲しそうな顔をすることがあったわ」
ブリジットは父親の二面性を納得させるのに苦労する。「彼には2つの面があったに違いない。私が知っている父と、もう一人の父...」
もし彼が死者を出したのなら、どうして彼は「世界一いい人」でいられるのかと私が尋ねると、彼女はこう言った。「彼の家族は脅されていた。彼がやらなければ、私たちも脅されていた。彼はSSにいた大勢の一人です。彼がやらなければ、他にもやる人がいたのです」
長いインタビューの後、ブリジットが自宅を案内してくれた。2階で、彼女はベッドの上の写真を指差した。
1929年に撮影された、彼女の母親と父親の結婚式の写真だ。若々しく、幸せそうで、屈託がない。母親は白いフロック姿で髪を結い上げ、父親は七分丈のズボンに薄手のシャツを着ている。
80歳のブリジットは、最愛の父ルドルフ・ヘスに見守られながら毎晩眠っている。
その後しばらくして、私はサロンのオーナーの息子に電話をした。彼の母がブリジットに電話をかけなくなったのは、単に年をとって電話をかけることができなくなったからだと彼は言う。「我が家はブリジットを昔から変わらず大切に思っています」と彼は言う。
彼女の父親が、自分たちの家族をドイツから追い出したナチス指導部の幹部だったことを知っていたにもかかわらず、なぜ両親は彼女を雇うことにしたのかと尋ねると、彼は「人間性」のためだと答えた。
彼の両親は、彼女を父親とは別の一人の人間として見ていた。「「一方は他方とは何の関係もない。彼女は人間だ」と彼は言う。「彼女は父親に責任はない」
両親の決断を振り返り、「両親の息子であることを誇りに思います」と彼は言う。
トーマス・ハーディングは『Hanns and Rudolf:The True Story of German Jew Who Tracked Down and Caught the Kommandant of Auschwitz" (サイモン&シュスター・ハードカバー、2013年9月)の著者。この記事に関するコメントは、wpmagazine@washpost.com。
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