講話活動20年目にして思う
自分が要らなくなる社会
講演講話に招かれます話し手などと言うものは、その場では…
『よく来てくださいました』『ありがとうございます』
という風には、一応、どなた様からも感謝をいただいたりはしますけれど…
なかなか、お話をしたその後の、その成果というものが、どうしても見えてこないお仕事であります。
『これまでに自分のしてきた講話が、一体どれだけ人様のお役に立ったものであろうか』
とは、私もしばしば悩むところですが…
よく考えてみれば、『役に立つか立たぬか』というのは…
私に講話を依頼した主催者さんや、会場で講話を聞いて下さるお客様が考えて決めること。
私があれこれ考えても仕方のないことなのであります。
私に出来ること唯一のことは、これまでに蓄えた自分の経験、体験の中から、皆さんにお話をしていくことだけ。より良い講話を届けていくことだけなのです。
私に話し手としての価値が無くなれば、依頼が無くなるというだけの話です。
福祉に関わる講演講話を初めて行ってからもう20年…。
相も変わらず今もって私に依頼が来るということはすなわち、私が必要とされる場が、まだまだ地域にあるということの証です。
それに…私が最後に目指すところは、
私の講話でよくする話題…
『全ての人が、他人との関わりと助け合いがなくば生きられない』
『全ての人が、自分と、周りとの関わりに感謝すべきである』
そして
『感謝には、大人も子どもも、障害者も健常者も関係ない』
⬆という話が…世の中の『当たり前』になってくれることなのです。
私自身が周りから
『凄いですね』『ご立派ですね』
と、わざわざ言われることが無くなる社会。
『お前の話はつまらない』『お前の話なんかもうみんな当たり前じゃね?』
と、お払い箱になる社会が私の目標です。
まだ私に依頼が来るってことは…
技術が進んで高度に情報のやり取りができるようになっても、人と人との気持ちの繋がりが希薄になり、互いにきちんとリスペクトしていない社会が続いている、ということなのかもしれません。
ただ単に『きちんと喋れる障害者』というものが…地域の中で数が少ないために、物珍しいだけかも知れませんけど…
なんとか身体と心が健在であるうちは、できる仕事は続けたいと思います。
でも…発展的、前向きな意味で、私なんぞの話し手が必要とされない社会というものも…私が生きているうちに到来して欲しいな、とも思っています。
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