痛快な一言
最近あった学校訪問のやり取りにてのご紹介になります。
この時に訪問したのは、八王子市内でも比較的新興の住宅地……
平成に入ってから整えられた地域への訪問でした。八王子市内の中心…旧市街地となると、創立50年や60年どころか、探せば100年越えの学校さんもチラホラあるため…
街並みとしては『まだ若い風景』と言ってしまっていいのかも知れません。
今回の学校さんへは、通算4度目くらいの訪問でした。
コロナ過の最初期にも1度お招きにあずかりましたが、あれから急速な感染拡大など色々あって、前回から3年ほども間が空いてしまいました。
今回のお相手も、前回、さらにその前から変わらず小学四年生のお子さんたちでした。
担任の先生も、前回から転任なく同じ先生で、私のことをよく覚えてくださっていました。
のみならず、前任地の学校さんでも私を快く受け入れてくださった先生で…
『mitsuguさんなら、安心ですから』
と仰ってくださいました。
とかく、訪問先の学校さんでは…あからさまに除け者にされたりするようなことまではないものの…
『来客』という名の異物として扱われがちでありまして…
『敬されるも遠ざけられる』
と言いますか…一見して慇懃ではあっても、講話者たる私への理解も共感もしていただけていないような…
先生がたと私との間に、言い知れぬ隔たりを感じてしまうものなのですが…
過去何度かの講話を、すでに間近に見ていただいている先生に御一緒していただけるのは、とても心強いことでした。
いつものように、障害の有無に関係なく
『他の人との繋がりを大切に』
『周りの人に感謝を』
『周りに助けてもらいながら、自分も周りを助けること』
などなどの事柄についてお話をしたあと、子どもさんからの質問を受けることに。
いくつかの質問に答える中で、今回1番印象に残ったのが…
『mitsuguさんは、人に優しくしましょう。と言ってくれました。その通りだと思います。でもなぜ、私たちの〇〇小学校は、車いすのmitsuguさんが動きやすいようになっていないのですか?』
という、一人の女の子さんからの問いかけでありました。
私は内心、よくそこに気がついてくれた。よくぞ言葉にしてくれた。という気持ちが溢れてきましたが…表面上は努めて冷静を保つよう心がけました。
《私のような車いすの人が、皆さんの学校に通って来ることがとても少ないから、学校の中の段差や階段がそのままになってしまっているんですよね。
使う人のいない所を直すと、お金がもったいないですからね》
と応じる私。先生の顔色は…真っ青を通り越して、もはや真っ白くなってました。
この、質問者の女の子さんと私とのやり取りが…学校現場のタブーに触れたことを、先生は敏感に感じ取っていたようでした。
『もうひとつ気になりました。私たちの学校には、どうして車いすの子や障害のある子がいないんですか?
障害のある先生や車いすの先生がいないんですか?』
さらにその子が畳み掛けてきます。
私も、ただ脱帽するばかりでした。
(すごいなこの子。自力で考えてその質問を思いついたか。はたまた、誰か身内にこっちの筋(障害者)の人がいるのかな)
私が、件の女の子の質問に感心しながら、どのように返事をしようかと考えていると…先生は水から上がった魚のように虚ろな目をして、先にこう言いました。
『障害のある子は障害のある子が通う学校にいるんだよ…』
あ〜先生、語尾に力がありませんよ。
えー、どうして❓
先生の言葉を聞いて、他の子からも疑問の声があがります。
『どうして、障害のある人と障害のない人が別のところに通わないといけないの?』
『みんなでお手伝いすればいいよね』
『転校する前の学校には、エレベーターあったよ。この学校にはどうしてエレベーターないの❓』
口々に疑問を突きつける子どもさんたち。
その通りだ。その通りなんだが…
もうやめてあげて。先生のタマシイはもう死んでいるからね。
すでに力尽きた様子の先生に代わり、私が返事をします。
《先生の仰った通り。障害のある子には障害のある子のための学校があります。
でもね。障害のある子が、みなさんと同じ普通の学校に通いたいと言ったり、障害のある子のお父さんお母さんが、自分の子どもを普通の学校に通わせたいと言った時には、それを止める決まりはないんです。
どんな人も、どこの学校に通うか…というのは、自由に選んでいいんですよ》
『じゃあどうしてこの学校には、mitsuguさんみたいに車いすの子どもがいないの?』
また別の男の子が問いかけてきます。
《実際に車いすの人が普通の学校に通うと、大変なことがたくさんあるからでしょうね。
エレベーターがついてなくて階段だけだったり、車いす用のトイレがついてなかったり、地震や火事の時に逃げられないから、余所の学校へ行きましょう。と言われちゃうこともありますからね》
『おかしいよ。一緒でいいじゃん』
また何人かの子が騒ぎ始めました。本当にその通りだね。
私としては…教育委員会の方針が。とか、学校現場の対応が。という言葉が口から飛び出しそうになっていましたが、寸前でグッと飲み込みました。
現時点、この学校はこの子たちの居場所、かけがえのない場所です。
部外者であり講師の私が、彼ら彼女らの居場所である学校を否定してしまったら、
この子たちは次の日からどんな気持ちでこの学校に来なくてはいけなくなるでしょうか。
そこで、
《そうですね。私も…どんな子どもさんも同じ学校に通えるといいと思います。
でも、学校だけ、先生だけの力では、難しい問題がたくさんあるんです。
もっとたくさんの人の力を借りて、何年か後には、今よりもっといい学校に変わって行くといいですよね》
と、なるべく前向きな言葉でお返事しました。
月曜日に訪問した学校さんでは、
『一緒がいいよ』
『なんかあったら手伝うよ』
と言ってくれる子がたくさんいましたが…
実際、障害児と健常児が同じ場で学ぶとなると、お題目のようなキレイゴトでは済まないことも起こるでしょう。互いの誤解や摩擦、衝突もあると思います。
しかし、誤解、摩擦、衝突が起きるのは、健常児同士や障害児同士であっても、やはり同じことなのです。
であれば、障害児と健常児の間に起こるトラブルも、日常に『当たり前のこと』として受容する雰囲気を、学校の中に作ってしまったほうが良いと思います。
なまじ分け隔ててしまうから、双方が出会った時にオタオタするのです。