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良いも悪いも縁次第

私自身の身体に生まれつきの障害があり、普通校と支援学校の両方に通った経験があるからでしょうか…。
私の親と同じように、障害のあるお子さんを育てておられる親御さん。
それも…小学校入学前の、まだ小さなお子さんをお持ちのご両親から…
『将来ウチの子は、どっちの学校に通わせたらいいですか?』
という御相談を受けたことが、過去に何回かありました。
私は特に、相談支援を仕事にしてる訳じゃありませんし、その仕事のための公の資格があるわけでも、専門性を備えてる訳でもありません。
ただのいち障害当事者に過ぎません。
なので…あくまでも、雑談の延長…個人的な見解のひとつとして、こんなふうにお返事させていただきました。

●大事なのは『どっちの学校に入れるか』ではない。

私が学生であった頃は、もう随分昔のことですし、世相も環境も異なります。
何よりも…お子さんそれぞれ…一人ひとりの障害が異なれば、ふさわしい対応も異なります。
万事に対応する答え…絶対の正解は無いのですが…
とりあえず私のお答えとしては、『どちらに通おうと、足りないものはある』
と思っています。
普通校では、障害のない子と同じように、同じことができるように、と要求されてしまいます。
支援学校では、どれだけ障害のない子に近いことができるか、どれだけ、先生を煩わせないか…で評価されがちになります。
結果、障害の重い子、手厚いケアが必要な子ほど…『気の毒な子』『かわいそうな子』として見てしまう親御さんや先生は多いと思います。
障害があるからこそ、支援が得られる学校に通っているのに、
どんな障害があるかは、その子の選択や決定とは関係ないのに
結局は『どれだけ健常者に近いか』で優劣を決める空気が作られます。
また普通校に通っていても
『みんなと同じように過ごしましょう』
ということが要求されます。
これはつまり
違いがあっても同じ場所にいる、という『機会の平等』ではなくて、一定のパフォーマンスに達せないものは切り捨てる、という『結果の平等』に他なりません。
普通校にせよ、支援学校にせよ…この『結果の平等』という意識が優勢であるならば、どっちの学校に通わせるにしても、わざわざ選ぶ意味はない…と私は考えます。
お子さんを学校に通わせる際、一番大事になるのは、『普通校』『支援学校』という入れ物を選ぶことではない。と思います。
それより大事なのは『入れ物の中身』…
つまり、どんな出会いがあるか、なのであります。
普通校に通った場合でも、いい先生、いい友だちに出会えたならば…困難があり不便があっても、幸せで意義ある学校生活が送れることでしょう。
手厚いケアがあるという支援学校でも、お子さんとウマの合う友だちがいなかったり、障害理解に対して知識も意欲もない、ロクデナシの先生に当たることはあります。
どんな先生、どんな友だちに出会えるか、という重要なことが…入学後にやっとわかる…ほとんどバクチであることを考えるなら…
『ウチの子をどっちの学校に入れようか』
と悩む親御さんの姿は、私から見たら滑稽…と言ってしまうと失礼ですが…正直な感覚として、悩んでも仕方のないことのように感じてしまうのです。

しかし、内心の感想とは別に…
目の前の親御さんお悩みに対する答え…一応の結論としては…普通校に入れてあげてください。とお伝えしました。
それもできれば…普通校の中の特別支援学級ではなく、障害のない子と同じ教室に。
この社会は、障害のない人たちが多勢で優位であり、障害者はどうしても、少数で苦戦を強いられます。
全員が全員、理解者や支援者ではありません。
『どっちの学校に入れたらいいか』の選択に関わらず、将来その子が出ていく社会は『健常者だらけ』の社会なのです。
支援者の人たちや理解者の人たちも、ほぼだいたいが、みんな障害のない健常者です。
だからこそ障害のある私たちは、小さいころから厳しく、困難が多い環境に慣れておく必要があるわけです。
また、障害のない人たち…先生や同級生にとっても、身近に障害のあるお子さんがいることで
『どんな配慮が必要なのか』『どんな生活をしているのか』と…
障害のある人のことを学び知るきっかけになると思うのです。
もちろん、トラブルも起きるでしょう。
障害のない人からすれば『障害者は自分の権利ばかり主張する』と見えるでしょうし
障害のある人からすれば、『要求される基準が高い』
と思われるかも知れません。
人間同士のトラブルは、どこにいたって、誰といたって起こるものです。であるなら、
『トラブルが起きないように』と考えるより、『起きたトラブルをどうするか』を考える方が意義が大きいと考えます。
健常者同士、障害者同士で分けられていても、トラブルは起きます。
トラブルが起きないことが通常なのではなく、トラブルが起きることが当たり前なのです。
障害者だけ、健常者だけの環境では、
『基準に外れた異なる人』は…
その場にいないものとして扱われてしまいます。
多様な人が雑多に過ごすのが社会の本質であるなら、障害のあるお子さんだからといって、分け隔てられた場所で、静かにじっとしていてはいけないと思います。
悪しき出会いが日常であり、不本意な扱いが当たり前であるからこそ…
より良い隣人、より良い友人を…
決して、たまたまあてがわれるのでなく、自らの判断で、探して選んでいかなければなりません。
大事なのは
『どこに居るか』ではなく『誰と出会うか』
という事だと思うのです。

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