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第二章 今の私ができ始めた頃~1970年代後半~(3)

運命の78年

そして、明けて1978年。私がようやく10歳になった年だ。先に触れたように前半で推理ものにはまった年だが、実は他にもいろいろやっていた。今回、本書を綴るにあたって記憶を整理した結果判明したことだが、今考えると、よくもまあこれだけいろんなことに同時期に並行して手を出していたものだと、我ながら呆れる。同時期にはまっていたという記憶がなく、それぞれに熱中した記憶が別の流れとして残っていたので、その実感が湧かないのだ。

その筆頭が、テレビの深夜枠の映画放送。これについては、電子書籍などで自主出版した『あの頃、テレビが僕らの名画座だった~土曜深夜の映画課外授業~』(Amazon)にまとめているのでごく簡単に触れておくと、私が物心ついた頃にはすでに、RKKで土曜の深夜に映画を放送する枠があった。ちょうどこの頃は、当時は熊本に系列局がなかったため同時ネットできなかった『水曜ロードショー』(現・金曜ロードショー)での放映作品を数ヶ月遅れで放送していて、番組名も『土曜ロードショー』だった(ただし、次第に『水曜』で放送されたものではない作品や邦画も挟んでいくようになっていた)。やはり父が毎週のように見ていたせいか、私もこの枠の存在だけは認識していたが、前述の通り夜更かしは苦手だったので、ちゃんと見たことはなかった。最初に挑戦したのが77年秋に2週に分けて放送された『華麗なる一族』(1974)だった。これもなぜ見ようと思ったのか思い出せないのだが、『タワーリング―』の影響で、パニック要素はなくとも「オールスターキャストの長編大作」という部分に反応したのかも知れない。しかし、結局これも寝落ち。この枠で初めて最後まで見たのが、まさに78年の1月中旬に放送された『吸血の群れ』(1972)だったのが、実に私らしい。そしてその2週間後に放送された、石原裕次郎主演の『夜霧よ今夜も有難う』(1967)も。10歳の誕生日を前にいきなり夜更かしのクセがついたかと思ったが、その後数年間は「途中まで見て寝落ち」のパターンを繰り返すことになる。ちなみに、同番組はこの年の4月からタイトルを『土曜招待席』に変更、時代が平成に変わった1989年の秋までの11年半にわたって、放送する映画の系統をさまざまに変えながら続いた(同局の深夜映画枠はさまざまな変遷を経ているのだが、かなり話が長くてややこしくなるので、ここでは割愛する)。ともあれ、私が土曜の深夜に映画で夜更かしをし始めたのは前述の「一人だけ推理ブーム」が始まった頃であり、直後に私は十代に突入した時期でもある。何か、混乱と迷走の中で次のステップへと成長を遂げた、といった感じだ。

さらに、先ほども書いた通り、推理ブームによって私は「書くこと」の魅力に目覚めたのだが、結果的にはその火に油を注ぐことになることがあった。前年にTBSの「水曜劇場」で放送されたドラマ『ムー』の続編『ムー一族』がこの年の5月から放送を開始した。伝説の演出家・久世光彦の奇抜な演出、時に他局の関係者も含めた豪華なゲスト、そして実質的な主役の郷ひろみと脇役の樹木希林がデュエットで歌う「林檎殺人事件」が大ヒットしたりを様々な話題を振りまいたドラマだった。何と、その放送中のドラマの台本を(確か)TBS(か、その委託を受けた外部の会社)が販売するという企画が実施され、私も数話分購入した(このことを知った経緯や販売の詳細については不明)。テレビっ子だったゆえ、単にテレビドラマの台本の実物を見てみたかったというのが理由だったのだろうが、これが当時の「書きたい欲求」と融合、さらに後述する理由で、最終的にはシナリオまで書き始めることになる(当然、こちらも小説と同様に数年でやめたが)。その際に、脚本の書き方のベースとして参考にしたのが、この『ムー一族』だった。同作は、劇団黒テントの山元清多や「山県あきら」のペンネームを用いた樹木など複数のライターが脚本を手がけているが、私が購入した脚本の作者が誰だったのかは、実物が行方不明になった今では分からない。ただ、先に触れたような状況で脚本を書いたわけだから、そのライター陣の誰かが、私の「脚本の師匠」だったことになる(すぐにやめたけど)。もしかすると、それは樹木希林だったかも知れない―――と考えると、ちょっと面白い。

「財前五郎=田宮二郎」原理主義

そこからが、先ほど書いた推理ブームの本格化に入るわけだが、その頃に始まったドラマ版『白い巨塔』も毎週欠かさず見ていた。これは『Gメン』の真裏に放送されたのだが、3年以上見続けていた『Gメン』を裏切ってまでこちらを見ていたことになる(フジテレビの番組だったので、熊本ではTKUで放送された)。

これもまた、なぜ見ようと思ったのか、見ていてちゃんと意味を理解できていたのか、まったく覚えていない。ただ、このドラマ版の放送開始の半月前、その“裏”の局であるRKKで、映画版の『白い巨塔』(1966)が2週に分けて放送された。他局の新番組に便乗したのか?しかも、田宮は映画版に続いての財前役である。視聴者はイヤでも「今度の新作ドラマ版」を連想したはずだ。しかし、TKUにとって「いい宣伝」になっただけのような気もするが…。私は、なぜかこの時もこれを見ようとして寝落ちしてしまった。その約半年前の『華麗なる一族』の時の二の舞だったわけだが、もちろんこの頃が両作が同じ監督の作品であることなど意識もしていなかったし、山本薩夫の名前を知る由もなかった。しかし、今思うと、私にとっての山本との不思議な縁は、結果的に「無意識のこだわり」のような状態になってしまったこの二本から始まったのかも知れない。

話を戻すと、このドラマ版は内容にも惹きつけられたが、やはりどうしても、今や“伝説”となった、象徴的なその「終わり方」の衝撃が忘れられない。最終回が近くなった78年の12月末に、主人公の財前五郎を演じた田宮二郎が43歳の若さで散弾銃で自殺したのは、子供心にもかなりショックだった。最終回の劇中で財前も死んでしまうため、ドラマと現実が交錯することになったのだ。

そもそも私にとって田宮二郎と言えば、モートルの貞(『悪名』)でも鴨井大介(『犬』シリーズ)でも、『黒』シリーズの主人公でもなく、『クイズタイムショック』の司会だった。オープニングのタイトルコールのカッコ良さ、クイズが始まってからのソフトな雰囲気。あれを見て育ったのに、それとは正反対の、悪人に近いとすら言える財前役を見ても、なぜか違和感がなかった。「そもそも俳優だから」と割り切って見ていたわけでもないが、財前が単純な善悪の分類を越えたキャラであることが、子供心に理解できていたのかも知れない。

後年、唐沢寿明、岡田准一、そして単発のスペシャルドラマだったため認知度が低いが村上弘明など、さまざまな俳優が財前を演じた。それぞれに十分な実力を持った俳優だし、真摯に演じているのは分かったが、私はどうしても田宮以上に財前に向いていた人はいなかったように思えた。思い入れもかなりあるだろうと認めるが、客観的に見ても「田宮=財前」の公式を覆すには至らなかったと思う。その理由は、恐らく“目”だろうと思う。先ほど挙げた三人は、財前の傲慢な切れ者ぶりを表現するためか、常に険しい目つきで財前を演じていた。その力み具合と言うか、ちょっと無理して“悪党”に扮しているような感じがこっちにも伝わってしまい、何だかこっちも力んでしまう。

一方の田宮は、すでに映画版で演じた経験があるという余裕もあるだろうが、その映画版に出演するまでに、「悪の香りが漂う主人公」といった感じの役を数多くこなしていた。クールな切れ者、時に非情な振る舞いも辞さないが、主人公としての魅力にあふれたキャラクター。そして、それらの役をこなしてきた成果が、あの目だったのだろう(さらに言えば、田宮がトラブルから五社協定の悪影響を受けて、映画やドラマなど俳優業を完全に干されるという絶望的な状況を体験したことも、多少なりとも影響している可能性もある)。田宮の財前は、あれほどあからさまに険しい目つきはしていない。ただ、笑顔の時ですら目の奥から“光線”が出ている(ように感じる)のだ。彼の野心や情熱などが入り混じった強烈な意志が、目の奥から常に放射されている。X-メンのサイクロップス状態。いや、そんな風に視聴者に感じさせる。だから、わざわざ目つきを悪くする必要もないのだ。それは、10歳になったばかりの私にすら、財前のキャラを受け容れさせる力を持っていた。

恐らくそれは、どちらが俳優として優れているかとか、そういう次元の問題じゃないのだと思う。田宮が身に着けていた「光線放射能力」が、財前のキャラに奇跡的に合致したのではないか?と思えて仕方がない。無論『タイムショック』ではそんなものを発射する必要がなかったので封印していたのだろうが、(ちょっと極端な言い方かも知れないが)田宮の財前には『タイムショック』の司会で見せたスマートさすら漂っていたように思える。

そもそも、映画版の時は原作よりも田宮の実年齢が若かったことや、原作がまだ完結していない時点での映画化だったことを、田宮がずっと不満に思っていたことから、ドラマ版の主演に執念を燃やしていた、と言われている。結末までのドラマ化、年齢が原作に近くなったという点をクリアした以外にも、田宮が様々な経験で内面もより財前を演じるにふさわしい状態になっていたことが、ドラマ版の成功に結び付いたのかも知れない。だが、私生活での更なるトラブルに加え、財前役にのめり込み過ぎてしまい撮影終了によって「燃え尽きて」しまったことが、結果的に彼を自死へと追い込んでしまったのかも知れない。そう考えると複雑な気持ちにもなるが、だからこそやはり「田宮は財前五郎だった」と思えるのだ。

「怪獣少年」から「怪獣映画少年」へ

しかし、個人的にこの78年が重要な年になったのは、日本特撮関係の様々なアイテムが一気に発売されたからだった。

その皮切りになったのが、朝日ソノラマから発売されていたムック本のシリーズ「ファンタスティック・コレクション」、通称「ファンコレ」だ。主に日本のアニメや特撮作品についてディープに解説した、“大人向き”の書籍の先駆けと言っていいシリーズだ。私が最初にこのシリーズを知って入手したのが、「特撮映像の巨星 ゴジラ」。第1作から当時の時点で最新作だった『メカゴジラの逆襲』までの15作品について、各作品のスタッフやキャスト、製作の裏側、俳優や音楽まで詳しく記述されていた。発売データから推定すると、恐らく『白い巨塔』の放送が始まった前後に、小学1年生でクラスメイトになって以来の友人の福田君から貸してもらい、一気に引き込まれ、自分でも購入した。

それまでは「怪獣大百科」的な「怪獣の本」を読み漁っていたところに現れた「怪獣映画の本」。すっかり“大人向け”のちょうど、決して小学生向けとは言えない横溝正史の小説を集中して読んでいたタイミングで“大人向け”の本に遭遇したことで、吸収力はかなり上がっていたはずである。しかも、この時点で私が観ていたゴジラ映画は、途中で離脱した『ゴジラ対ガイガン』を入れても5本。3分の1である。私が観たことがないゴジラ映画が、まだ10本もあったのだ。まさに未知の世界への旅。この本で、『ゴジラ』シリーズ製作当時の東宝の状況まで窺い知ることができたのだ。

この本の中に、シリーズ関連のレコードをまとめて紹介するページがあった。そこで、何とシリーズの音楽から代表的な楽曲を集めたオムニバス・アルバムが発売されたばかりであることを知ると、私は地元の総合スーパーの中のレコード売り場にそのレコード―――東宝レコードから発売された『ゴジラ』を捜しに行ったが、残念ながら置いてなかった(後になって、福田君が買ったので在庫がなくなっていたことが判明)。ところがその代わりに、数ヶ月後に発売された第2弾『ゴジラ2』の方が置いてあったのだ。意外な展開だったが、とりあえずそちらを買って帰った(そもそも、当時の田舎町のレコード屋にこんなマニアックなレコードが置いてあったこと自体、奇跡的だった)。5本しか観ていない上に音楽もほとんど覚えていなかったので、こちらも未知の世界。ゴジラの主題(おなじみのあの曲ではない。あれは元々1作目の映画自体のテーマ曲であり、自衛隊の出動シーンなど「防衛のモチーフ」だった)が重厚に鳴り響く『モスラ対ゴジラ』(1964)のメイン・タイトルの迫力に圧倒され、この一曲で伊福部音楽の大ファンになった。そして、先ほど定めた基準による私の初めてのサントラ・コレクションは、このアルバムということになる。

その年の夏休み、伯母と一緒に北九州旅行に行ったのだが、その時に小倉のデパートのレコード売り場で1枚目の『ゴジラ』も発見して購入。先述の『ゴジラ対メカゴジラ』の戦闘テーマが収録されていて大興奮したのだが、ラストに入っていた『モスラ対ゴジラ』のエンディング曲の美しさに感動してしまった。この振り幅の広さ!これで伊福部ファン化は決定的になったが、もちろん『ゴジラ対メカゴジラ』をはじめとする佐藤勝の音楽にも魅了された。結局、この二人がその後の私の邦画サントラ収集の二本柱になることになった。

詳しい経緯は忘れたが、私はいつの間にか最初に行った総合スーパーのレコード売り場のお姉さんと数ヶ月のうちに仲良くなり、今考えると恐ろしいことに、小売店用の東宝レコードの商品カタログ(?)を見せてもらった。すると、何とゴジラ映画以外の東宝SFの音楽を集めた「SF映画の世界」というアルバムのシリーズまで出ているではないか。母を拝み倒して、6枚発売されていたうち3枚を、数ヶ月おきに買ってもらった。その後40年以上にわたって続くことになる私の(本格的な)サントラ収集は、初年度からかなり飛ばしていたわけだ。ちなみに、この時点での私のコレクションはすべて東宝レコードという分かりやすさだが、前述の『女王蜂』のEPもこのレーベル。78年だけでかなり売り上げに貢献したし、翌年も何枚か同レーベルのレコード(今考えたら、すべてLP)ことになるが、わずか2年後の1980年には業績不振で業務停止、翌年には親会社の東宝に吸収されたとのこと。しかし、私のサントラ収集のきっかけを作ってくれたレーベルであり、私の中ではいまだに強固な存在感を発している。

「ファンコレ」も、その後『ガメラ』シリーズやテレビの『ウルトラ』シリーズなど様々な作品を扱ったものが発売され、私も結構購入している。自分が好きだった怪獣映画を取っ掛かりにして購入したこれらの書籍やレコードが、私の興味の対象をより広く、よりディープにしたのだ。それまでは単純に楽しんでいた怪獣映画や変身ヒーローものの楽しみ方が明らかに変わってきた。

初心を忘れずに成長した子供たち

この二大アイテムが発売されるに至った背景についても、少し触れておいた方がよさそうだ。それはまさしく私の趣味が迷走していた時期のことで、偶然にも特撮関係の業界の動きと微妙にシンクロしているのだ。

先に触れたように『ゴジラ』シリーズの新作製作は75年に休止に入ったが、実はテレビの方でも、71年に再開していた『ウルトラ』シリーズが『ウルトラマンレオ』の、やはり71年にスタートした『仮面ライダー』シリーズが『仮面ライダーストロンガー』の、それぞれの放送終了をもって休眠期間に入った年だった。代わりに、この年に始まったのが『秘密戦隊ゴレンジャー』を1作目とする「スーパー戦隊シリーズ」だったが、これも77年末をもって一旦終了する。乱暴な言い方をすれば、日本の特撮界は75年から「冬の時代」に入り、78年に入る頃には本格化してしまったのだ。

ただし、この表現はあくまでも“柱作品”に限ったことで、円谷プロも東映も、それらの主力作品で培ったノウハウを活かして、それらとは違ったアプローチで新たな可能性を模索した様々な作品を生み出していた。東映はマーベルから権利を借りて『スパイダーマン』を製作したり、円谷プロは実写とアニメを融合させた『プロレスの星 アステカイザー』や『恐竜大戦争アイゼンボーグ』といったユニークな作りの作品を製作した。それらの実験的な作品を、我々子供たちも面白がって見ていた。だから決して “氷河期”ではなかったし、考えようによっては一種の“黄金時代”だったのかも知れない。

それを象徴するのが、78年の秋から始まった『西遊記』だ。ゴダイゴが歌う主題歌「Monkey Magic」とエンディングの「ガンダーラ」、三蔵法師を美人女優・夏目雅子が演じるという意表を突いたキャスティング(以降の日本のドラマ版『西遊記』の三蔵役を美人やアイドル系の女優が演じるようになったハシリ)、孫悟空役の堺正章以下適役揃いのお供の衆。そして何より、特撮満載だったのが子供たちにも大いにウケた。2期にわたって放送され、特撮は東宝の特撮チームが担当したが、1期には円谷プロも参加していて、両社から特撮の達人たちが参加していた。余談だが、1期と2期の間には沖雅也主演のアクション・コメディ『俺たちは天使だ!』が放送されたのだが、これも毎週欠かさず見ていた。『太陽にほえろ!』のスタッフやキャストが多数参加しながら、雰囲気がまったく違っていたのが面白かったのだろう。主題歌『男達のメロディー』は名曲だ。今でもカラオケで歌える。

話がまた逸れてしまったが、特撮関係各社がそれぞれの“主役”から一旦離れて様々な挑戦を続けていたこの頃は、やはり傍目には“迷走期”に思えたかも知れない。そんな風向きを変えたのが、実はアニメと海外作品だった。74年から放送が始まった『宇宙戦艦ヤマト』は、実は最初は視聴率が振るわず、やはり75年に放送期間を短縮して終了したが、その後再放送で人気を獲得、77年には再編集による劇場版が大ヒットした。この人気を支えたのが、以前なら「まんが映画」を“卒業”していた中高生や社会人だった。この動きは、まさに前項で触れた特撮ファンの特徴とリンクする(ただし、そのためなのか、同じような「子供向け」という偏見が根強かったせいか、特撮とアニメを一緒くたに扱われることがさらに増えた。確かに、両者共に好きだと言うファンも多いが…)。そして、その77年に公開された『スター・ウォーズ』と、続く『未知との遭遇』の空前の大ヒットが、これまたそれまでは“子供向け”と見なされてきたSF映画の地位を向上させることにつながった。それは本国のアメリカだけでなく、日本でも同様だった。しかもそれが、両者の共通項である宇宙ネタよりも、むしろ怪獣やヒーローものを中心とした流れになっていた、という事実は注目に値する。ブームにそのまま便乗したような形だった『惑星大戦争』や『宇宙からのメッセージ』は“本家”並みの爆発的なヒットとまではいかなかったものの、その後の特撮ブームの基礎を作ったという功績を残した。そして、このような動きが、前述の通り78年のファンコレやレコード類の発売につながったのは間違いない。しかも、それらのリリースを陰で支えたのが、60年代後半と70年代前半の二度にわたって訪れた怪獣ブームの中で触れた作品群への愛情を抱き続けたまま成長した「かつての子供たち」だったのだ。その中には、アイテムの作り手にまわった人々も少なくない。同時代を体験した彼らがブームに火を点け、私のように過去のブームをきちんと体験できなかった世代(私は物心ついたのが第二次ブームの後半だったので、片足を突っ込んでいる程度)がそれらのアイテムによって新たなファンとなった。そして、それらの異なる世代のファンが一丸となって、「冬の時代」を一気に終焉させる原動力になったのだ。その中に私も紛れ込んでいたわけだが、結果として自分自身の将来を方向付けることになろうとは、当然ながら夢にも思っていなかった。

(つづく)

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