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「政治のせいにするな」というヒトゴト

「政治のせいにするな」「社会のせいにするな」という言葉を目にすることがあります。

Twitterデモ「#検察庁法改正案に抗議します」も、タイムラインが「政治的な投稿だらけ」になるのを嫌がる人もいたんじゃないか、と思います。

でも、やっぱり言いたい、政治って「生活に直結」しているんだ、って。

確かに、政治に急に「目覚めた」人がたくさん出てきたように感じられて、戸惑った人もいるのかもしれません。
でもまあ、それだけ民衆の不満が噴出した、ということでもあるはずです。
新型コロナウイルスの対応のまずさで、やっとみんな氣付けた、というか。

みんながみんな、「流されている」わけじゃないんだよ。
むしろ、躊躇してその一歩が踏み出せなかった人も、今回のことで「背中を押された」という人もいます。
もちろん、ムリヤリじゃなくて。

国会、初めて見ましたってツイートも結構ありましたよね。

逆に、そういうときに限ってだけ「人の意見に流されたくない」とか言い訳する人の方が、よっぽど「誰かのせい」にしてません?
「流された方が楽」って思っている人は、実際かなりの数まだいるはずで。

関連して、「今回だけは」とか「普段は政治的発言を避けていますが」というような枕詞?に違和感をもった人が多くいました。
その辺はそれぞれ葛藤や、もしかしたら偏見なんかもあったんじゃないか。
また改めて考えてみないと、と思っていますが、今回は一旦置いといて。


確かに、〈ジブンゴト〉を「誰かのせいにしない」というのは、とても大切なことだと思います。
でも、逆に言えば政治や社会を〈ジブンゴト〉として捉えていないってことなのかな、とも思ったり。

今この国では、なぜかリーダーやトップが「責任は私にある」と認めるのに、「責任を取らない」ままなし崩し、なことがたくさんあります。
ちょっと前までは失言ひとつで、しかもそれはさすがに揚げ足取りでは?と思うものでも、辞任に追い込まれるケースはたくさんありました。

今までがよかったかどうかは別にしても。
ここ最近、失言があっても、あきらかな「アウト」でも見逃されています。

「アウト」カウントがいくつになっても、いや、それをカウントしないことで、この長期政権が続いてしまっていて。
問題があっても「お咎めなし」で、今でもその人たちが「舵取り」をしているのって、どうなんでしょう?

ある一部の人だけ、スタートの時点から優遇され、失敗しても許される。
一方で、その「レース」に参加すらできない人たちが文句を言うと、どうしてこんなに反感を買うんだろう?
そうすると、おこぼれでももらえるんだろうか。

せやろがいおじさんの「批判することの重要性について一言」という動画がとにかくわかりやすいです。
特に、「三塁に向かって走ってるヤツ」の例えは秀逸。

この例えに乗っかるなら、今の政権は「走者が三塁二塁一塁本塁と進塁しても、一周して本塁に触れれば得点として記録する」と閣議決定してそう。



以前、『平々凡々な世の中』という歌をつくりました。
「平々凡々」という響きがおもしろいなと思って、ロックテイストな歌詞になるんじゃないかと。

結局は、ロックな曲にはなりませんでしたけど。
(アレンジ次第、かもしれませんが)

Aメロ1番に、こんな歌詞を書きました。

 そんなもて余すほど 心に闇を抱えて
 その矛先はどこへ向けるの?

批判とか、「誰かのせい」って、その〈矛先〉がすごく重要。

これは元々、「不安と武器」について書いた一文でした。
例えば、軍隊って必ずしも「自国民を守らない」。
守らないどころか、その〈矛先〉が市民の方に向くことは、歴史的に見ても明白なことです。

「私は政治的なことには言及しない」、もしくは「そういうのは好きじゃない」という人がいても、それはそれ。
問題は、そういう人が「政治のせいにするのはよくないよ」と言ったりすること。

それって、「政治的発言をした人」を暗に批判してますよね?
しかも、「政権批判などの発言に対して」だったりするので、すごく依怙贔屓的なんだけど、自覚はないのかなぁ。

それこそ、「誰かのせいにするなよ」って話。

公憤と私憤は違うのだけど、取り違える人(あえてかもしれない)って多い氣がします。

「タイムラインが荒れる」「政治の話ばっかりで疲れた」って人もいますけど、その〈矛先〉をこっちに向けないでほしいなぁ。
それはある意味正しく?「政治のせい」、なんだから。

むちゃくちゃな法案出してきて、説明も不透明、まったく「政治的責任」を果たしていない、それは世論が「NO」と言うべきことです。


ぼくだって、こんなに政治的な批判ばかりツイートしたくないよって思ったりもします。
だけど、それで黙っちゃったら、政治的発言をタブー化したい人たちの「思う壺」なわけで。

官房長官が記者会見で、検察庁法解釈変更に対して「周知必要なかった」という発言をしました(5月19日)。
これひとつとっても、民主主義の根幹を揺るがす大問題。

そう言えば、「思う壺」の壺って、博打のサイコロを振る「壺皿」のことなんですってね。
熟練の壺振り師なら、思った通りのサイコロの目が出せるんだそう。

そういう思惑等々知られずに、自分たちの都合のいいような「サイコロの目」ばかり出してきて。
そんなこと、できるはずがない、するはずがないって、騙され続けるのはもうそろそろ終わりにしましょうよ。

博打は知らないけど、政治はすべて「壺皿の中」では困るんです。
情報を公開しないで、「サイコロの目」だけ出されても、ただの「イカサマ」でしかない。


日本国憲法の第十二条にはこう記されています。

【この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民はこれを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。】

憲法は第九十九条にあるように、「国を縛るもの」であって、基本的には「国民への義務」を読み取るのはおかしい、と個人的には思っています。
だから、憲法のことで「国民の三大義務」なんて教わり方をするのは間違っている、と個人的には思っているんですけど。

もし、〈義務〉として考えなければいけないことがあるとすれば、それはこの「不断の努力」じゃないでしょうか。
つまり、権力はしっかりと監視する、おかしいことがあれば「おかしい」と声をあげる。

これをしてこなかった、もしくは足りなかったんですよね、長いこと。
普段からの「不断の努力」を怠っていた(ダジャレですね)。

自分は今までそうしてきたつもりだったけれど。
やっぱり足りなかったし、やり方がイマイチだったと思います。

今の政権の「どうせ国民は時間が経てば忘れる」という感覚も、民衆が知らず知らずのうちに「育てて」しまっていたのでしょう。

だから今、政治は〈ジブンゴト〉として、変わろうとしている。
変えようとしている。

声をあげないで、「政治のせい」「社会のせい」と思っているだけだったら、確かに問題があるのかもしれません。
それってやっぱり、楽なところで済ませているから。

SNSでも、他のことでも、声をあげるのってやっぱり簡単なことじゃない。

種苗法のことで、女優の柴咲コウさんが叩かれていたりして、本当に腹立たしいです。
そんなときこそ、「誰かのせいにするな」と大合唱すればいいのに。
それ、〈矛先〉違ってますよ、「政治のせい」なんですから。

柴咲コウさん他、種苗法に反対している人の認識が本当に〈誤解〉だとしたら、それを解くのが政治の責任でしょう?
それを「有名人が何も知らず法案を潰した」なんて、ひどい言い掛かりです。


最後に。
Choose Life Projectの動画で、ミュージシャン・俳優の浜野謙太さんと俳優の古舘寛治さんのやり取りがとてもよかったので、そのことを。

ハマケンさんの発言。
「古舘さんみたいなかっこいい人が、政治ツイートしながら、その位置にずっといれるんだったら、ぼくもがんばれば何とかなるのかな、っていうのがひとつの励みになってました」

それを受けた古舘さんが、「これ終わったら泣こうと思ってますけど」と喜んでいるのも含めて、とてもいいなぁと思いました。

「政治的発言する人の方がかっこいい」とか、「政治的信念をもった人の方が仕事が来る」とか、そういう社会にしたいとぼくは思います。
そういう発言をタブー化して、陰口だったり弱いものいじめ的だったり、それってほんとにカッコ悪いと思うし。
少なくとも、自分はそうはなりたくないのです。


追記:
写真は本文とは関係ありません、コメダの限定のシロノワールです。
(限定の詳細は忘れました)

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