選民しなけりゃ、何すりゃいい?

小さな頃からマジョリティになれず、マジョリティから「お前は間違ってる。修正されろ」と暴力を振るわれ、
自分は色んな人が持ち寄った「普通」と比べて、あんまり頑張れない脳みその限界を持っているのに、ついて行かなきゃ人生が追い詰められる恐怖を煽られ、
なまじ学校という枠組みでできがよかったと言われるまで上り詰めても、労働社会という枠組みに変わってから、褒美をもらえるどころか、頑張った分だけ蹴飛ばされ、ミサイルを撃ち込まれて爆発して、三途の川がうっすら見えて「手が届きそうだから行ってみたいな」と何度か思い……。

要するに、生まれてからずっと、「無理をしなかった」ことなんて覚えられないくらいでしかなかった私の生きた道。

運が悪いのか本当に自分が間違っているのか、はたまた物事の正誤関係なしに自分が異端故に疎まれただけなのか、出会った自称社会人の方々は一様に同じ世界にいるはずなのに、見ている世界のピントがズレてて、決まって私を否定し排外する。しかも恐らく人格まで否定した自覚を持たぬまま人格ごと切り裂いている。
今彼らがどうお過ごしなのかは見当もつかない。

そんな過去が祟って、選民思想に取り憑かれ、信念が揺れる。

食い止めようと、まずは今世の中にはびこる選民思想を知ろうとした。

軽薄で薄情な一挙一動で跳ね飛ばされる命という残酷さ。
一方で、何の対話も議論も相手の悪を加速させるために利用され、邪悪なる暴走を止めるには命を止めたり、人権を制限する他ないという現実。
そのジレンマを解決しようとする動きは、この社会では未だに見えてこない。


善の種は、意味もなく、わざわざ見えぬ内から掘られて捨てられる。


ガンダムとか言う作品を作った人は「たかが小僧っ子が~中略~世界を変えると言い張る。変えられるものか、世界は魔物なんだよ」という。

一方で、スティーブ・ジョブズとか言う人は「クレージーな人達がいる~中略~彼らはクレージーと言われるが、私たちは天才だと思う。自分が世界を変えられると本気で信じる人達こそが本当に世界を変えているのだから」という。

その他方で、マハトマ・ガンジーとかいう人は、「(あなたのすることは)世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」という。


何が正解なのか。興味はあるけど、どうでもいい。

やるべき事ならもう決まってる。

選民に至るかどうかのトリガーは「自分に同調や共感しないものに対して、『消えてなくなれ』以外を考え実行するか否か」だと知った。
「自分に刃向かうものの存在がどうしても自分の頭の中から消えず、不安や恐怖などの負の感情や感覚に襲われ続ければ、そうなってしまうのも無理はない」ということも予測できた。

しかし解せないのは、どんなに邪悪で社会に害をなして、それ以外が出来ない存在がいたとして、法や国家や宗教がどうあれ、そのあるがままを容認しないで対策打つというのは、「もう選民だよね」という揺るがぬ事実。


選民なくして社会はあり得ないか。
そうして出来た社会が害をなしたとき、止めるとするなら選ばれぬものか。
人類や世界はこの2つに1つを総意でどちらか選べと突きつけられたとき、どちらを求めるのだろうか。


結果を操作や改ざんできる多数決で築かれた歴史、それを知恵と仰ぐしかなく、けれどもそれらを打ち崩す何かを作り出すことを求める今に、今日も私は一人で悩む。

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