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2021/07/22 不気味の谷のアナロギア

前書き

注)この記事はフィクションです。一部事実が含まれる場合がございますがご了承ください。

注)今回は多少のグロ表現が含まれます。苦手な方は読まないことをお勧めします。

第2回『ミスターNの気まぐれくーろん』!

本記事はミスターNこと『ミスターN』が不定期に思い付きで書く机上の空論です。検証はしない。ファクトチェックもしない。省エネでエコに仮説を立てる。

暑さ憎しと空を見上げる前に、打ち水よりも早く記憶から揮発する空論で涼をとってはいかがでしょうか。

空論

今回の空論は不気味の谷の原因についてだ。

知っている人は知っているが、知らない人は知らない。不気味の谷現象。

念のために説明をしておこう。例えば目の前に人型のロボットがいたとする。その姿がロボット然とした金属むき出しのメカメカしいものから、ナマモノとしての人間の姿や人間のような有機的な動きに近づけていく。すると、その過程でロボットに対して気持ち悪いと感じる瞬間が訪れることを指している。

この原因は諸説あるようだが。私はここで一つの空論を立てよう。それは不気味の谷は死体に対する忌避が原因であるという空論だ。

人型ロボットは人間と形こそ似ているが明確に我々と違う存在だ。それは部分的にかつての姿を残しているが、腐敗したり中身がむき出しになって原形を失いつつある死体にも言えることではないだろうか。発想が飛躍しているように見えるが、この先を読めば腑に落ちるはずだ。

なお、この記事中の死体とは、単に死んだ人間の体を指している。

人間性の喪失の比喩として「死んだ魚の目のようだ」とか「歩く死体」とか聞いたことは無いだろうか。ちなみに私はその文言を聞いたことはあるが言われたことは無い。この記事を読んでいる諸公も、流石に言われたことは無い……はずだ。

これは人間性の対義として死体を挙げた比喩表現だ。より具体的には『人間性は生きた人間に宿るもの。故に人間性を失ったお前はもう死んでいる』という揶揄が含まれた皮肉だ。つまり、死によって人間性は喪失されるという前提が存在している。

また、ロボットが人間らしい感情や近しいロジックを得て行動を起こす作品はありふれている。ここからは、ロボットとは人間性の対義であるということが言える。

以上から、人間性が無いという点において死体≒ロボットが成り立つ。

話は急に変わって境界線の話をしよう。どんなものも境界線が存在するから個として独立して認識できる。例えば汽水域では淡水と海水の境が水中で見られるらしい。例え海水と淡水のように同じような見た目であっても、境界がはっきりと見えると両者が違うものであると意識させられるものだ。

さて、不気味の谷に話を戻そう。

この現象が発生するのは人間性とそうでないものの境界線上である。その境目はグラデーションのように曖昧に思えるかもしれないが、その中には確かに境界線が有るはずだ。何故なら、大半の人間は人間という存在が特別であって欲しいと願っているからだ。だから人間性の輪郭はハッキリしていて、明確に定義をしていなくても0か1かで判断してしまう。そうなると境界線を作り出す二つの要素である『非人間性』と『人間性』の双方は、シュレーディンガーの猫のような曖昧なものではなく、独立して意識することになるだろう。

ここで、不気味の谷の『人間とロボット』の組み合わせから『人間と死体』に置き換えてみよう。そうすると人間と死体の差異は人間性の有無であると同時に、その表裏一体である生死の差となる。そして、生死も人間性の有無と同様に、半死半生という混在した曖昧なものではなくそれぞれ独立したものだ。

ここまでを整理すると、人間性の有無の点から死体≒ロボットが成り立ち、不気味の谷の境界線上は『生』と『死』の境目とも言える。そして、境目を作る要素である『生』と『死』をそれぞれ独立して意識する状態になる

では、人間と死体の境界線近傍の死体の状態を考えよう。不気味の谷現象から類推するに、死体は境界線上に近づくほどに生きた人間に漸近するので、生きた人間に近しい外観となっているだろう。つまり、死んでいると分かるほどの損傷は有れど、肉塊という程損壊はしていないはずだ。死体の状態は数あれど、白骨死体や損傷の無い綺麗な死体よりも、眼窩に蛆の湧いたものとか、あれやこれやが中途半端に腐乱した状態の方がより忌避感が強い。

これは死体から感じる忌避の原因の一つとして自身の死をイメージさせる点があるからだろう。死体から生きている自分との相似を見出しながら、同時に死も見出しているのだ。だから忌避感の大小は死体の状態によって変化する死のイメージの大小という訳だ。

もちろんこれは忌避感の原因の一部を切り取って考えている。本来であれば忌避感の大小は腐敗臭だったり血の量だったり様々な要因がある。だが、ここでは『自身の死の想起』という点にのみ注目した。

自分に形状が近い状態で、且つ明確に死んだと分かる外観の死体であるほどに、その忌避の根源である死のイメージはリアリティを増す。逆に眠っているだけのように見えるくらいの状態では死の実感は希薄になり、骨だけの状態では自分から遠くなるのでリアリティが減る。実際に、丁寧にエンバーミングされた死体や骨格標本は腐乱死体と比較すると嫌悪感が少ない。

境界線上に近づけば近づくほどに死体から感じる死のイメージのリアリティは大きくなり、忌避感も大きくなる。境界線上を越えて生きた人間に近づくと忌避感は途端に薄まるのだ。

不気味の谷はグラフで表されることが有り、その場合は横軸に人間らしさをとり、縦軸に不気味度合いをとる。この横軸を白骨死体から生きた人間へ徐々に変化する死体の状態に変えてプロットをしても、そのグラフは似たような形になるのではないだろうか。

まとめ

不気味の谷で感じる不気味さは、人間が死体に感じるリアリティのある死のイメージを、人間に漸近したロボットから感じ取っているのかもしれない。彼岸と此岸の間に谷があるのなら、その谷は流れる水の浸食作用で出来たものだろう。

余談だが記事を書いている途中、神の似姿として人間が造られたという話を思い出した。無神論者の私はその話にあまり興味を持てないが、神が自身の似姿である人間に対して不気味の谷を感じるのかは気になるところだ。

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