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『トア』/サッシャ・ギトリ(1949)

おそろしいほどの企みに満ちた傑作。
現実世界での空間、というか一つの室内が丸ごと劇場の舞台にコピーされて、演劇として上演される。(偶然にも部屋の大きさと舞台の大きさは完全に一致している!)
開演前にギトリが観客に「脅迫状が届いた」という話をすると、観客席から元恋人が舞台のギトリに話しかけ、かけあいが始まる。
舞台の出演者もそのまま本人たちで、セリフも現実にあったことを話す。
観客席から追い出された元恋人は、いつのまにか舞台上に現れ、ギトリは舞台の中断を告げ幕が下りる。
ここまでの「ハプニング」がどこまで「演劇」に組み込まれているのか、舞台で何が起ころうと観客はそれを「劇」として受け入れる、またそうせざるをえないのが観客という存在なのだ。
再び場面が現実の室内に戻り、物語は再開するのだが、ここでもこれが本当に舞台上ではなく現実世界であるのかどうかは、誰にも確定することはできない。
そしてこれが現実の室内だろうと舞台上であろうと、これが「劇」であることに違いはなく・・・ということを考えている間に登場人物たちはとにかくしゃべりまくり、大団円を迎え映画の幕が下りる。
(確か室内のシーンで、ギトリが電話に出た時に自分ではなく誰か他の人になりすます、というようなことがあり、この場面もこの映画を考えるときに重要なものだと思うが、今はそこまで考えがまとまらない。)

「役をはきちがえたり、相手役や見物に無理なつきあいを強いたり、決るところで決らなかったり、自分ひとりで芝居をしたり、早く出すぎたり、引っこみを忘れたり、見物の反応を無視したり、見物の欲しない芝居をしたり、すべてはそういうことなのだ。だれでもが、なにかの役割を演じたがっているがゆえに、相手にもなにかの役割を演じさせなければならない。ときには、舞台を降りて、見物席に坐ることを許さなければならないし、自分もそうしなければならない。」

福田恆存『人間・この劇的なるもの』


『ヴェルクマイスター・ハーモニー 4Kレストア版』/タル・ベーラ(2000)

7つの惑星、ドレミファソラシの7つの音、鯨は神か災厄か、調性と無調、個と集団、革命と反革命、抵抗と転向、そしてタルコフスキーと大江健三郎(鯨!)・・・

この映画を暗く小さな映画館で観たのは15年前。
それまで映画をほとんど観たことがなかったのがこの映画をきっかけにこの小さな映画館に通い詰めるようになる。あの頃何を思ってあんなにも映画を観ていたのだったろうか、この鯨の目を見て何を感じたのだったろうか。

10月7日からパレスチナのことを考えつづけているが、ヌルいことをやっていてはいけないと改めて誓う。自分の行動のすべてをもっと先鋭化させなくてはいけないと感じている。ここに文章を書き始めたのもその試みの一つだ。ヌルい文章は、ヌルい映画は、ヌルい表現はもういらない。とにかく先鋭化させること。ヌルい文章は書かないこと。