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不当な因果論から自由になるために


はじめに

先日、哲学者•ヒュームの「人性論」の読書会に参加しました。かなり抽象的な議論で難しかったのですが、何とか少しずつポイントが見えてきたように感じています。


日常生活の中の不当な因果論


この内容を本当に理解することができれば、日常生活で私も含めて多くの人たちが苦しんでいるいわれのない「因果論」から解放される1つの助けにもなるのではないかと感じています。

例えば、私たちは日常生活の中で「私の育て方が悪かったから、こんな子になってしまった」とか、「あなたの指導が悪いから、あなたの授業で生徒は荒れるのですよ」と言われたりすることがあります。これらはいずれも因果関係について論じているといえます。

特に私のような小心者がこういったことを大きな声で言われたとしたら、思考が止まってしまい萎縮してしまい、その因果論の中でぐるぐる回って、自分を責め続けることになってしまうでしょう。

もちろん、私も含めて自分の子育てや指導の中身については、常に見直して向上させていく姿勢は持ち続ける必要はあると思います。しかし、それだけに、何か原因を求めて批判するのは、何か納得しがたいもやもやを感じるのです

その他にも、様々な怪しい宗教や、怪しいスピリチュアルの文脈で様々な怪しい「因果関係」が説かれて、その中で苦しんでいらっしゃる方も結構多いのではないかと思ったりします。

そんな中哲学の世界から1つの光を投げかけているのがヒュームではないかと感じました。ヒュームは、因果関係に対して非常に懐疑的なのです。


因果関係を問い直す

私なりの理解で大雑把に言えば、物事の因果関係を感じたといっても、それは自分の限られた経験の中での認識であり、それがすべての場合に絶対当てはまるとは言えないと言うところがポイントだと思います。

具体的に言えば、今回転んで怪我をしたとは言っても、次回転んだからといって必ずしも怪我するとは限らないということです。また、これは極端な例だと思いますが、りんごを手放しても、それが必ずしも次回地面に落下するとは限らないと言うわけです。

もう少し詳しく見ると「転ぶ」と言う出来事と「怪我」と言う出来事の間に、直線的な因果関係があるのかと懐疑的になるのが、ヒュームさんの基本的な考え方だと思います。さらに言えば、自分の頭の中で「転ぶ」と「怪我」の関係を因果関係と捉えたので、それが正解だと思ってしまったとも言えるのではないかと言うことです。

しかし実際は、怪我の原因は他にもあるかもしれません。転んだ地面にたまたま尖った石が出ていたとか、もともと、その人の身体的なウィークポイントがあったのかもしれませんし、転ぶことで、周囲の注目を引きたいと言う目的があったかもしれませんし、本当の原因は特定できないということです。

これは、哲学的に言ったら、物事の原因は、形而上学的な次元に属することであり、カント哲学が述べたように、私たちは客観的事実のみならず、絶対的な真理にも到達することはできないということとつながる話だと思います。

しかし、人間は具体的な出来事にはまってしまうと、どんどん視野が狭くなり、簡単な一直線の因果論にはまってしまいがちになると思いますが、もう少しメタな視点で見たら、ある出来事の原因を1つに特定することなど到底不可能であると言うことが見えてくると思います。



なぜ因果関係を疑うのか

しかし、ここで注意したいのは、ヒュームは日常生活の全ての因果関係に対して懐疑的になれと言っているわけではないと言うことです。もし日常生活の全てに対してその因果関係を否定するのであれば、生活自体が成り立たなくなってしまいます。

例えば、お腹がすいたから、何かを食べるということについても、それに懐疑を抱いたら、ひょっとしたら、食べ物をいつまでたっても口に入れることができない結果に結びついてしまうかもしれません。

したがって、ヒュームさんのこうした議論は、必要な時に用いられるべきだと考えるべきでしょう。少なくとも、当時の歴史的な背景を考えると、当時は、それまでの様々な迷信に抑圧された専制政治が終わり、新しく科学や理性が尊重される時代へと移行する時だったということが見えてきます。

つまり、人々が長い間迷信という名で言われのない幻想としての因果関係の中で苦しんでいた状況を、なんとか打開したいと言うヒュームさんの意図も、そこにあったのではないかと思われるのです。


おわりに


もちろん、ヒュームさんの経験的懐疑論は、今日様々な観点で批判されると思いますが(例:人間の知識は経験によらない数学的知識もある)、人々をいわれのない因果論から救い出したいと言うその意図は十分に尊重されるべきではないかと考えます。




野中恒宏

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