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エブリリトルシングをともだちに

ちょっと前には想像もできなかったような信じられない世界が目の前に展開している今日この頃。テレビやインターネットでは、気を滅入らせるような情報が飛び交っています。

人間は何か新しい状況に遭遇すると、それがネガティブに感じられても、ポジティブに感じられても、浮き足立ってしまうものです。

何か全てがドラマチックで、映画やドラマの世界を生きてるような劇場感覚が沸き起こってきたりします。

しかし、実はそれは頭の中のだけの話で、実際はもっと別のことで私たちの生活は満たされています。

それは、「一つ一つの小さなこと」です。

例えば、朝起きて布団をめくったり、ベッドから起き上がったり、トイレに一歩一歩足を進めたり、シャツに袖を通したり、コップを持ち上げたり、窓の外で聞こえる鳥の声に耳を傾けたり、呼ばれたのでそっちの方を見てみたり、ラップトップコンピューターのふたを開けてみたり、机の引き出しを開けてみたり、椅子に腰かけてみたり、鉛筆をピックアップしてみたり、私たちは無数の「小さなこと」をすることによって、生活を成り立たせています。

しかし、何か新しいことに遭遇して頭の中が不安でいっぱいになったり、あるいは、過去のことに取り付かれて過去の後悔などで頭がいっぱいになったりしていると、そうした将来や過去のことが頭の中で巨大になってしまって、それ以外のものがあることを忘れてしまいがちになるのです。

私たちは、人生でどんなに辛い体験をしても、どんなに嬉しい体験をしても、先ほど例に挙げたような「小さな一つ一つの事」を止める事はありません。病気で体が動かなくても、呼吸をしたり、瞬きしたり、頷いたり、指を動かしたり、私たちは何らかの形で小さな一つ一つのことをしているのです。むしろ、小さな一つ一つのことの方が私たちの生活をより多く満たしているのです。

なんでこんな話をするかと言うと、エックハルトトールさんも言っていたのですが、こうした「小さな一つ一つの事」に意識を向けることによって、意識が「いまここ」に戻り、我に返るというか、静寂を体験できるからなのです。

頭の中が、過去や未来のことでいっぱいになっていると、大量の思考や感情のダウンロードが止まらず、まるで自分の思考や感情がすなわち自分であるかのような錯覚に陥ってしまいますが、思考や感情は自分そのものではありません。自分そのものを感じることができるのは、今ここの静寂の中だけなのです。

今世界的に、「手を洗うこと」が歴史上なかった位に強調されています。これは別の観点から言えば、日常生活の中における「一つ一つの小さなこと」に意識を向けて、今ここを生きるというか、正気を取り戻しなさいよと言うメッセージにも受け取れます。

日常生活の中に無数にある「一つ一つの小さなこと」と友達になってみましょう。私たちが正気に戻る手助けを「いまここ」でやってくれます。どんな時でも。

オーストラリアより愛と感謝を込めて。
野中恒宏

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