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【#19】私はタマネギになりたい。

私はアイデアを生業としている。つまりは流行り廃り、世の中の動きやこの先、実際にはそうならないかもしれないけれど、そうなるだろうとマコトシヤカに信じられていることに影響されるような(例えばノストラダムスの大予言みたく実際には来なかった”噂だけの世紀末”よろしく、これからは◯◯時代!◯◯社会!みたいなのに踊らされる)会社の中にいる。

人様ならぬ会社様からサラリーをもらうということは、雇い主側の要求に応えることの対価であるはずだが雇い主側がいつだって正解を持っているわけでもなければ行き先を知っているわけでもない。船舶も船長の他に水先案内人がいなければ浅瀬で座礁するのと同じで、時には大きな大きなベクトルに背いてでも船を港までつけられれば評価に値する。

ところが個人には自己実現という大切なものがあり、自分で自分のお尻さえ拭えるのであればいかなる地位の人間であっても口を挟む立場にはない。自分の道と会社の道の半ば、お互いに交わり合う部分で、それぞれの”折り合いの付け方”が握り合えた時、条件と対価が決まる。

会社が右だといえば右。それに習います。僕はそういう人を否定はしない。これは凄いことだ。もし自分というものを持っている人間であればあるほど、自分を殺して身を委ねるのは生き地獄でしかなく、会社に反発している人間のほうが圧倒的に幼稚。これは間違いがない。しかし幼稚で行くには信じられないほどの意地が要る。のたれ死んでも関係ない。そこまでの意地だ。どちらにもならず影を潜めて定年を待つ人間が一番価値がないのだ。

なぜこんなことを書いているのかといえば、僕は長い年月をかけ突き進むべき自分の道を見つけ、鈍足ながら歩を進めている時、全く違う電車に乗れと言われている状態だ。そこそこ経験もある。だから、やったら出来てしまう。しかし残念ながら僕にも、誰からも邪魔の出来ない人生がある。あとは、野垂れ死ぬほどの意地を張り通せるかどうかにかかっている。

タマネギは素晴らしい。素晴らしいが、本当の顔を知られてはいない。刻んで水に晒すとシャキシャキになる。根気よく炒めると甘くなる。でもタマネギそのものが持つものをジックリと滲み出すことが出来たなら、こんなにも厚みと深みと優しさがあったのかと驚くほどの滋養に満ち満ちている。自分由来のものだけで勝負する本来のタマネギ、そんなものに私はなりたい。

タマネギをまるまる一個煮るときには野田琺瑯ホワイトシリーズのスクエアを使う。雪平などと比べると、煮えは弱いと思う。けれどタマネギ一個をドラム缶風呂のごとく沈められ、直火にかけ、さらに保存ができるすばらしさがある。コトコトと、途方も無いくらい、あせらず弱火で醸すように。持っているものすべてが滲み出るように。肉にも魚にもこなせない、タマネギにしかできっこない主役の張り方は熟練の名俳優が顔に刻まれたシワひとつで我々を惹きつけるかのようで、頭を垂れる思いがする。

人生を終える時、誰のせいにもしたくはない。どうせ未練がましくみすぼらしく死んでいくことは折込済みだけど、ピンボールの球のように他者の意思で右に左に弾かれるために生まれてきてはいない。その球に手も足も脳もついていて、自分はこっちに歩くと言った時、それをどうするかは好きに決めてくれれば良い。僕には突き詰めるべき道があり、もうそこを歩いていて、それで失敗しても僕の責任だと、とっくに決めているのだから。味は保証する。口に合わなきゃ、サヨナラだ。

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