ただの無力感

以前に比べて、感情が溢れてどうしようもなくなってしまうことが増えた。やり場のない思いを誰かに伝えたいのだが、元来他人に相談をするということをあまりしなかった私には適切な相手がいない。
こうなってしまうと手がつけられない。気持ちに因果関係を見つけて無理にでも整理したがる私にとって、正体もはっきりしない激情はストレス以外の何物でもない。

大学院の修士課程を修了することになり、こういう状況だが何もしないのも切ないと研究室の同期数人で小さな日帰り卒業旅行に出掛けたのだが、そこでたまたま何人かと一対一で話す機会があって、その度ごとに今さらのように、ああ、この人はこういうことを考える人だったのだ、と発見することになった。
もうあまり会うこともないという未来が私たちを普段より饒舌にしたのかもしれず、そうなると数々の発見が今さらになるのもやむを得ないわけなのだが、しかしもう会わない彼らの中に孤独で尊いものを見つけてしまったことが、もう塗り替えられない事実となって私の胸を苦しめたのも同様に必然のことと言えるのだろう。

例えば私が酒を片手にこのような話をくだくだと続けたがったとして、それを迷惑がらずに正面から、いや片手間にでも聴いてくれる人は果たしてどのくらいいるだろう?
もともと私がそういう人付き合いの仕方をしなかったためでもあるが、浮かぶ顔の数は片手で数えれば十分に足りるようだ。
彼らはそれぞれの孤独な魅力を持っていて、そこに私の感動を映してみたい、そうすれば互いに何かが得られるはずだ、少なくとも何かの価値を共有することくらいはできるはずだと、そう信じることのできる人々だ。
そしてそれはとりもなおさず、私が今にも失おうとしている同期たちのことでもあったのだ。

この整理のつかない、やり場のない悲しみに十分な言葉を与えることすら今の私はできずにいる。
そうしてむざむざと別れを重ねていくしかないのだろうか?
満足な成就のない関係にも価値はあるのだという、必ずしも嘘ではないが普遍的でもない傷の舐め方に今日も頼りつつ。


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