同じ線の引きかた

人間は集団になると他人を傷つけることに無自覚になる、と思う。誰もがやっていることならば、悪いことだと内心ではわかっていても、反省せずにできてしまう。

これはやや幼い例えだが、中学校のクラスのLINEで、誰かが明日の宿題に関する質問をする。自分はそれを見て、欲している解答を教えてあげることができると思ったけれど、誰も答えないから名乗り出る勇気がなくて、そのままにしておく。まあ、あまり出しゃばるとクラスでの立場が危うくなってしまうから、静観している方が総合的に見て吉、というような判断もありうるかもしれない。
経験を積んでいって大人になれば、質問者は訊き方が悪かったのだと察して、自分が無視されたとは感じなくなるのかもしれないが、まだ力加減のわからない中高生のうちはこういうことに一々傷ついてしまい、悪く進めば諍いの原因にもなる。
当然、自分だってグループではなく個人LINEで訊かれれば、親切に教えてあげることはできただろう。そうだとするならば尚更、グループでの質問に答えなかった自分は、傷つきうる相手を黙って見過ごした、ということになる。

最近で言えば、11都府県で緊急事態宣言が発出された今日この頃だが、前回に比べて人々が油断しているように感じられるというか、良心の呵責なく不要不急の外出をする人が増えているように思う。もちろん、過去の二つのピークよりも規模の大きい第三波を迎えた今、事態の完全な終息はしばらく先のことだと判断してそうする人も多いのだと思うが、それとは別に、みんな出掛けているのに自分だけ我慢するなんてやっていられない、という気持ちの動きもやっぱりあるのではないか。さすがに誰も外出していない世の中だったら、自分一人だけのうのうと遊びに出る勇気はなかなか出ないだろう。

私は最近、こういった出来事に幾つか遭遇し、他人の無神経さを痛切に感じたが、しかし冷静になって我が身を振り返ってみると自分も似たようなことをしている気がしてくる。
こうしたときに、それでも悪いことをした人を、自戒の意味も込めつつ真っ直ぐに非難するべきものだろうか? 理想的にはそうだと私は思うが、あまり厳格に倫理やルールを守りすぎても、究極的には息が詰まって暮らせない社会になってしまうだけだという気がする。
しかしながらそれを集団のせい、人間の性質がそもそも悪いのだとすると、この世から反省は消え、それこそ無法地帯になってしまうだろう。
自己批判も、他者批判も、結局はバランスなのだと思う。常に自問し、世間の潮流も察知しながら、その境界線をアップデートし続けるしかない。
それでも容赦ならないものを感じたとしたら、他人一般が緩すぎる、あるいは厳しすぎると感じてしまったとしたら。そこが自分の個性だと開き直って、同じような線の引きかたをしている他人を探すくらいでいいのかもしれない。

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