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あまり意味がない文が好きだと気づいた

 どうもMr_noiseです。
 昨日の夕方、原付に乗り、信号待ちをしていたら、美容室のチョークボードが目に入りました。黒板式の看板で入り口前に置いて、今日が何の記念日だとかを書いてたりするアレです。

 書かれていた文は「天皇誕生日は天皇の誕生を祝う日です」

 あまりにも意味が薄い文で、読むと一瞬で気が抜けて、ゆるい気分になりました。何だそのわざわざ書く意味がなく、わざわざ読む意味もないような文。黒板のそこはもっと気が利いた文句を書くところだろう。でもなんか好きだなと思いました。

 日常で見聞きする文はどんな文でももっと意味が込められています。「あなたとコンビに、ファミリーマート」みたいな広告コピーだったり、「1km先 すき家」だったり、客引きをする狙いが明確に込められている文ばかりが生活の隣にあり、新聞を読むとたいそうな事件が簡潔な文にまとめられ、ネットを読めば140字以内で誰かが大喜利コメントをし、今年も誰かが誰も書いたことないことを書いて芥川賞をとる日常に僕は生きています。

 プレバトというテレビ番組では芸能人が俳句の出来を評価され、5・7・5という短い文の中でどれだけ無駄なく誰も読んだことない風景を表せるかを競っています。夏井先生が「この2文字を変えるだけで、あなたが言いたかったことを伝えられます」と言い、僕は「へえ」とうなづき、感心していました。

 ああそれがダブルミーニングになってるんだ。逆から読むと意味が変わるコピーなんだ。「彼女」は主人公のことでは最初からなくて、読者をだまそうとした叙述トリックだったのか。でも政治家の言う「善処します」はするのかしないのかよくわからなくて、セレンディピティが仕事のインセンティブになるのにはエビデンスがあるのね。日本語は難しいね。

 そんな日常の中で「天皇誕生日は天皇の誕生を祝う日です」という何も説明していないに近い26音の文。

 頭痛は頭が痛いことです。前髪は前の髪です。木箱は木の箱です。絵本は絵の本で、青空は青い空で、昼飯は昼の飯で、車道は車の道です。恋人は恋する人で、他人は他の人です。炒飯は炒めた飯で、箸置きには箸を置きます。

 書く必要も言う必要もないけど、何の狙いもない。読む側に何の期待もしていなくて、何も書くことがないから隙間を埋めただけくらいの文。歴史のテストで「この三語を使い、大化の改新を説明しなさい」と問われているけど、何も頭に浮かばないときに、三語を繋げて答案に書いただけみたいなそっけなさと開き直りに満ちた文。

 でも何か問題がある文かと問われればそうでもない。

 文なんてそんなもんでいいんだと思える。全てが特別な文である必要なんてないや。文章表現は自由は「自由だから特別なことを自由に書け」と思いがちだけど、別にそうでもないや。気楽に書けばいいや。毎日、特濃な牛乳を飲んでいたらきついわ。うっすいお茶の方が休まることがあるように、うっすい意味の文で、気楽になれて救われる日もあると思いました。

 気楽とは気が楽なことです。


#エッセイ #コラム #文章について



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