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「関係の意識」と「場の意識」の双対構造について。

本当は、何が起こっているのでしょうか。

「関係の意識」と「場の意識」は、何が違うのかを、今までに何度も述べて来ましたが、おそらく「場の意識」につきましては、その実在に、疑問を感じている方が多いことかと思います。

「場の意識」とは、「心」の事であるとも、折に触れて述べて来ました。

ではなぜ、わざわざ「心」と言わずに、「場の意識」と呼ぶのかと言いますと、「心」と言う「言葉」に、旧来のイメージ(宇宙観)が付きまとうからです。

つまり、「思考」と「心」が、「不可分の全体」となっており、「排他的」で「二元的」な姿を共有して居るからです。

「思考」の表現で言えば、明と暗、大と小、重と軽、冷と暖などがあります。

「心」の表現で言えば、明るいと暗い、大きいと小さい、重いと軽い、冷たいと暖かい、などがあります。

これらは、重なり合いながら、特定の出来事に「固定したイメージ」を形作ります。

別な表現を使えば、前者は、『比較可能な「量」』として、後者は、『イメージを伴う「心の動き」』とも言えそうですが、「同一の空間内」に存在していて、「この世界の理」を、「自己と他者の関係性」の中に形作ると考えます。

それではこれを「関係の意識」と「場の意識」と呼んだなら、何が変わるのでしょうか。

「関係の意識」につきましては、先に挙げた、『比較可能な「量」』に変換が可能な、「思考」のプロセスを指しています。

そこに「心の動き」、つまり「情動」の入る余地は、微塵もありません。

つまり、「科学的合理性」がこれに当たります。

ここには常に、「二元」へと変換が可能な「量」が存在しています。

では、「場の意識」はどうでしょうか。

これは、『イメージを伴う「心(感情)の動き」』がこれに当たります。

多くのスピ系の表現では、この「イメージから喚起される感情」が、「ポジティブ」か「ネガティブ」かで、「エネルギーの流れ」として取り扱いますが、「定量化」が不可能な表現としての理解が、不足している様な気がします。

これらにも「ポジティブ」か「ネガティブ」かの「二元相対と似た」感情の流れが存在しますが、「確定した量」としての表現が不可能なダイナミックな出来事となっています。

よくゲーム等で、「価値や意味」を「量」として扱うシチュエーションを見掛けますが、「独りよがりの固定したパラメータ」となってしまい、「所詮ゲーム」を免れません。

そこには本質的な「価値や意味」はなく、同一のパラメータで、同一の結論へと導かれる、「一意な出来事」とさせています。

おそらくは、いくら精巧にゲームを作り込んだとしても、「本物の人生」と比較したなら、常に後付けのシミュレーションに過ぎません。

さて、では、何が「場の意識」をそうさせるのでしょうか。

ここにあるのが「不確定」性です。これは、「不確実」性とは違います。「不確実」性は、統計的で偶発的な「関係の意識」の出来事です。

「不確定」性には、「場の意識」の次元が関与します。

これが、「場の意識」を「場の意識」たらしめる、「超越的な出来事」にさせています。

人生は、ある「一つの出来事」を「一意」とせず、時間を遡って、「価値や意味」を決定します。コンピューターゲームの様に、アルゴリズムで固定化されたシナリオは、一つもありません。

「場の意識」の次元がシフトしたなら、人生のシナリオそのものが創造的に進化します。

これは、私の人生に起こった出来事の「場の意識」による解釈から、断言できるのです。これは、多くの偶然(奇跡)を貫いて、合理的で無理のない「不確定」な出来事として、理解が可能です。

もしこれを「関係の意識」で判断したなら、私の意識が同一次元内に固定化されてしまい、「不確実」な出来事として「偶然」や「妄想」の一種と理解するしかなくなります。

そして、多くの矛盾から、精神に混乱をきたすことも、あり得るのです。

これらを意識しながら人生を歩めば、更なる可能性が無限に広がるのです。

「関係の意識」と「場の意識」の双対構造は、「場の意識」の動機を先手に行動する事で得られる、「ポジティブで豊かな人生」を指し示す、「羅針盤」として役立つのです。

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